※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています
映画で大事なものってなんだろう?俳優?監督?演出?脚本?
色々意見はあるだろうが、個人的には決して予算や俳優の人気ではないと断言しておく。
例えば2007年に公開された『リトル・ミス・サンシャイン』。公開時はわずか7館での公開だったものの、そのハートフルで共感とカタルシスに溢れた内容は評判を呼び、最終的には602館にまで拡大公開されている。
日本でも2018年に公開された『カメラを止めるな!』の例が記憶に新しい。こちらは公開当初はわずか2館での上映だったが、緻密に練られた脚本が評判を呼び、最終的には353館で222万人を動員するまでに達した。興行収入は30億円を超える。
一般的に日本の映画は(制作費にもよるだろうが)10億円の興行収入でヒットと言われる。『カメラを止めるな!』の制作費はわずかに300万と言われているから、これは大成功と言っていいだろう。
本当にストーリーが面白ければ、スター俳優も豪華なセットも、リアルなCGも要らないのではないか?
自主製作映画がこれほど成功するという「奇跡」は二度と起こらないのではないかと言われていた。しかし、今「第二の『カメ止め』」と呼ばれている作品がある。
それが今回紹介したい『侍タイムスリッパー』だ。
『侍タイムスリッパー』
私自身、今作については全く知らず、Xのタイムライン上でたまたま目にしたのがきっかけだ。Xを見るたびに『侍タイムスリッパー』についてのポストがやけに出てくるので、最初はXを開くたびに特定の人のポストがおすすめとして表示されているのかなと思っていた。
しかし、そうではない。Xの多くの映画ファンが「面白かった映画」として『侍タイムスリッパー』を称賛していたのだ。今観なければいけない映画のような気がした。
タイミング的にはちょうど全国公開が行われた週末の連休だった。このチャンスを逃す手はない。私はゲリラ豪雨に見舞われながらもキャナルシティのユナイテッド・シネマへ急いだ。
『侍タイムスリッパー』は幕末の武士が現代へタイムスリップするコメディだ。監督は安田淳一、主演は山口馬木也が務めている。
会津藩の武士、高坂新左衛門は同じく武士の村田左之助とともに長州藩の侍、山形彦九郎を襲おうとしていた。山形もまた腕の立つ武士であり、村田はすぐに倒されてしまう。高坂は山形と無心で斬り合うが、気がつくと見知らぬ町に倒れ込んでいた。
実は高坂が目を覚ましたのは幕末から140年後の現代の日本であり、そこは京都の時代劇村のセットの中であった。高坂はそこで行われていた時代劇の撮影を事実と勘違いしてしまい、トラブルを起こしてしまう。こうした時代錯誤のギャグはタイムトラベルものの定番だろう。
監督助手の女性、山本優子と知り合い、高坂はひょんなことから撮影所そばの住職の家庭に居候することになる。そこで初めて観るテレビやショートケーキに涙を流して感動するところもコミカルに映し出されている(ちなみにによると安田監督はショートケーキのイチゴの角度にさえこだわっていたらしい)。
『カメラを止めるな!』
安田監督によると『侍タイムスリッパー』について、『カメラを止めるな!』同様の成功は再現できると考えていたという。『カメラを止めるな!』の上映中の笑い声と最後に拍手という状況を再現できれば、オーソドックスな脚本でも成功するのではと考えたそうだ。
確かにこうしたギャグの一つ一つに観客からは笑い声が漏れていた。また、ギャグの一つとして高坂が、白米のおにぎりに感動する場面がある。
江戸時代の武士の食事は確かに白米ではあったものの、当時の精米技術では今のように完璧に糠を取り除くことはできなかったとも言われる。玄米と白米では食味も大分違うが、高坂が白米に感動するのもわからないではない。
高坂新左衛門の家柄
安田監督が言うには、高坂は武士ではあるけれども、侍の中でも身分の低い家柄の次男や三男という設定だそうだ。彼らは家督を継ぐことはおろか、結婚もできずに、ただ藩命に従い、故郷から離れた京都で危険な暗殺任務を押し付けられている。当然、食事も上等なものではなかったに違いない。
