核兵器の恐怖から生まれた怪獣
ゴジラは核兵器の恐怖から生まれた怪獣であることはよく知られている。
1954年に公開された、第一作目『ゴジラ』では、その正体はジュラ紀の恐竜が核実験により安住の地を追われたものとの台詞がある。
しかし、ゴジラの肌は爬虫類のようなウロコではなく、また火傷の跡のようなケロイド状の表示をしている。また、映画には登場しないが、ゴジラの初期デザインの頭部は原爆のキノコ雲をモチーフにしたものだった。
初代ゴジラは前述の通り、正しくは核実験により安住の地を追われた恐竜なのだが、のちの解説ではしばしば「核実験により誕生した怪獣」と説明されるのも、ゴジラのデザインを考えると納得できるものがある。
誕生の経緯がどうであれ、ゴジラが核兵器や放射能の暗喩であったことは間違いない。ゴジラが通ったあとは放射能で汚染され、被災者が収容された避難所にはガイガーカウンターが鳴り響いている。
後の特撮映画において、放射能は生物を突然変異させたり、巨大化させたりして、簡単に怪獣に変えてしまう魔法のアイテムになってしまったが、その根本は核兵器の恐ろしさをゴジラの姿を借りて描いたもので、明確な反核映画でもあったのだ。
『ゴジラ』は封切りとともに大ヒットとなり、961万人という驚異の動員数を記録した。ちなみに『ゴジラ』が公開された1954年の日本の人口は8821万人なので、十人に一人以上は『ゴジラ』を映画館へ観に行ったということになる。
スティーヴン・スピルバーグをも驚かせた『ゴジラ』
『ゴジラ』人気は日本のみならず、海外にも広まった。当時のハリウッドでは巨大生物を描く際はストップモーションが主流だった。ストップモーションはいわば「コマ撮り」であり、どうしてもカクカクした不自然さが残ってしまう。
その点、『ゴジラ』で採用された着ぐるみ方式ではストップモーションより遥かに自然な動きを表現することができた。
幼い頃に『ゴジラ』を観たスティーヴン・スピルバーグは、なぜあのように怪獣を滑らかに動かせるのかわからなかったと述べている。
だが、海外で公開された『ゴジラ』はアメリカ側が独自に編集した『ゴジラ』であり、重要なテーマである反核のメッセージはそぎ落とされ、単純な怪獣エンターテインメントになってしまったという。
日本の『ゴジラ』シリーズも、続編が作られる度に反核のメッセージは無くなり、子ども向けの「怪獣プロレス」が繰り広げられる作品が主になってしまった。
それでも『ゴジラ』シリーズは海外で人気を保ち、東宝にとっては『ゴジラ』シリーズは外貨獲得のための貴重なコンテンツでもあった。
ゴジラのエンターテインメント化
現在、モンスター・ヴァースとしてハリウッドでも独自に『ゴジラ』シリーズが作られているが、『GODZILLA キング・オブ・モンスターズ』以降はやはりゴジラのエンターテインメント化が進行してしまった。
ハリウッド版『ゴジラ』はこれまでに5作品が公開されている。
最初は1998年に公開された、ローランド・エメリッヒ監督の『GODZILLA』。こちらはトライスター版ゴジラとも呼ばれている。演出や特殊効果のクオリティなど、さすがはハリウッドというべきで、その意味では日本の『ゴジラ』シリーズが足元にも及ばないレベルの作品ではあったものの、ゴジラを神聖さすら感じさせる怪獣王としてではなく、巨大な恐竜程度の存在として描いたことから、ゴジラファンからの評価は押しなべて低い作品だ。熱心なゴジラファンとして知られる映画監督のジョン・カーペンターも「あれはただのイグアナだ!」と発言し、ファンからの喝采を浴びたという。後に『GODZILLA』について監督のローランド・エメリッヒは「やる気がなかった」と告白し、めちゃくちゃなデザインとストーリーを東宝側に提案したら、向こうから断ってくると思っていたが、まさかのオッケーが出て制作せざるを得なくなったと述べている。
