『スオミの話をしよう』なぜ「TALK ABOUT SUOMI」ではないのか?

※この考察・解説では『スオミの話をしよう』『イヴの総て』『ゴーン・ガール』の結末のネタバレが含まれています。

以前から三谷幸喜監督のファンだ(これ、以前にも言った気がするけどご容赦ください)。『ギャラクシー街道』のような例もあるから、「ハズレがない」とまでは言えないまでも、かなり高い打率を維持している稀有な存在だとも思う。
そんな三谷監督の新作とあっては観ずにいられない。それが今回紹介する『スオミの話をしよう』だ。

『スオミの話をしよう』

『スオミの話をしよう』は『記憶にございません!』以来5年ぶりとなる三谷幸喜監督9作目の長編映画だ。今回のジャンルはミステリー。突然いなくなった「スオミ」を巡る、彼女と関係していた男たちの物語だ。
タイトルのスオミを演じるのは長澤まさみ。そして主人公でスオミの4番目の夫の草野圭吾を西島秀俊が演じている。

さて、三谷幸喜監督のミステリーものといえば、『古畑任三郎』が浮かぶ。いささか風変わりな警部、古畑任三郎が事件のトリックを暴き、犯人を追い詰めていく推理ものの人気ドラマだ。

だが、『古畑任三郎』が最初に犯人を明かしていく倒叙ものというスタイルであるのに対して、『スオミの話をしよう』はそうではない。オーソドックスなミステリーの物語になっている。
簡単にあらすじを説明しておこう。

スオミはどこへ消えたのか?

刑事の草野は部下の小磯杜夫とともに人気の詩人である寒川の家へ招かれる。そこには出版社の社員で、寒川の身の回りの世話をしている乙骨直虎という男がおり、草野は乙骨から寒川の妻であるスオミが姿を消したと聞く。誘拐の可能性もあり、草野は捜査を進めていくが、寒川はスオミはすぐに戻ってくると言い、警察沙汰にすることを頑なに拒む。

しかし、草野は行き先も告げずにスオミが出ていくのは考えづらいと感じていた。実は草野はスオミの前の夫だったのだ。さらに、寒川の家で使用人として勤めていた魚山大吉もスオミの最初の夫であることが判明。おまけに草野の上司である宇賀神守もスオミの失踪を知り、寒川の家へ駆けつける。宇賀神もまたスオミの前の夫だった。

しかし、それぞれがスオミに抱く印象は異なっていた。果たしてどれがスオミの真実なのか?そしてスオミはどこへ消えたのか?
そんな中、誘拐犯を名乗る男から、寒川へ電話がかかってくる。

圧巻の長回し

今作でも三谷監督のお家芸とも言える長回しの場面は圧巻だ。カメラアングルやズームなどを取り入れながらもカットは途切れずに場面の緊張感を保っている。三谷監督がこれほど長回しに固執するのは自身が舞台出身ということもあるのだろう。
そして、過去の映画やドラマへのオマージュもまた三谷幸喜の作品を観る上での楽しみの一つでもある。例えば先に述べた『古畑任三郎』の倒叙スタイルは『刑事コロンボ』からの影響でもある。
『スオミの話をしよう』で言えば、オープニングタイトルの副題に目が行く。

『イヴの総て』

副題は「ALL ABOUT SUOMI」と表示される。ん?『スオミの話をしよう』であれば、『TALK ABOUT SUOMI』の方が適切ではないのか?
しかし、ここで似たタイトルを持つ名作が頭に浮かぶ。『イヴの総て』という1950年に公開された作品だ。同作の原題は『All About Eve』。アカデミー賞では作品賞をはじめとして6部門を受賞。カンヌ国際映画祭でも審査員特別賞と女優賞を受賞した名作である。

新進気鋭の女優であるイヴ・ハリントンがハリウッドでのし上がり、名声を掴むのだが、その過程で彼女はスター女優や関係者など多くの人を騙し、踏み台にしてきたために、名声以外を得ることができなかったという話だ。しかもイヴ自身もかつて自分がそうしてきたように、若い無名女優から騙され、踏み台にされることを暗示するラストで物語は終りを迎える。

