『7月4日に生まれて』オリバー・ストーンにとってベトナム戦争とは何だったのか?

※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


トム・クルーズ主演の『7月4日に生まれて』を初めて観た時はその戦場の描写の生々しさに驚いた。
極度の緊張の中、パニックになり銃を乱射する最前線の兵士たち、そして、自分たちが撃った相手がベトコンでなく、民間人だとわかったときの狼狽と絶望、神経をすり減らし、極度の緊張に陥った時の脆さ。ランボーのように敵を倒していく爽快感はそこにはない。

ベトナム戦争

『7月4日に生まれて』はベトナム戦争から20年以上経ってから作られた映画だが、なぜこれほどリアルなのだろうか。
それは監督のオリバー・ストーンが実際にベトナム戦争に従軍した経験があるからだ。それも最前線で。ベトナムでは二度負傷し、一度は後方に転属されたが、最前線のスリルが忘れられず、自ら志願して最前線に復帰したというエピソードがある。一人で敵兵の塹壕に突っ込み、手榴弾を投げ込んで、兵士を殺した。

プラトーン

そんな一兵士としてのオリバー・ストーンの姿は1985年に公開された『プラトーン』でチャリー・シーンが演じる主人公のクリスに投影されている。クリスはアメリカでは貧乏人や黒人ばかりがベトナムに向かわされていることに憤慨し、大学を中退してまでベトナムへと赴いた。
オリバー・ストーンも同じだ。当時ベトナムで教師として英語を教えていたストーンは一兵士としてベトナム戦争へ参加を志願した。『プラトーン』で描かれているように、同期の兵士の中に大卒は皆無で、黒人やヒスパニック、貧しい白人ばかり。本を読むようなインテリはストーンしかいなかったという(『プラトーン』での印象的な二人の登場人物、バーンズとエリアスも実際にベトナ厶でのストーンの上官がキャラクターの元になっている)。
『プラトーン』は戦場のリアルをそのままスクリーンに映し出した。そこには反戦イデオロギーもなく、ただ、善と悪が複雑に絡み合い、死と生がみなぎる戦場があるだけだ。

だが、ロン・コーヴィックを主人公にするならば、その作品は必然的にベトナム戦争の否定と反戦というスタンスを取らねばならない。
オリバー・ストーンはベトナム戦争をどう統括しているのか。
今回は『7月4日に生まれて』を元にオリバー・ストーンにとってのベトナム戦争とはなにであったのかを見ていきたい。

『7月4日に生まれて』

『7月4日に生まれて』は実在の反戦運動家、ロン・コーヴィックの半生を描いた作品だ。主演はトム・クルーズ。今でこそアクション俳優としてのイメージが強いトム・クルーズだが、1996年に公開された『ミッション・インポッシブル』以前はむしろ演技派の俳優として評価されており、本作ではアカデミー賞主演男優賞、ゴールデン・グローブ主演男優賞にそれぞれノミネートされている。

トム・クルーズは今作のために約一年間車椅子で生活するなどの役作りを行ったという。
このロン・コーヴィック役にトム・クルーズは強い思い入れがあった。この時既にクルーズは『トップ・ガン』や『レインマン』のようにヒット作にも恵まれ、成功を収めたスターの座にあった。しかし俳優としてもっと挑戦したいという思いがあった。そんな時に舞い込んできたのが『7月4日に生まれて』だった。
トム・クルーズもロン・コーヴィックもカトリックの労働者階級出身だった。ロン・コーヴィックが車椅子生活になったように、トム・クルーズも幼い頃から失読症というハンデを抱えていた。
オリバー・ストーンはトム・クルーズの起用について「人生の頂点にいる男から一つずつ奪っていったらどうなるか」とイメージしたと語っている。
人生の頂点、ある意味では高校生時代のロン・コーヴィックもそうだっただろう。

