『ワールド・ウォーZ』が好きでたまに観ている。ブラッド・ピットがカッコイイのはもちろんだが、壮大なスケールかつ、とんでもない制作費を使って表現したのがまさかのゾンビの大群というちょっと歪なバランス感覚もたまらなく好きだ。この『ワールド・ウォーZ』だが、ゾンビが大群になって全力疾走して襲い掛かる。
『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』や『ゾンビ』で知られるゾンビ映画の巨匠、ジョージ・A・ロメロは走り回るゾンビには否定的だったと言うが、『28日後…』や『アイ・アム・レジェンド』など、2000年代のゾンビは全力疾走モンスターなのだ。ロメロの代表作『ゾンビ』をリメイクしたザック・スナイダー監督の『ドーン・オブ・ザ・デッド』もオリジナル版とは違って走りまくるゾンビだ。
ゾンビ映画の歴史
今回はゾンビ映画の歴史を振り返りながら、ゾンビが全力疾走するようになった理由を探していこう。
さて、今日一般的にイメージされるゾンビは、ゆっくり歩き回り、生きている人間を襲い(食べ)、また襲われた人間もまたゾンビとなる、といったものだろう。その結果、そのエリアには指数関数的にゾンビが増殖していくことになる。
しかし、元々のゾンビは私たちがイメージするゾンビとはまた別のものだ。
最古のゾンビ映画
最も最古のゾンビ映画は1932年に公開された『恐怖城』(原題 WHITE ZOMBIE)だろう。
この作品では、ゾンビは死者が蘇ったものではなく、ブードゥー教の司祭が持つゾンビパウダーによって、自らの意思を失い、あたかも生ける屍のようになった人々のことだ。『恐怖城』ではゾンビパウダーを使って、美しく若い女性を我が物にしようとする二人が描かれる(おそらく原題を意訳すると、白人ゾンビになるだろう)。
元々ゾンビとはハイチにおけるブードゥー教の秘儀によって蘇った死者であり、現在のゾンビのイメージと異なり、自発的に他人を襲うことも他者をゾンビ化させることもない。言うなれば人々の意のままに動く奴隷のような存在であったのだ。
こうしたゾンビの話がアメリカに伝わったのは1929年のこと。その3年後にはこうして映画が作られているのだから、いかにゾンビのインパクトが大きかったかがわかる。
今日のゾンビ映画の元祖
その次にゾンビの大きな変革が起きるのは1968年に公開されたジョージ・A・ロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』だろう。
ロメロは同作に登場する蘇った死者をグールと呼び、ゾンビとは発言していないものの、今日ではゾンビ映画の元祖として最重要な作品でもある。
『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』はリチャード・マシスンの『地球最後の男』に影響を受けているが、ゾンビが自発的に人を襲い、襲われたものもまたゾンビになるという、今日のゾンビのイメージの大本は今作が作り上げたものだ。
1970年代から1980年代にかけて『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』を皮切りに多数のゾンビ映画が作られている。ロメロ自身による続編の『ゾンビ』、『死霊のえじき』、『死霊のはらわた』、『サングリア』などが代表的な作品だろう。こうしたゾンビ映画の隆盛の裏には東西冷戦による世界の終わりのイメージが重ねられていると言われる。
もちろん、それ以前にも『渚にて』や『地球が静止する日』など世界の終わりをテーマにした作品はあったが、やはりゾンビほど視覚的にショッキングで絶望的でわかりやすいものもないだろう。1970年代からのゾンビ映画の増加については、1968年にハリウッドの自主的な映画検閲であるヘイズコードが廃止されて過激な表現が許されるようになったたこと、特撮技術の向上が挙げられる。
2000年代のゾンビ映画