『スオミの話をしよう』と『イヴの総て』にはヒロインが自分のキャラクターを演じ分けて相手を騙すという共通点がある。映画好きでも知られる三谷幸喜監督が『イヴの総て』を知らないはずがない。副題と内容からみても、少なからず影響はあっただろう。

だが、個人的にはそれとは別の映画が頭をよぎる。2015年に公開された、デヴィッド・フィンチャー監督の『ゴーン・ガール』にむしろ似ている気がするのだ。そもそも基本的なプロットである、良妻であった妻が何の前兆もなく失踪するという流れ自体が全く同じなのだ。

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三谷幸喜流『ゴーン・ガール』

スオミは確かに別れた夫たちの前ではそれぞれ偽りの自分を演じていた。例えば最初の夫、魚山の前ではМ気質な魚山に合わせて強気な女性、宇賀神の前では宇賀神の理想であるアジア系の外国人という設定だ。

『ゴーン・ガール』のエイミーもそうだ。彼女は夫であるニックの求める「理想の妻」の姿を演じていた。
しかし、ニックの浮気を知ったことで、彼女が求めていた「理想の夫婦像」は壊れていく。
エイミーはその復讐として、夫を妻殺しの殺人犯に仕立て上げるべく、緻密で入念な計画を立てる。そう、エイミーの失踪は彼女自身が仕組んだ自作自演だったのだ。
『スオミの話をしよう』の結末も同じだ。映画の内容の続きを見ていこう。

誘拐犯からの条件は身代金として3億円を用意すること。寒川は2億5千万しか払わないと言い放ち、残りの元夫たちが出せる金額も合わせて400万円ちょっと。そんな中、残りの金を用立てできる人物として、2番目の夫である十勝左衛門が呼び出される。

身代金の準備

十勝はYouTuberとしても活躍している実業家。過去に警察に逮捕されたりという胡散臭さはありつつも、十勝のおかげで3億円を揃える事が出来るようになった。さらに犯人の要求はそのお金をボストンバッグ2つに分けてセスナ機から指定場所に落とすこと。
しかし、寒川の家にはボストンバッグ2つがなく、仕方なくアタッシュケース2つをセスナから投下。そのあと投下現場からはアタッシュケース2つを回収。いずれも中身は空になっていた。

ケースごと持ち去ればいいものを、なぜ犯人は現金だけ持ち去ったのか、草野はもともとアタッシュケースは空ではなかったかと寒川に問い詰める。
実は準備段階で金を惜しんだ寒川は中身が空でも気づかれにくいアタッシュケースにバッグを変更していたのだった。

しかし、誘拐犯はなぜ普通の人には用意しづらいセスナを指定してきたのか、それはそれぞれの元夫たちを理解していないと不可能な誘拐計画だった。
草野は誘拐犯の協力者が乙骨、そして誘拐自体はスオミが企てた狂言誘拐であることを看破する。

自作自演の狂言誘拐

そう、三谷幸喜作品の特徴の一つである、「複数の人間が協力して一つのことを成し遂げる」(この場合は身代金の準備と受け渡し)という違いはあるものの、驚くほど『ゴーン・ガール』とも似ているのだ(本当はこの解説のタイトルも「『スオミの話をしよう』は三谷幸喜流の『ゴーン・ガール』だ」としたかったのだが、タイトルでネタバレするのも可哀想と思って現行のタイトルに変更したという経緯がある)。

『ゴーン・ガール』の原作は2012年に出版されたギリアン・フリンによる同名の小説だが、ギリアン・フリンは『ゴーン・ガール』を書いたきっかけとして『メリーに首ったけ』を挙げている。

『メリーに首ったけ』は1998年に公開されたベン・ステイラー、キャメロン・ディアス主演のロマンティック・コメディ映画だ。高校生のテッドは憧れのメリーとプロムに出かけるはずが、あるトラブルによって中止になってしまう。メリーとの仲もそれっきりになってしまうが、大人になってもテッドはメリーのことを諦めきれなかった。
テッドは探偵を雇ってメリーのことを調べるが、その雇った探偵もメリーに夢中になってしまう。ついには二人以外にもメリーに惚れている男達がどんどん明らかになる。みんなが美人でかわいいメリーに夢中になってしまうのだ。
優しくてキュートで少し抜けてて、まさに放っておけない魅力を持った女の子。それがメリーだ。

