ゾンビという名の夢 欧米人はなぜゾンビ映画が好きなのか

唐突で申し訳ないが、思いつくままに、ゾンビ映画を頭の中でピックアップしてみてほしい。
『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』
ゾンビ
『ゾンビランド』
『バイオハザード』
『28日後…』
ワールド・ウォーZ
アイ・アム・レジェンド
『ショーン・オブ・ザ・デッド』
などなど、様々な作品が簡単に浮かんできたはずだ。

その中に邦画はいくつあっただろうか。個人的には『カメラを止めるな!』が思い浮かんだが、あれを純然たるゾンビ映画としていいのかは疑問が残る。

このように、ゾンビ映画と言えばその多くが海外、欧米の映画となるだろう。ではなぜ欧米人はゾンビ映画が好きなのか、その理由を考察してみたいと思う。

アメリカで生まれ変わったゾンビ

元々ゾンビはハイチに伝わる、ブードゥー教によって蘇った死者のことだ。彼らはまさに生ける屍であり、それ以上でもそれ以下でもない。
彼らはただ思考力を持たない愚鈍な奴隷として酷使される。
1932年に公開された映画『恐怖城』は最古のゾンビ映画の一つだが、今作ではゾンビに襲われる恐怖というよりもゾンビになってしまう恐怖が描かれる。
『恐怖城』のゾンビはブードゥー教のゾンビどからだ。彼らは人を襲うこともない。ただ永遠に人格と意思を無くして奴隷同然に働き続けるのだ。

だが、そんなゾンビの姿も大きな転換点を迎える。1968年に公開された『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』だ。
同作ではゾンビが生者の血肉を求めることや、ゾンビに噛まれた者もまたゾンビになるなど、今日一般的にイメージされるゾンビの在り方を決定づけた。
監督のジョージ・A・ロメロは本作の設定を1954年に出版されたリチャード・マシスンのSF小説『地球最後の男』から着想したという。『地球最後の男』は世界の大多数の人間が死に絶えて吸血鬼となった世界が舞台だ(実際には1959年に製作されたエド・ウッドの『プラン9フロム・アウタースペース』にもゾンビに襲われた人間もまたゾンビになると思しき描写がある)。

ゾンビが示すハルマゲドンと終末世界

さて、このようにアメリカでゾンビの設定とイメージは大きく生まれ変わることになった。
そしてゾンビ映画の内容は自らをゾンビにされてしまう恐怖よりも、「ゾンビがあふれる世界でどうサバイバルしていくか」が主なものとなる。そして、その中にはいくつかの決まったパターンが多いことにも気づかされる。

一つは主人公たちにはある目的地があるということだ。『バイオハザードⅢ』や『アイ・アム・レジェンド』、『28日後』では主人公やその仲間が「何処かに安全な土地がある」という希望を信じて、その危険を冒しながら、その場所を目指す。
これは旧約聖書における約束の地を思い出させる。その中での約束の地とはカナンのことだ。旧約聖書では、神はアブラハムの子孫にカナンの地を与えることを約束したという。 だが、アブラハムの子孫の一人であるヨゼフは、12人の兄弟の中で特別に父ヤコブから寵愛を受けていたために、他の兄弟から疎まれ、エジプトへと追われてしまう。
しかし、ヨゼフはエジプトで奴隷の身から為政者の地位まで上り詰め、兄弟と和解、一族をエジプトに呼び寄せて暮らすようになる。

彼らの子孫はエジプトで繁栄していくのだが、当時のファラオは彼らを脅威に感じ、奴隷として酷使していく。そんな中、立ち上がったのがヤコブの子孫であるモーセだ。
彼は一族とその家族を率い、約束の地を目指してエジプトから旅立つ。
モーセは神から民を導くものとして選ばれた存在だが、その姿をゾンビ映画の主人公たちに重ね合わせることもできるのではないか。
主人公は英雄的に死ぬことはあっても、ゾンビになることはない。つまりそれはある意味で「選ばれた存在」とも言えるはずだ。

また、ゾンビ映画は既はゾンビに支配された世界が舞台になることも多い。例えば『アイ・アム・レジェンド』や『ワールド・ウォーZ』では地球規模でゾンビが蔓延した世界が舞台だ。『28日後』はロンドンが映画の舞台だが、世界への蔓延を食い止めた代わりにロンドン市内はゾンビが数多く存在しておる。また、『バイオハザード』はアンブレラ・コーポレーションという一つの建物が舞台だが、そこはT‐ウイルスによってゾンビと化したアンブレラ社員でひしめき合っている。
それは聖書におけるハルマゲドンの終末世界に重ね合わせることもできるだろう。
観客はゾンビ映画における主人公たちのサバイバルを通して、主人公と同じスリルや恐怖を味わうはずだ。それだけであれば普通のアクション映画でも事足りるが、「神に選ばれて約束の地へ向かう」感覚はゾンビ映画でしか味わうことができないだろう。

ゾンビという異世界転生

興味深いのは、ゾンビ映画の主人公は気づかぬうちに、いつのまにかゾンビだらけの世界で暮らすことになるという設定も散見されることだ。例えば『28日後』の主人公であるジムは普通の配達員の若者だが、事故によって長い昏睡状態に陥り、目覚めた時には既にロンドンは生存者はほぼなく、ゾンビだらけの街と化していた。『バイオハザード』のアリスもそうで、彼女は何らかの事故により記憶を無くした状態で目覚め、すでにゾンビが増殖したアンブレラ社へ向かう。
これは日本で流行った異世界転生モノの欧米版と言えるのではないか。特にアリスの正体は凄腕の特殊部隊員だ。実社会では冴えない暮らしでも、異世界だと超人的な活躍をする「選ばれし者」であるという異世界転生モノと共通する設定をゾンビ映画は持っているというのは考えすぎだろうか。
元々ブードゥー教によって蘇ったゾンビという存在は、アメリカで欧米風に生まれ変わったと言える。個人的にはそこでゾンビの設定やゾンビ映画のストーリーが聖書やキリスト教と親和性の高い物語に置き換えられたとしても当然ではないかと思う。

日本でゾンビ的な物語が生まれなかったのは、日本における怪談の恐怖はモンスター的な恐怖ではなく、怨念や恨みなどの「情」の恐怖が勝っていたからだろう。
ジャパニーズホラーの代表作『リング』も貞子の生前の怨念が恐怖の核であるし、また古くから伝わる怪談話、『番町皿屋敷』も無実の罪で殺されたお菊の無念と怨念が恐怖のもととなっている。
比べると、ゾンビはそもそも、その情の部分を持たず、食欲という本能だけを残した怪物だ。
また、日本は火葬がほとんどであり、死体が甦るという恐怖は今ひとつリアリティがなかったのではないかとも思う。

こうしてみると、日本人と欧米人で「何に恐怖を感じるか」という違いが分かってくるような気がする。
欧米人にとってのゾンビは、幽霊ではなく怪物なのだ。そして、その怪物が跋扈するハルマゲドン的な終末世界で、モーセのように神に選ばれたものとして、「約束の地」へ向かう。その英雄譚を疑似体験できることが、ゾンビ映画が欧米で流行を繰り返し、幾度も求められている理由ではないだろうか。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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