10年以上前から三木聡監督の大ファンだ。
三木聡監督の作品は「脱力系コメディ」とも呼ばれ、どこか力の抜けたシュールな笑いが溢れている。
借金まみれの大学8年生や、フリーのライター、じり貧のOLや、夢を追うフリーターなど、三木聡監督の映画の主人公はどれも人生に対して不器用なのだ。
私も不安定な暮らしの中でそんな彼らに共感を覚えた。そして三木聡監督の映画はどれも、そんな人生でも受け入れ最大限に肯定してくれるような、そんな作品だった。
『大怪獣のあとしまつ』
そんな三木聡監督の最新作が『大怪獣のあとしまつ』。監督にとっては初の特撮映画になる。
三木聡監督らしく、これまでのヒーローが怪獣を倒す様子ではなく、怪獣が倒されてからその後始末はどうするのかがこの映画の内容だ。日本を未曾有の危機に陥れた怪獣の死体をどう処理するのか、政治的な駆け引きや現場で作業に当たる人々に焦点を当てている。
『大怪獣のあとしまつ』の主人公は総理直属の組織「特務隊」の若き隊員、帯刀アラタ。
人類を恐怖に陥れた怪獣。国防軍や特務隊の攻撃はおろか、どのような兵器も効かなかった怪獣は突如現れた大きな光に飲み込まれた。そして、光が収まると、そこには死体となった怪獣が横たわっていた。
怪獣の死体処理はどうするのか。アラタの調査によって怪獣の体内には腐敗により大量のガスが溜まっていくことが判明。爆発までの残り時間はあとわずか。西大立目総理や閣僚達はこの前代未聞の状況に右往左往するばかり。
アラタは元特務隊で元恋人の雨音ユキノやその兄のブルースの助けを借りながらなんとか爆発を防ごうとする。
怪獣が爆発したらその被害はどうなるのか?厚労省が怪獣の安全性を調査する中である情報が明らかになる。だが、ユキノの夫であり総理秘書官の雨音正彦はその情報をトップ・シークレットにし、ある目的のために策略を張り巡らせていた。
それぞれの思いが交錯する中、刻一刻とタイムリミットが迫っていく。
シリアスという要素
三木監督の映画を劇場で観るのは『俺俺』『音量を上げろタコ!なに歌ってんのか全然わかんねぇんだよ!!』につづいて今作で3度目だが、楽しみの半分、一方である不安もあった。ここ数年の三木監督作品は脱力系コメディもありつつ、やや内容がシリアスだったからだ。それも結末近くになって急な展開でそうなるものだから、映画の雰囲気がガラッと変わったまま終わってしまう。何故いきなりシリアスにする必要があったのか?モヤモヤを抱えたまま劇場を後にするのが、ここ数作の三木聡監督作品への正直な感想だった。
だが、今作ではそれは杞憂だった。『大怪獣のあとしまつ』は今までとは逆にシリアスな雰囲気で始まり、徐々に三木監督ならではの笑いが作品に浸透していく。そして予想外だったことに、今作は政治的・社会的な面を多く含んだブラックジョークのような作品でもあったのだ。
『大怪獣のあとしまつ』と『シン・ゴジラ』
三木聡監督によると、「怪獣退治の後始末はどうするのか」という内容の映画の企画は2006年からあったという。
だが、2006年と今では怪獣の持つ「意味」も変わってくる。
2011年の東日本大震災のあとに作られた2016年の『シン・ゴジラ』にはゴジラに震災のイメージが重ねられていた。ゴジラの通った後の風景は津波が襲った被災地のそれだった。
今回の『大怪獣のあとしまつ』の怪獣には震災のイメージに加え、新型コロナウイルスのイメージも感じられる。怪獣の上陸によって日本には緊急事態宣言が出されている。怪獣が死んだとしても元通りの日常に戻るのが難しいことも総理のセリフによって示唆されている。
「『新しい日常』って何なんですかね・・・。」
現実社会でもコロナ後の生活様式を「ニューノーマル」と呼んでいたが、要は以前の日常は諦めろということではないのか。それを「新しい日常」「ニューノーマル」とは単なる言葉の誤魔化しではないか。
さて、ここで『シン・ゴジラ』についても今作と共通する「政治と怪獣」という観点から見ておきたいと思う。
2016年に大ヒットした『シン・ゴジラ』はゴジラ以外は徹底してリアリズムを追求した作品だった。だが、 それゆえにシリアスな作品でもあったし、政治的な側面のみに終始し、組織の中の個人は描かれても、家族やプライベートな側面は一切描かれなかった。唯一の例外は石原さとみの演じる日系アメリカ人で大統領特使のカヨコ・アン・パタースンだが、それは「『シン・ゴジラ』に登場するアメリカは現実のアメリカではない」という非現実の記号でもあるのだろう。
ネット上には『シン・ゴジラ』と『大怪獣のあとしまつ』を並べて批評したサイトも多かった。本来緊迫しているであろう閣僚会議にことごとく笑いを生み出すような今作の方が評価は低いのもわかる。
三木聡監督を知らない観客の中にはシリアスな映画や本格的な特撮ものを期待して思いっきり肩透かしを食らう者もいるだろう。
だが、私は『大怪獣のあとしまつ』は決して悪い映画ではないと思う。そこには日本の今とその課題がシニカルに描かれたメッセージ性の高い作品であることには間違いないからだ。
コメディの中にこそ人間の本質はある
コメディとして演出されているものの、内閣の会議はその最たるものだろう。死んだ怪獣処理にどの省庁が責任を取るか、怪獣が資源となるか、危険物質となるかで責任の所在は目まぐるしく変わっていき、大臣同士が怪獣の処理の責任を各省庁で押し付け合っていく。
コメディの中にこそ人間の愚かさや弱さ、脆さ、そういった綺麗事ばかりではない人間の本質があるのではないだろうか。後処理のひとつとして真っ先に怪獣のネーミングを多くの専門家を交えて協議するその無駄さもその一つであるし、よりによってその怪獣に「希望」と名付けてしまうのも政治と国民との解離をよく示している。また、怪獣から発せられる悪臭が「ウンコの臭いなのか、ゲロの臭いなのか」と大真面目に大臣に問いかけるマスメディアの姿勢も、今日のメディアのレベルの低さを揶揄しているように思う。
例えばコロナ関連だと「◯曜日としては過去最多の感染者数です」これもよく聞いたニュースのレポートだが、曜日のデータや感染者と陽性者の区別もできていない、こんな情報に意味はあるのか?
