『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』公開当時、なぜ大人はこの映画で泣いたのか?

※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


子供の頃、『クレヨンしんちゃん』は大人たちの目の敵だった。
だが、時が経つにつれて『クレヨンしんちゃん』は一つの理想の家族として世間に認知されるようになった。その転換点がいつかはわからないが、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』がそのきっかけの一つと言えるかもしれない。『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』はそれまでの『クレヨンしんちゃん』劇場版にはなかった感動作だったからだ。

『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』

『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』(以下『オトナ帝国』)は2001年に公開された原一恵監督のアニメ映画。声の出演は矢島晶子らが努めている。劇場版『クレヨンしんちゃん』としては6作目の作品だ。『オトナ帝国』の公開当時、子供の付き添いで来た大人の方が号泣するという現象が起きたという。

野原一家は20世紀博に出掛けていた。そこは20世紀の古き良き時代をテーマにしたテーマパークで、ひろしとみさえは20世紀博に夢中になる。一方でしんのすけや、同じく20世紀博に来ていた風間くん、マサオくん、ネネチちゃん、ボーくんはなぜ大人たちがこれほど20世紀博に夢中になるのかがわからず、その様子を不気味にも感じていた。
20世紀博は空前の人気となり、その影響で町中には古い車が増え、古い家電や昔のテレビ番組が流行していた。

ケンとチャコのモデル

20世紀博を運営していたのは「イエスタディ・ワンスモア」のリーダー、ケンとその恋人のチャコだった(キャラクター名の由来は1960年代に放送されていたドラマ『チャコちゃんとケンちゃん』だろう)。
ケンの風貌はマッシュルームカットと丸眼鏡と、1960年代に日本の若者を熱狂させたザ・ビートルズを彷彿とさせる。またチャコはミニスカートが印象的だが、これも1967年に来日し、ミニの女王として人気を集めたツイッギーを思い出させる(ちなみに1969年のハリウッドを描いた『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の中でマーゴット・ロビー演じる女優のシャロン・テートも同じようなファッションをしている)。

ケンとチャコはなぜオトナ帝国を作ったか

彼らの計画は20世紀博会場から発せられる「懐かしいニオイ」で大人たちを洗脳し、日本人の暮らしを20世紀の古き良き時代に逆行させることであった。
そんな中、20世紀博からの大事なお知らせとして、「明日の朝、お迎えに上がります」という短いメッセージが放送された。それを観た大人たちは子供のように振る舞うようになってしまった。しんのすけらはそんな大人たちの様子に不気味さと不安を感じていた。
そして日付が変わり朝になった。
20世紀博からオート三輪が迎えに来ると大人たちは子供たちには目もくれずにこぞってそれに乗り込んでいく。このシーンをよく見ると高校生であるはずの紅さそり隊のメンバーも大人に混じってオート三輪に乗っているのがわかる。つまり、懐かしむべき過去があるかどうかが大人と子供を分ける一つの基準でもあるのだろう。そもそも2001年を基準にすると、ひろしの生年は1966年、みさえは1971年。イエスタディ・ワンスモアのケンが言うような「古き良き時代」を本当に経験したのはもっと上の世代のはずである。

懐かしいという感覚

映画の序盤で風間くんは20世紀博に夢中になる大人たちを見ながら「懐かしいってそんなにいいものなのかな?」と言う。この台詞はとても重要だ。しんのすけをはじめとするかすかべ防衛隊の年齢はまだ5歳。懐かしいという感覚さえ無いだろう。
一方で大人になるということは残酷でもある。『オトナ帝国』公開当時は中学生だったからわからなかったが、今『オトナ帝国』を観返すとひろしやみさえの気持ちがよくわかる。
誰にだって戻りたい過去はある。もう一度子供に戻って体験したいこともあるだろう。だが、無限に広がっていた人生の可能性はいくつもの後戻りできない分岐点を経て、選択肢は年月とともに減っていく。