次に2014年に公開されたギャレス・エドワーズ監督の『GODZILLA ゴジラ』だ。こちらは熱心なゴジラファンでもあるギャレス・エドワーズが撮っただけあり、邦画も含めて1954年の『ゴジラ』に最も近いゴジラ映画となった。世界的にも評価が高く、本作の大ヒットを受けて、東宝でも12年ぶりのゴジラ映画の製作が決定されたほどだ(ちなみにそれが『シン・ゴジラ』である)。本作で主役を務めたアーロン・テイラー・ジョンソンはゴジラ映画を全く観たことがなかったというが、そんな彼に対して、ギャレス・エドワーズは「一作目の『ゴジラ』だけ観ておけばいい」とアドバイスしたそうだ。
その次が2019年に公開された『GODZILLA キングオブモンスターズ』。こちらは往年の人気怪獣である、モスラやキングギドラ、ラドンが一堂に集ったエンターテインメント作品の趣きが強い。
そして、モンスター・ヴァースとして作られた『ゴジラVSコング』『ゴジラ×コング 新たなる帝国』は完全なエンターテインメント作品となってしまった。
もちろん、海外におけるゴジラ映画がエンターテイメント映画として受容されていたのだから、それはそれで仕方のないことかとも思う。
逆にローランド・エメリッヒやギャレス・エドワーズが作品の中にきちんと核実験などを盛り込んできた事の方がむしろ驚きだとも言えるだろう。
ハリウッドに忖度するゴジラ
ギャレス・エドワーズに関しては渡辺謙のセリフの中で広島の原爆にも言及しているのが、『ゴジラ』に対する強いリスペクトを感じさせる。
だが同時にエメリッヒ版ゴジラにもギャレス・エドワーズの『GODZILLA ゴジラ』にもハリウッドに対する忖度が見え隠れしているのも事実だ。
ローランド・エメリッヒはゴジラが誕生したきっかけを「フランスの」核実験だと設定している。確かに実際、フランスで1996年に地下核実験が行われた一方で、アメリカでは1992年以降、核爆発を伴う核実験は行われていない。
それを考えると、映画内の設定としてはフランスの核実験の方がリアリティはあるのかもしれない。しかし、そうしたことで作中で活躍するアメリカ人はただのヒロイックなキャラクターになってしまっている。その代わりに核兵器という原罪を背負うのはフランスからやってきた諜報員のフィリップだ。彼は祖国の行いの責任を取る形でゴジラに立ち向かう。
つまり、『GODZILLA』においてはやはりアメリカこそがヒーローなのである。ゴジラ誕生のきっかけがフランスの核実験ということもあり、一点のやましさも感じることのない、完璧な英雄として存在しているのだ。
『GODZILLA ゴジラ』はそれとくらべると、広島の原爆への言及からもわかるように、核兵器の歴史にアメリカも密接に関わっていることを強調した上で、戦後の数多くの核実験の真の目的はゴジラを倒すためだったという新たな設定が加えられている。
興味深いのは、その新しい設定によって核兵器に肯定的な意味合いを持たせているということだ。
世界一の核保有国はアメリカだが、その核に対して、一定の役割を認めているという点においては日本の『ゴジラ』とは決定的に異なると言えるだろう。
原爆を全否定できないアメリカ
ギャレス・エドワーズと同じイギリスの映画監督、クリストファー・ノーランの『オッペンハイマー』ですら、日本では原爆の被害者の描写が足りないという批判の声を受けて中々公開されなかった。
個人的には、オッペンハイマーが自ら作り上げた原爆のあまりの破壊力と戦果に、その発明を後悔し続けるという描写があっただけでも十分だと思っている。
実を言えば、ハリウッド版ゴジラにも同じ思いはある。核実験がゴジラを生んだことだけでも作品を通して伝えてくれたら、それだけで及第点ではあると思う。
逆の立場で考えてみよう。アメリカとの戦争映画を作るときに、日本側の全てを否定するような映画を私達は許せるだろうか?真珠湾攻撃の奇襲にも日本側としてそれなりの理由や意義を持たせるのではないか?
決してアメリカの原爆投下に仕方のない理由があったとは思わないが、アメリカが原爆に対して全否定するような作品を作ることができないのは理解できるということだ。
ただ、今後もしアメリカがアメリカ自身の核実験によって誕生したゴジラを描くとしたら、その時は核のない世界に一つ近づくのではないか。そんな予感がしている。