さて、大臣の中でも特にメインとなるのがふせえり演じる環境省大臣の蓮佛議員だ。名前やファッションから明らかに立憲民主党の蓮舫議員をモチーフにしたキャラクターなのは明らかだ。
蓮佛議員は厚労省から怪獣の安全性のデータを極秘に入手し、環境省として怪獣の安全宣言を出そうとしたり、カメラの前で実際に一人、怪獣に乗り安全性をPRするなど、狡猾さと自己顕示欲の高い人物として描かれる。国民よりも自分のイメージと省庁の利益が先に来るようなキャラクターなのだ。
こうしたキャラクターを蓮舫議員に重ねてしまうような設定は実歳の人物に誤解や先入観を与えてしまう危険性もあるのだが、中々踏み込んだ設定だとも思う。
加えて、『大怪獣のあとしまつ』の中では隣国の大臣の言葉としてテレビニュース越しに記者会見の様子が映し出される場面がある。
怪獣が観光資源になるとの情報が流れると怪獣が誕生したのは我が国の領土内だと怪獣の所有権を主張し、逆に怪獣が有害なガスを撒き散らすと分ければ、賠償請求の姿勢を取るなど、自国の利益のためにはコロコロと態度を変える、モラルなき国家として描かれている。この隣国も言葉や文字から韓国をモチーフにしていることは明らかだ。
正直、個人的にはここまで攻めた表現として大丈夫なのか?とは感じた。現実に対するこの上ないストレートかつ強烈な皮肉には違いないが、こういう表現はコメディ映画だからこそ可能だろう。ここまで尖った表現は(それの良し悪しはまた別だが)『シン・ゴジラ』には見られない部分でもある。
またシリアスとコメディとのバランスだが、政治の部分は積極的にコメディとして笑えるものに変換しているが、現場で怪獣の後処理と向き合う者に関してはシリアスに徹している所も良かったと思う。
現場ではいわゆる「専門家」の意見がトップダウンで実行される場面も今の日本の合わせ鏡そのものだった。
菊地凛子演じる国防省大佐の真砂千が怪獣の冷凍作戦を現場の反対にも関わらず断行し失敗してしまう。ガスを周囲に撒き散らさず、成層圏に向かって真っ直ぐ吹き上げる方法を提言されても、提言した者が「専門家」ではないことがわかるとすぐに却下してしまう、権威主義の愚かさだ。
今の日本もそうではないか?感染症の専門家の分析や意見を取り入れ、政策を実行していたが、それは正しかったのか?まん防に緊急事態宣言、飲食店を中心に何度も繰り返したその対策は本当に効果をもたらしたのか?
『大怪獣のあとしまつ』では総理秘書官である雨音正彦の指示する対策の一つ一つに組織としてのプライドやメンツが透けて見える。このあたりも実に日本らしい。
また、個人的には三木聡監督の作品は万人受けする映画ではないと思う。みんなが及第点をつける映画ではなく、好き嫌いの分かれる映画だ。
笑いのセンスも独特なので、それが好きな人にはたまらなく面白いのだが、そうでない人にはスベっていると評されてもおかしくない。
そのあたりの作家性も理解しなければ三木聡監督の映画を真に評することはできないだろう。
希望というアンチテーゼ
作中の設定ではこの怪獣の死体は観光資源であったり、今後の希望に繋がるという意味合いから「希望 」と名付けられた。
しかし「希望」という名前は流石に無理がある。数多の人命を奪った怪獣の名前が「希望」?さらに怪獣は観光資源にもならず、死してなお爆発というリスクを孕んでいる。
「希望」…確かに耳ざわりの良い言葉だが、実際に希望へと繋がる事実に裏打ちされなければだだの空しい言葉なだけだ。
三木聡監督の『大怪獣のあとしまつ』はコメディではあるものの、だからこそ他の作品では成し得なかった現実社会の巧みな風刺にもなっている。
コメディの中にこそ人間の本質はある。
賛否両論分かれる映画だが、三木聡監督にしか作れない映画であることは確かだ。