町に取り残された子供たちにケンは「20世紀博の隊員たちに従えば親とも再会できる」とラジオから呼び掛ける。大半の子供はそれに従ったが、しんのすけらをはじめ、従わなかった子供たちに対して大人たちが「子供狩り」を行い出していた。
しんのすけらは幼稚園バスを運転して逃げるが、逃げた方向の先には20世紀博があった。逃げるのではなく、家族を取り戻すために戦うことを決意し、かすかべ防衛隊は20世紀博の会場へ向かう。

大人と子供の21世紀

今作でテーマになるのは昭和のいわゆる「古き良き時代」のノスタルジーと未来への希望の対立だ。
ノスタルジーの語源は元々はギリシャ語の「nostos(帰郷)」と「algos(痛み)」を合わせた語であり、ホームシックのような状態を表した言葉だった。
2001年当時、大人たちはそんな古き良き時代へどれくらいの郷愁を抱いていたかはわからない。
だが個人的には当時は21世紀の幕開けということで根拠のない明るさにも溢れていたように思う。
当時のヒット曲の中でも浜崎あゆみの『evolution』やhitomiの『LOVE2000』など無邪気に新世紀の到来を受け入れる曲が多かった。それは特に若い世代へ向けた未来への賛歌とも言えただろう。

しんのすけらはなんとか20世紀博へたどり着くが、しんのすけ以外のかすかべ防衛隊のメンバーは捕らえられてしまう。
しんのすけが見たのは完全に子供に退行している父ひろしの姿だった。
ここではひろしはしんのすけと同じくらいの年頃の幼児として描かれる。それが子供に退行したひろしの見ている世界なのだ。
アポロが持ち帰った「月の石」を見たいとひろしは父と母(しんのすけから見れば祖父である銀の介とつる)に泣きじゃくっていた。
20世紀博のモデルは大阪万博だろう。大阪万博の目玉のひとつが月の石の展示であり、あまりの行列と待機時間のために体調を崩す来場者が続出したという。監督の原も母親に連れられて小学五年生の時に大阪万博を訪れたという。

日本アニメ史に残る名場面

「父ちゃん」しんのすけはひろしに声をかける。しんのすけの目にはひろしは大人の姿で見えている。それがしんのすけの世界だからだ。
「父ちゃんは父ちゃんなんだよ!」
しんのすけはひろしの今の臭い=靴の臭いを嗅がせる。ひろしの足は激臭という設定なのだが、それはひろしが今まで積み上げてきた人生の結果でもある。

ひろしは少年時代から現代までを回想する。幼いころ父の自転車に揺られ釣りへ向かったこと、成長し、一人で自転車に乗って遊びに行ったこと、学生時代の恋愛と失恋、初めて上京して今の会社に入社したこと、仕事での失敗、みさえとの出会い、しんのすけの誕生、マイホームの購入、仕事では部下を指導する立場になり、休日はかつての父と同じようにしんのすけや、ひまわりとともに釣りに出かける。ひろしは幼い頃からの記憶をたどり、今の大人の自分に気づく。
このシーンはクレヨンしんちゃん史上というより、日本アニメ史に残る名場面だろう。
「父ちゃん、オラがわかる?」「ああ」大人に戻ったひろしは泣きながらしんのすけを抱きしめる。
みさえもひろしの靴の臭いで今の大人の自分を取り戻す。

その様子に興味を抱いたケンは自らの住まいに野原一家を招待する。そこは20世紀博の地下に作られた「昔の町並み」を完全に再現した場所だった。そこには懐かしいニオイが充満し、住人たちはその場所を現実として生活を送っていた。

ノスタルジーへの懐古と「古き良き時代」の現実

ノスタルジーへの懐古という意味では2005年に公開された『ALWAYS 三丁目の夕日』という映画がある。こちらは32.3億円を越える大ヒット作となった。
『オトナ帝国』の劇中だけでなく実際に「古き良き時代」を求める大人たちがいかに多かったのか、ということだと思う。だが、イエスタディ・ワンスモアも『ALWAYS 三丁目の夕日』もどちらも昭和のよい部分だけを都合よく切り取っている面は否めない。