当時の農家は年貢があったために、米は節約して食べねばならなかった。そこで粟などの雑穀や芋などを混ぜてかさ増しした米を食べていたというが、高坂も同じようなものであっただろう。家柄の低い武士であれば、それこそ半分農家のような暮らしであったかもしれない。
安田監督によると、高坂があまり過去に帰りたがらず、すんなり現代(とはいっても劇中の現代は2007年あたりを想定しているという)の暮らしを受け入れているのは、江戸時代の暮らしがあまりいいものではなく、また家族に対しての愛情も(長男でないという扱われ方から)希薄なものであったからだという。
さて、ある日優子が助監督を務める撮影で斬られ役の役者に一人欠員が出る。そこでたまたま居合わせていた高坂がその役を代わることに。共演者やスタッフから演技を称賛された高坂は、殺陣師である関本の元に弟子入し、斬られ役としてのキャリアを重ねていく。
「頑張っていればどこかで誰かが見ていてくれる」
そんな中、十年ぶりに時代劇へ復帰する大物俳優、風見恭一郎から高坂はメインキャストとして指名され、斬られ役としては異例の大抜擢を受ける。なんとその大物俳優風見恭一郎は、かつて幕末で斬り合った山形彦九郎だった。彼もまた30年前に現代にタイムスリップしており、同様に斬られ役からキャリアをスタートさせ、ついには主演を張るスターの座にまで上り詰めたのだった。
ここで注目したいのは高坂と風間を引き合わせたプロデューサーがつぶやく「頑張っていればどこかで誰かが見ていてくれる」というセリフだ。地味なシーンだが、今作の一つのハイライトは間違いなくこの場面である。私自身、鑑賞中になぜか使い古されて手垢のついたこのセリフに胸が熱くなった。
なぜだろう?高坂役を務めた山口馬木也は今作には自分自身のリアルなこれまでが込められていたとも述べている。今作は山口馬木也の初主演作となるが、それまで時代劇をはじめとして様々な現場で脇役として様々な経験を積んできた自身とは重なる部分があるのだろう。
またこの「頑張っていればどこかで誰かが見ていてくれる」というセリフは殺陣師の故・福本清三氏の著書のタイトルでもあるという。本来であれば、高坂に殺陣を指南する関本は福本氏が演じるはずであったが、制作前に氏が亡くなったために、映画では福本氏の弟子である峰蘭太郎が関本を演じている(エンドロールには福本清三氏への謝辞がある)。
『蒲田行進曲』
最初は憎き敵からのオファーを断ろうとする高坂だったが、周囲の後押しや風見自身の武士の姿を現代に残したいという言葉に感銘を受け、出演を承諾する。
安田監督は物語の骨子として『蒲田行進曲』を意識したそうだ。確かに時代劇の大作の相手役に無名の斬られ役が抜擢されるという流れは『蒲田行進曲』と共通する。しかし、決定的に違うのは、『蒲田行進曲』の大部屋俳優がスターに強烈な憧れを抱いているのとは対称的に、高坂と風間は敵同士の関係であることだ。
徐々に撮影を通して、二人の間には奇妙な絆が生まれていく。それは同じ幕末を生き、そして現代にタイムスリップし、同じ苦労を重ねたもの同士だからのものだろう。
だが、中打ち上げの席で高坂は追加になった脚本から会津のその後を知る。幕末、会津藩は戊辰戦争で最後まで新政府軍と戦うも敗北、遺体の埋葬も許されなかったという。また、城内では女性や子どもも自刃した(このような経緯のため、現在でも旧会津の人々と旧長州の人々の間には遺恨があるという)。
高坂はその悲惨さに打ちひしがれる。自棄になっていたが、ある考えが浮かぶ。それは映画の最後のクライマックスの斬り合いを真剣で行うということ。反対する優子を横目に、監督、そして風見も高坂の考えを承諾する。
そして、クライマックスの撮影が始まる。高坂にとっては、敵を倒すためではなく、倒れ散っていった会津の人々への義を果たすためだった。
二人の決闘は事前に練られた殺陣ではなく、段取りなしの本当の斬り合いだ。
2種類の殺陣
実は『侍タイムスリッパー』には2種類の殺陣が存在している。一つは昔ながらの殺陣であり、どちらかと言えば様式美とも言えるものだ。そこでは見栄や口上など、少なからず歌舞伎の影響が感じられる。