戦場の現実

高校生のロンは、強い愛国心を持ち、「祖国のためにベトナムで共産主義勢力と戦う」という理想を胸に海兵隊入りを志願した。
しかし、戦場の現実は理想とは程遠いものであった。ロンはベトコンとの銃撃戦の最中、背後に迫ってきたアメリカ兵を敵兵と間違えて誤射してしまう。上官にその事実を報告するも、上官はしきりに「気のせいだ」と言うばかりで、ロンの罪悪感は救われない。
そしてある日、敵兵に銃撃されたロンは足を撃たれる。倒れてもなお、起き上がろうとしたところにもう一つの銃弾が浴びせられる。
これがロンの一生を変えてしまった。
その怪我によりロンは脊髄を損傷し、下半身不随となってしまう。野戦病院では十分な治療もなく、ニューヨークの病院でも非人道的な扱いを受けていた。さらにロンは自力で歩こうとムチャをし、転倒。開放骨折というケガも新たに負ってしまう。全身を拘束され、身動きの取れない状態で、4ヶ月もの間過ごさなければならなくなったロン。実際にロン・コーヴィック自身もこの時が最も大変であったという。
1969年、ロンは実家へ戻り、家族と再開するが、家族の祝福とは対称的に世間ではベトナム戦争への反発が広がっていた。ベトナム帰還兵であるロンはハンバーガーショップでの調理担当のような仕事しか見つからない。

同じくベトナム帰還兵だったオリバー・ストーンも当時は似たような状況にあっとたいう。ストーンはアメリカに帰国してから7年間もタクシードライバーや郵便配達員最低時給の仕事を転々とすることになる。余談だが、ベトナム帰還兵を描いた『タクシードライバー』でも主人公のトラヴィスがベトナムの悪夢に苛まれながらタクシードライバーとなる様子が描かれる。『タクシードライバー』の監督であるマーティン・スコセッシは、映画学科に入学した時のオリバー・ストーンの師となった。

話を映画に戻そう。
ロンは仕事も決まらず、無為の日々を送るが、旧友のドナと再会し、彼女の誘いで初めて反戦運動に参加する。そこでロンは初めてそれまで抱いていたベトナム戦争の正当性に疑問を抱く。
自分たちが命を懸けて戦ったベトナム戦争に本当に大義はあったのか?政府や、ベトナム行きを後押しした家族らへの疑念は大きくなり、家族との衝突も増えてゆく。
ロンは父の勧めもあり、メキシコへ渡る。そこではそれまでの辛さを紛らすように、アルコールやドラッグ、女性などの快楽に溺れてゆく。そこで知り合ったのが、チャーリーという車椅子の男だ。彼もまたベトナム戦争の帰還兵であり、ロンに「楽しみ方」を教えていく。

エリアスの再来

チャーリーを演じるウィレム・デフォーはオリバー・ストーンの『プラトーン』でも、メインキャストの一人であるエリアスを演じている。
『プラトーン』には主人公のクリスにとって二人の上官が登場する。その一人であるバーンズが戦争に取り憑かれた男だとしたら、エリアスは人間性を失わず、時には麻薬も使いながら、戦場での人間らしい生き方を体現している。
チャーリーというキャラクターはこのエリアスの再来でもある。『プラトーン』でエリアスは撃たれて死ぬが、もし助かっていたら、チャーリーのような生き方をしていたのではないか。
演じるウィレム・デフォーもチャーリーを演じることは、エリアスをもう一度演じることと同じだと述べている。

もう一人のロン

このチャーリーというキャラクターは言うまでもなく、ロンの分身でもある。
ある日、些細なことからチャーリーとロンは口論を始め、お互いを罵り、終いには大喧嘩になる。ここは本作でも重要な場面だ。チャーリーと言い争うことは自分自身と言い争うことでもある。その中でロンの中に眠っていたベトナム戦争での罪悪感や後悔が浮き彫りになってくる。
アメリカに戻ったロンはウィルソンの家族の元を訪れる。実はこの部分は事実ではなく、映画ならではの創作だ。ウィルソンの両親と妻、そして子供の前で自らの犯した罪を告白するロン。ウィルソンの母親からは辛さを理解され、妻からは「私は許せないが、神は赦すだろう」との言葉をかけられる。
ロンはその後、反戦運動家として本格的に活動を開始し、多くの反戦デモに参加していく。

オリバー・ストーンもまたベトナム戦争には批判的な考えを持っている。その著作である『オリバー・ストーンの語るアメリカ史』の中ではベトナム戦争を拡大、泥沼化させた歴代の大統領を批判している。だが、ベトナムで祖国のために戦った兵士には一定の同情も存在している。
戦争なら何でもダメな反戦思想ではないということだ。