これと対する視点で『こちら葛飾区亀有公園前派出所』に『やって来た三人組』というエピソードがある。
予期せぬタイムトラベルによって、昭和から現代にタイムスリップした少年時代の両津勘吉らは現代のゲームやエンターテインメントに感動する。そして、自分達の時代(昭和中期)を「(現代人が言うほど)そんなにいい時代じゃないよ」と言う。
「物価高いし、下町は生活が苦しいって母ちゃんいつも言ってるよ」
「おまけに工場の公害で空は暗いし、川は臭いしな」

公害に関しては1971年に公開された『ゴジラ対ヘドラ』を外すわけにはいかない。
『ゴジラ対ヘドラ』は実際の高度経済成長期の負の側面をこれでもかと見せつけている。冒頭からヘドロで汚れた海の大写し(実際にはセットで作られたものらしいが)、オープニングから「青空をかえせ!みどりをかえせ!」とアジテーション全開で麻里圭子が歌う主題歌がついたトラウマ必至の怪作だ。この映画に関してはゴジラはむしろ脇役であり、公害に対する怒りと、公害を怪獣という形で具現化したヘドラの残虐性としぶとさが作品のメインとなっている。
『オトナ帝国』ではこのような負の側面まで省みられることはない(前述のとおり、ひろしもみさえも実際には高度成長期には物心ついていない状態なので、こうした側面をあまり体験していないという面もあるだろう)。

本気で21世紀を生きたいなら行動しろ

ケンは野原一家に自らの計画を明かす。それはタワーから懐かしいニオイを噴出させ、もうひろしの靴の臭いでは直せないほどの懐かしさで大人たちを洗脳することだった。
「お前たちが本気で21世紀を生きたいなら行動しろ。未来を手に入れて見せろ。早く行け、ぐずぐずしていたらまたニオイが効いてくるぞ」
ここでケンの心境に少し変化が現れていることが分かる。ケンにとっての未来は汚く心のない、金ばかりの無価値なものだった。だが、本当にそうなのだろうか?ケンも野原一家に未来を賭けようとした一人なのだろう。

野原一家はニオイの放出を阻止するべく、タワーを目指す。そして、ケンとチャコもまたニオイを放出させ、日本を古き良き時代へ戻すという計画を完遂するためにタワーを目指す。
ひろしはエレベーターはイエスタディ・ワンスモアに操作される可能性があるとして、階段でタワーの展望台を目指そうと提案する。
タワーではイエスタディ・ワンスモアの追っ手が迫ってきていた。そんな中、野原一家はエレベーターで展望台を目指すケンとチャコに再会する。
「戻る気はないか」そう言うケンの問いにひろしは「ない!」と即答する。
「俺は家族と一緒に未来を生きる!」
「残念だったな野原ひろし君。つまらん人生だったな」
「俺の人生はつまらなくなんかない!家族がいる幸せをお前たちにわけてやりたいくらいだぜ!」
『オトナ帝国』には名台詞が多い。このひろしの台詞もその一つだ。

チャコは不妊症なのか?

だが、この言葉を聞いたチャコは激昂する。なぜだろう?
実はチャコの裏設定として、チャコは不妊症ではないかという説がある。ケンとチャコのキャラクターは1973年のドラマ『同棲時代』に登場する次郎と今日子がモデルだと言われている。ひろしがケンとチャコの部屋を訪れたときに「『同棲時代』って感じだなぁ」との台詞があるため、『同棲時代』へのオマージュはほぼ間違いないだろう。ちなみに『同棲時代』の原作漫画は『クレヨンしんちゃん』と同じ『漫画アクション』で1972年から1973年まで連載されていたものだ。
『同棲時代』において、ヒロインの今日子は堕児手術が原因で不妊症となっている。であれば、チャコが「家族」という言葉に過剰に反応したことも納得がいく。

