2022年に公開されたデイミアン・チャゼル監督の『バビロン』はサイレントからトーキーへと移り変わる時代のハリウッドを舞台にした作品だ。
『バビロン』では『ハリウッド・レビュー』や『ジャズシンガー』など今も現存する当時の実際の映画が取り上げられている。だが『ハリウッド・レビュー』にも出演したジョン・ギルバートの主演作『聖者エルモ』や『狼の血』はもう現存していない。そんな映画を「失われた映画(ロストフィルム)」という。
失われた映画(ロストフィルム)
まだ映画が後世に残すべき芸術と思われていなかった頃、映画を「保存する」という考えはメジャーではなかった。
マーティン・スコセッシが立ち上げたフィルム・ファウンデーションは1929年以前に製作された映画の9割以上が失われたと推測している。
失われた理由は大きく分けて、フィルムの劣化や焼失、または意図的に廃棄されたかのどちらかだ。
2009年に公開されたクエンティン・タランティーノ監督の『イングロリアス・バスターズ』ではヒトラーを含むナチスの高官を招いた映画のプレミア上映で、その映画館の館主であり、家族をナチスに殺されたショシャナがヒトラー達の皆殺しを計画する。映画館の扉を閉めた上で、映画館に火をつけて、ナチスの高官達を焼き殺すのだ。そのための着火材として選ばれたのが大量の映画のフィルムだったのである。
それほどまでに当時のフィルムは燃えやすかったのだ。
実際、1937年に起きたフォックス社の保管庫の火災では4万本以上のネガフィルムやプリントが焼失している。
また、映画の保存にそもそも積極的ではなかったという側面もある。1927年に公開された『ジャズ・シンガー』をきっかけに本格的なトーキー時代を迎えた映画界では、もはやそれまでのサイレント映画にビジネスとしての価値はないと思われていたのだ。つまり映画そのものを芸術として見ることはまだ浸透していなかったとも言えるだろう。
『バビロン』では当時のハリウッドの享楽で快楽主義的な日常が描かれる。彼らは映画を愛する者というよりも、映画を利用して成功したい者たちだろう。それほどに当時のハリウッドは眩しく輝かしい場所だった。
映画がビジネスの道具だった時代
『バビロン』は興行的には大失敗となった映画だった。その原因としてはあまりに長い上映時間とチャプターごとに様々なジャンルを横断してしまう、奔放かつ無制御な展開にもあるのだろう。もちろんチャゼルは確信犯だ。
ラブストーリーも、人間ドラマも、サスペンスやホラーもすべて一つの映画のなかに詰め込んでしまいたかったのだろう。それは映画監督としてではなく、映画人としてのチャゼルのこだわりなのだと思う。
チャゼルはなぜ『バビロン』を撮ったのだろうか。チャゼルは2016年の映画『ラ・ラ・ランド』でもハリウッドで成功を夢見る若い二人を主人公にしている。
『ラ・ラ・ランド』がハリウッドの光だとすれば、『バビロン』は闇だ。チャゼルは「そのハリウッドの複雑さ、豊かさを語るにはその二つの側面が必要だ」という。
今、個人的に『バビロン』を振り返って思うことは、『バビロン』で描かれていた時代もまた映画がビジネスの道具として描かれていた時代なのではないかということだ。それは現代の映画業界にもつながるテーマだ。
だが、それでも当時のハリウッドには多くの人を惹き付ける熱気に満ちていた。映画それ自体に大きな影響力と未来があったからだ。
「いや、でもその時代の多くの映画は失われているでしょう?」
多くの人はそう思うかもしれない。だが映画を通して一瞬でもその時代に思いを馳せたならば、それこそがチャゼルの願いではないだろうか。
ハリウッドの光も影も、そしてそこに集った多くの人々の生きた証も、そのほとんどが失われたとしても、そこに誰も居なかったわけではない。
ちなみに失われた映画は個人の収集家がフィルムを保管していたなど、まれに失われた映画が見つかることもある。
2020年には日本で1926年に公開され、長らく失われた映画と考えられてきた『STOP,LOOK AND LISTEN』の最終巻のフィルムが見つかり、映画史の一大発見になった。そんな映画は貴重な芸術として丁寧に保存される。
『バビロン』が描いたいくつかの映画、当時のハリウッドですでにスターであった人々、彼らを取り巻く評論家、そしてハリウッドに魅せられた若き野心家たち。彼らももうどこにも残っていないのかと思うと寂しい気持ちになる。しかし、今はもう残らないフィルムに刻まれた人々のおかげで今日の映画はあるのだと思う。