だが、フリンはこのキャメロン・ディアス演じるメリーのキャラクターに違和感を感じたという。
「これは女性のことなんて何もわかっていない、『男の映画屋』が作った『いい女』だ」
これは『ゴーン・ガール』でのエイミーのセリフにも活かされている。
「男はいつも褒め言葉として言う。『彼女はいい女だ』。『いい女』は何でもしてくれ、いつも機嫌よく絶対男に怒らない。恥ずかしげに愛情深く微笑み、その口をファックに提供する。
『いい女』は男の趣味に合わせる。彼がオタクならマンガ好き。ポルノ好き男ならイケイケ女。アメフトを語り、フーターズで食事する」これはフリンの本音でもあるだろう。

その後の2つの作品を見ていこう。
『ゴーン・ガール』のエイミーは新天地で新しい暮らしを始めるはずが、途中で金を盗まれ、計画が頓挫してしまう。
スオミも手に入れるはずだった3億で夢を叶えるはずが、寒川の強欲さによって計画はやはり頓挫する。

『ゴーン・ガール』ではその後、行き詰まったエイミーが金持ちの元カレを頼るが、テレビで必死に後悔と愛を伝えるニックの姿に心動かされ、ニックの下へ帰ることを決意する。そのために邪魔になった元カレを殺す。もちろん、「元カレに監禁され、レイプされたので正当防衛としての殺人である」ことを裏付けるための証拠を準備してだ。
だが、ニックだけはそんな悪女としてのエイミーの本性に気づいていた。戻ってきたエイミーはニックに問い詰められ、あっさりと殺人を認める。ニックはエイミーと別れようとするが、エイミーはニックの精子を手に入れ、既にその子どもを妊娠していた。
ニックは絶望し、生まれてくる子どものために、生涯をかけて「理想の夫婦」を演じる決意をするというダークなエンディングで物語は幕を閉じる。

「この女、何者?」

だが、三谷幸喜の作品はあくまでも喜劇であり、人間讃歌である。

スオミの計画はフィンランドのヘルシンキで暮らすことだった。そこは父が生まれた場所だという。
草野は今まで人に頼り人に合わせてきたスオミが一人でできるはずがないというが、スオミは問題ないと草野の言葉を意にも介さない。

『スオミの話をしよう』のキャッチコピーは「この女、何者?」というものだが、観客にとっても結局スオミの本当の人物像はわからないままだ。彼女はこれまでの夫の望む妻の形に合わせてきた。しかし、本当の彼女の姿を具体化することそのものが、今度は「三谷幸喜という男性の思うスオミ像」をスオミに押し付けることになるのではないか、だからスオミの人物像は明かされないまま物語は終わるのだろう(ヘルシンキへ向かうのも自分自身のゆるぎないルーツを見つけるためではないかと思う)。
そういう意味では昨今のジェンダーの問題に配慮したと見えなくもない。さらに言えば、今作はYouTuberや出会い系アプリなどの今の時代を随所に反映させている。これまで金縛りやギャングなど時代性を超えた普遍性を映画に投影してきた印象のある三谷監督にしては、この演出は珍しいと感じた。

ありのままの自分

冒頭で長回しについて述べたが、今作は物語がほぼ寒川家のリビングで繰り広げられるなど、三谷幸喜監督の表現を借りると「舞台と映画のいいとこ取り」となっている。
主要キャストによるカーテルコールのように演出されたエンディングのダンスシーンも非常に舞台的な演出だと思う(主演の西島秀俊は自身が踊ることになるとは知らされていなかったという裏話もある)。
このダンスシーンは三谷幸喜監督曰くフェデリコ・フェリーニの名作『8 1/2』へのオマージュだという。
『8 1/2』には有名なセリフがある。

「人生は祭りだ。共に生きよう」

スオミは寒川とも離婚し、次はスオミの顔を知らない草野の部下の小磯に接近していく。結局、スオミの人生は再び今までと同じようなことが繰り返されていくのだろうか?
だが、個人的には、それでもいつか幸せになれる、そんな予感が感じられた。

「人生は祭りだ。共に生きよう」このセリフには続きがある。

「ありのままの僕を受け入れ、再出発を」

 

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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