だが、クライマックスの斬り合いはそうではない。殺陣の演出としては見栄もなく、頭を斬られた時には血も勢いよく吹き出る。立ち合いの場面の長すぎるほどの間もそうだが、その緊張感はそれまでの殺陣とは全く異なっている。言わば、斬り合いとしてリアルな殺陣なのだ。
映画評論家の町山智浩氏によると、リアルな殺陣の元祖は黒澤明監督の『七人の侍』だという。近年では北野武監督の『座頭市』も人体破壊あり血しぶきありの斬り合いを見せている。このリアルな殺陣だからこそ、風見との張り詰めた緊張感も観客に伝わってくる。コメディ映画ということを思わず忘れてしまうほどだ。
だが、最後、高坂は風見を斬ることができない。もし、幕末のあの決闘であれば、おそらくどちらかが命を落としていただろう。
誰も未来を見ることはできないが、だが豊かになった今の日本を生きて、高坂もまた敗者には敗者として未来を作っていく価値があったと実感できたのではないだろうか。時代劇のカタルシスは勧善懲悪の分かりやすさもその一つだと思うが、今の時代に分かりやすい善悪が果たして存在するだろうか。
安田監督は『侍タイムスリッパー』が多くの人に受け入れられたのは、劇中に悪人が出てこないからと述べている。
確かにそうかもしれない。大団円という言葉があるが、どこにも角の残らない、爽やかな感覚を残してくれる作品であることは間違いないだろう。
令和的な時代劇
それともう一つ、時代劇の衰退は1960年代の末には既に始まっていたが、今作はそんな古き良き時代劇への強烈なラブコールでもある。それは形だけの時代劇ではない。おそらく、観客は『侍タイムスリッパー』から無意識のうちに現代には薄れつつある、日本人らしさを感じ取っているからではないか。
高坂には強烈な「義」がある。今の時代にある、暴走しがちな「正義」とは真逆だ。
また、敵役である風間もそれは同じことだ。立場は違えど、己の信念や正義をかけて斬り合った二人のどちらが悪いはずはない。そういった意味では昔ながらの勧善懲悪の時代劇よりも遥かにリアルだと言えるだろう。
今作は日本人の古くからの美徳を映しながら同時に現代的、もっと言えば令和的でもあるのだ。また画作りの意味でも昔ながらの時代劇も現代的な時代劇も両方楽しめる。
安田監督が目指した『カメラを止めるな!』は誰が見ても緻密な脚本でもちろん素晴らしかったが、今作が多くの人に愛され、受け入れられた理由もまた、表面だけではわからないその緻密さにあるのではないだろうか。時代劇という枠の中で、昔ながらの魅力も今の時代が求めるものも、その両方をしっかり実現させているのが『侍タイムスリッパー』の凄さではないか。
映画で大事なものは何か?
さて、最後に改めて冒頭の問いに立ち返ろう。
「映画で大事なものは何か?」
今の私なら(それこそありきたりで恥ずかしいが)「情熱」だと答える。
何度かX(旧ツイッター)で『侍タイムスリッパー』についてポストしたのだが、そのポストを安田監督やキャストの沙倉ゆうの氏、田村ツトム氏がリポストや「いいね」してくださったのだ。
個人的にそんな経験は今までしたことはない。もちろん凄く感動したのだが、同時に手作りの映画ならではの温かさ、そしてその温かさの根底にある情熱を感じた。SNSは『侍タイムスリッパー』についての投稿や口コミで溢れている。監督をはじめとしたスタッフやキャストの方々がそれらを一つ一つ「いいね」したり、リポストしたりする。それを情熱と呼ばずに何と呼ぼうか。
(比較するのは失礼だが)かのエド・ウッドもそうだ。エド・ウッドは映画監督としては壊滅的に映画作りの才能がなかったが、彼の情熱は(カルト的な意味で)再評価され、ストリーミングの時代になった今でもエド・ウッドの作品は生き残り、他の超大作と並んで配信され続けている。エド・ウッドは亡くなって半世紀近い今でもファンを獲得し続け、「史上最低の映画監督」という称号と共に愛され続けている。
「頑張れば、どこかで誰かが見ていてくれる」
新宿のたった一つの映画館から始まった『侍タイムスリッパー』は、いまや全国の100を超えるスクリーンで公開されている。
福本氏の言葉が正しいことを『侍タイムスリッパー』は作品自身で証明してみせたのだ。