冷戦の終焉とともにゾンビ映画もまた下火になっていくのだが、2000年代になると再びゾンビ映画はその数を増やしていく。2002年には『バイオハザード』、同じ年に『28日後…』、2004年には『ドーン・オブ・ザ・デッド』などのゾンビ映画が公開されている(ゾンビではなく、他の呼称を与えられている作品もあるが、ここでは便宜上ゾンビ映画の中に含めておく)。
中でも『28日後…』や『ドーン・オブ・ザ・デッド』、他には『アイ・アム・レジェンド』、『ワールド・ウォーZ』のゾンビはこれまでの愚鈍な存在ではなく、全力疾走するゾンビだ。
しかし、なぜゾンビは走るようになったのか、今回はそこを見ていきたい。
ゾンビの立ち位置
個人的に考えるのはゾンビ映画に求められるものが変わってきたのではないかということだ。
2000年代以前とそれ以降ではゾンビ映画の立ち位置が微妙に変わっているように思う。
1970年代から1980年代のゾンビ映画はホラー映画だった。そこには内臓を丸出しにしながら生きながら喰われるといったグロテスクな表現もあった。ホラー映画の潮流で言えば、1980年代はスプラッターの時代だ。過激な流血や残酷描写が求められた時代だ。
だからこそ、ゾンビは走らなくてもよかった。そもそも今まで見てきたように、ゾンビの起源となるブードゥー・ゾンビは人間から自発的な意志を剥ぎ取った状態なのだ。そんな人間がどうして走ることができるだろうか。
人体破壊や流血などの残酷描写
この時代のゾンビに求められたのは「人間を襲うこと」であり、「食べること」だったのだと思う。
ゾンビ映画ではないが、1982年に『食人族』というモンドホラー映画が日本で異例のヒットとなったことがある。
これは疑似ドキュメンタリーの体裁をとっており、未開の地に足を踏み入れた若者たちが傍若無人の振る舞いをし、その地に住む原住民の怒りを買い、復讐として生きながら食われるという内容だ。
この「生きながら食われる」という要素はもちろん、疑似ドキュメンタリーという見せ方は多くの人を惹きつけた。
ホラー映画を観る動機は「怖いもの見たさ」も大きい。一定の刺激に慣れた観客はより強い刺激を求める。言わば『食人族』のヒットはゾンビのような人々が地球の何処かに実在するという現実的な恐怖を煽った作品なのだ。人体破壊や流血などの残酷描写には限界がある。
現実的なホラー映画
ゾンビ映画が一段落した後に日本でヒットしたのは、「本当にあるかもしれない」という都市伝説系のホラー映画だったと思う。
その好例が「呪いのビデオ」をテーマにした『リング』や、身近なケータイを取り上げた『着信アリ』などだろう。
また、海外でも都市伝説とは違うものの、「本当にあり得るかもしれない」という現実的なホラー映画が人気となる。『ミザリー』、『セブン』、『羊たちの沈黙』など生きている人間こそが最も怖いというサイコホラー映画だ。
では、ホラー映画ファンは2000年代以降に再びゾンビ映画に回帰したのだろうか?
個人的にはそうではないと思う。これこそがゾンビ映画の立ち位置が変わったということだ。海外ではわからないが、日本では『バイオハザード』、『ワールド・ウォーZ』『アイ・アムレジェンド』は予告の段階ではゾンビ映画だということは前面に出さなかった。
つまり、これらのゾンビ映画はホラー映画ファンをそもそもターゲットにしていないのだ。予告編に騙されて映画館で身の凍る思いをした人も少なくなかっただろう(私もその一人だが)。
これらの作品では残酷描写はそれほど重視されない。それよりも絶望的な状況をどうサバイブしていくか、打破していくのかというところに主眼が置かれている。
ゾンビはなぜ走るのか?
『ワールド・ウォーZ』ではブラッド・ピット演じる主人公が動きが鈍いゾンビを見て安堵するシーンがある。
今の観客も「それなら何とかなるかもしれない」と思うかもしれない。
だからこそゾンビは走るのだと思う。絶望的な状況をより絶望的にするために。
「どう考えても助かるはずがない」そんな状況からしか生まれないカタルシスを、走るゾンビは観客に届けているのだ。