戦争を経験した映画監督

日本で言うならば、岡本喜八が同じような映画監督だと言えるだろう。
岡本喜八もまた、戦争の時代を生きた映画監督だ。岡本喜八は明治大学を卒業後、1943年に東宝へ入社する。しかし時は戦時中。徴用によって喜八の東宝での仕事はわずか三ヶ月で中断し、中島飛行機武蔵野製作所で働くことになる。翌1944年には徴兵検査に合格し、幹部候補生として1945年に松戸工兵学校へ入学する。そしてその年の4月に豊橋予備士官学校で岡本喜八は敵の戦闘機の爆撃に遭う。
岡本喜八の戦友たちは片手片足を失い、腹からはみ出た内臓を押し込もうとしている者、頸動脈から雨のように血を流しながら「止めてくれ!」と叫ぶ者など、まさに「泥絵の具の地獄図絵」だったという。
岡本喜八自身は九死に一生を得たが、戦争が終わった後、町内の幼なじみは誰もいなくなっていたという。
岡本喜八の監督作には戦争をテーマにしたものがいくつもある。その中でも一貫しているのは兵士への同情と、政府への批判だ。特に1968年に公開された『肉弾』には特にその傾向が顕著だ。

『肉弾』の主人公は終戦間際に特攻作戦を命じられた若い兵士だ。彼には名前がない。それは彼が特定の個人ではなく、戦争に駆り出された多くの兵士の象徴として描かれているからだろう。
出征の前、彼は市井の人と触れ合い、知り合った少女と一夜を共にする。
彼は日本の終戦を知らないまま、それらの人々を守るために命をかけようとする。それが彼にとっての戦争の意義だった。だが、その少女も爆撃で死んだことを知る。
そして、人間魚雷としての特攻作戦に赴くも、敵艦は現れぬまま、日本は終戦を迎えたことを知る。
彼はドラム缶に入ったまま、近くの船に曳航してもらい、陸へ向かうが、途中でロープが切れてしまう。しかし、彼はそれに気づかぬまま、日本への文句を怒鳴り続けている。そして、終戦から20年以上が経った今も、ドラム缶の中では白骨化した彼が変わらずに、怒鳴り続けているー。

『肉弾』は、製作資金が集まらず、喜八の妻のがプロデューサーとなり、喜八自身も自宅を抵当に入れて資金を捻出したという。今作に賭ける岡本喜八の気迫が伝わってくるエピソードだが、喜八自身も『肉弾』はお気に入りの一本として挙げている。

戦争を知らない者たち

個人的には『7月4日に生まれて』や『肉弾』のような映画やその背景を知ると、戦争を語り継ぐことも、反戦を訴えることも、戦争を知らない私たちには本当はできないことなのてまはないかという気がしてくる。
いくら学んで知識を深めようが、戦争の空気すら知らないものが戦争を語れるはずはない。まして知らないものに対して反対を唱えるのは驕りではないだろうか?
確かに間違った戦争はある。イラク戦争はベトナム戦争を超える反戦デモが巻き起こった。その当時は私は高校生だったが、日本でも反戦を訴える意見広告やデモが開催されていた。
イラク戦争の大義であった「大量破壊兵器」は見つからなかった。サダム・フセインの独裁は終わったが、独裁制=絶対悪なのかと問われると、その後のイラクの混迷を思うと疑問符が付く。
それでも、私たちはそこで命を落とした兵士たちを「無駄死に」と嘲ることができるだろうか?
『7月4日に生まれて』は1976年の民主党大会で、ロン・コーヴィックが多くの観衆の拍手に包まれる中、スピーチへ向かう場面で幕を下ろす。

2005年3月、『7月4日に生まれて』の新しい序文にロンは下記のような言葉を書いた。

「私は人々に理解してもらいたかった。私が経験したこと、耐えてきたことを、できるだけ赤裸々に、オープンに、親密に伝えたかった。戦争に身を投じること、銃撃され負傷すること、集中治療室で命をかけて戦うことの本当の意味を、私たちが信じてきた神話ではなく知ってもらいたかった。病院や浣腸室のこと、なぜ私が戦争に反対するようになったのか、なぜ平和と非暴力にますます傾倒するようになったのかを人々に知ってもらいたかった。私は戦争に抗議したために警察に殴打され、12 回逮捕され、車椅子で何晩も刑務所で過ごした。あの戦争で何が起こったのか真実を伝えようとしただけで、共産主義者や裏切り者と呼ばれたが、私は脅されることを拒んだ」

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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