「ずるいゾ!」

『オトナ帝国』のハイライトは悪役との戦いではなく、しんのすけが傷だらけになりながらも階段を駆け上がっていくシーンだ。
未来の価値。ボロボロになりながらも必死にケンとチャコを追いかけるしんのすけの姿にその言葉が透けて見える。このシーンでしんのすけは7回転んで8回起き上がっているという。どんなことがあっても未来に希望はある。
展望台に一足先についたのはケンとチャコだった。しばらくして満身創痍のしんのすけも展望台にたどり着く。しかし、ニオイのスイッチはすでにケンの手の中にあった。
だが。
「…ダメだ。見ろ、ニオイのレベルが…」
「町のみんなもあいつらを見て、21世紀を生きたくなったらしい」
もはやニオイは大人たちを洗脳し得るだけの濃度ではなくなっていたのだった。
「嘘!嘘でしょ? 私達の街が、私達を裏切ったっていうの?」
取り乱すチャコにケンはあっさりと言う。
「そういうことだ。みんな、今日までご苦労だった。外へ行っても、元気でな」

チャコはしんのすけになぜそこまでして未来を生きたいのか問う。
「オラ、父ちゃんや母ちゃんやひまわりやシロともっと一緒に居たいから… 喧嘩したり、頭にきたりしても一緒が良いから… あと、オラ大人になりたいから… 大人になって、おねいさんみたいなきれいなおねいさんといっぱいお付き合いしたいから!」
ケンは「坊主、お前の未来返すぞ」そう言ってチャコと二人で外へ出ていく。
そして、二人はそのまま展望台の上から身を投げようとする。その時だった。

「ずるいゾ!」

しんのすけのその声に反応するように、展望台の下から鳩が飛び出した。
チャコはその一瞬で張り詰めていた糸が切れ、本心を口にする。
「死にたくない」
ケンは言う。
「また家族に邪魔された」
飛び出した鳩は家族を守ろうと威嚇した鳩だった。鳩もまた今を懸命に生きている。z
「ずるいゾ!二人だけでバンバンジージャンプしようとするなんて!オラにもやらせろ!」
「いや、もう止めた」
そういって、二人もまた21世紀に向かって踏み出していく。野原一家、そして20世紀博に集められた大人たちもそれぞれの日常に帰っていくのだった。
余談だが、2017年に公開された『クレヨンしんちゃん 襲来!!宇宙人シリリ』ではサーカスの会場に観客としてケンとチャコの姿が確認できる。

21世紀の今と『オトナ帝国』

『オトナ帝国』から20年以上が経った。
「古き良き時代」の象徴だった大阪万博は希望ばかりの未来を映していた。『オトナ帝国』のメッセージも未来への希望だった。

だが、実際の21世紀はどうだったのか。
『オトナ帝国』はいわば大人たちと子どもたちの世代間の対立を描いた物語とも言えるが、現実でも世代間の対立は発生し、その溝は深まるばかりだ。老害という言葉もまだ『オトナ帝国』の頃には存在していなかった。
バブルの終わりとともに失われた30年とも呼ばれる長引く不況が今なお続いている。
『オトナ帝国』公開当時は中学生だったからわからなかったが、今『オトナ帝国』を観返すとひろしやみさえの気持ちがよくわかる。
誰にだって戻りたい過去はある。もう一度子供に戻って体験したいこともあるだろう。だが、無限に広がっていた人生の可能性はいくつもの後戻りできない分岐点を経て、選択肢は年月とともに減っていく。

2011年に公開されたウディ・アレン監督の『ミッドナイト・イン・パリ』もまたノスタルジーに囚われた男、ギルが主人公だ。ギルは現代の時代に居場所を見つけられないでいる。彼が憧れるのは自分が生まれる遥か以前のベル・エポック期のパリ。そしてひょんなことからギルはその時代へタイムスリップしてしまう。だが、結局は今を生きるしかないことに気づかされる物語だ。
「もしこの時代に残っても、いずれまた別の時代に憧れるようになる。他の時代が黄金時代だって考え始めるのさ。現在には不満を感じるものなんだ。なぜならそれが人生だから」

生まれた時代に対してどう希望を持って行動していくのか。
『オトナ帝国』では「懐かしいニオイ」は未来への希望を抱いた大人たちによって薄まってしまった。ケンは現代を「何のニオイもしない」と評していた。
『オトナ帝国』から20年以上が経った。私たちはひろしのような大人になれただろうか。良くも悪くも『オトナ帝国』が問いかけたメッセージは今なおリアルであり続けている。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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