
※以下の考察・解説には映画の結末のネタバレが含まれています
SF映画はしばしば現実社会のメタファーとして扱われることが多い。かの名作『猿の惑星』は東西冷戦の行末と公民権運動をその中に隠している。公民権運動は黒人を主とする有色人種が平等を獲得するに至る運動だが、人種差別の問題は今日に至るまでずっと続いているのが現実だ。
例えば1994年までは南アフリカ共和国においてアパルトヘイトと呼ばれる人種隔離政策が行われていた。
また今日においても「BLACK LIVES MATTER」という言葉に代表されるように法的な差別はないものの、世界に実質的に根強い差別は残っている。
2009年に公開された『第9地区』は難民として地球にやってきたエイリアンと人間との攻防を描くSF作品だが、そのベースにはアパルトヘイトがある。
『第9地区』
『第9地区』は2009年に公開された、ニール・ブロムカンプ監督、シャールト・コプリー主演のSF映画だ。
作品の舞台は南アフリカのヨハネスブルグ。その上空に20年ほど前に、巨大な母船と思われるUFOが飛来。人類を凌駕する科学力を持つ宇宙人との邂逅に世界中が沸き立つが、そこにいたのは栄養失調で死ぬ寸前のエイリアンの群れだった。

衰弱しきったエイリアン。世界中が注目していた出来事だったが…
政府はエイリアンを難民として保護し、「第9地区」と呼ばれる地域を彼らの保護区に制定する。
リアルなエイリアン
様々な宇宙人ものの映画がある中でも『第9地区』の設定は非常に秀逸だと思う。
『第9地区』のエイリアンにはこれまでにないリアルさがある。今までの宇宙人モノの映画は、宇宙人それ自体が文明や科学力とイコールだった。だが『第9地区』はそうではない。エイリアンたちの科学力は凄いのだが、一人一人のエイリアンはその技術力を持ち合わせていないのだ。
これはすごくリアルだと思う。例えば、私たちが宇宙航行でほかの惑星に生命を見つけたとする。この時、相手の文明が石器時代レベルだったとしよう。私たちの文明にはカメラ、コピー機、テレビ、冷蔵庫、パソコン、スマホなど、彼らにとっては別次元の科学技術を有していることは間違いがない。しかし、そのうち誰がカメラを作れるだろうか?例えば、今どきラジオを買う人は少ないと思うが、そのラジオでさえ私たちは作ることができない。
『第9地区』は何を表しているか
「第9地区」ではエイリアンと人間の衝突が絶えなくなってきていた。
「特殊なウイルスをばらまいて奴らを殺せ」「どこでもいい、消えろ」
インタビューで人々はエイリアンに対して不満をぶちまける。

ドキュメンタリー的な作りがリアルさを強くしている
第9地区には元になった作品がある。ニール・ブロムカンプが2005年に制作した短編、『alive in joburg』だ。そこでも同じように、エイリアンと人間の小競り合いが勃発しており、住人たちはエイリアンに対して、「奴らは俺たちを危険にさらす」「防弾チョッキを常に着用している」などと述べている。
実はこのインタビュー映像は、俳優によるお芝居ではなく、実際にニール・ブロムカンプが南アフリカの黒人たちにナイジェリアやジンバブエの黒人についてどう思うかを尋ねたドキュメンタリー映像だ。
ブロムカンプはそれこそが『第9地区』のアイデアを生んだと述べている(余談だが、元々エイリアンとは異星人ではなく「外国人」を指す言葉だった)。
「実は、このアイデアはそこから生まれたんだ。南アフリカには宇宙人が住んでいる、という発想から、『ジンバブエ出身のアフリカ人がここに住んでいることについてどう思いますか?』と尋ねたんだ。そして、彼らの答えは、演技ではなく、本当の答えだった」
その解決策としてエイリアン関連政策を請け負う多国籍企業連合(MNU)はエイリアンたちを第10地区という隔離地域に強制移住させることを決める。
MNUの幹部のピート・スミットの義理の息子でMNUの官僚であるヴィカス・ファン・デ・メルヴェはその強制移住の責任者に任命され、一戸一戸、強制的にエイリアンの立ち退きを進めていく。

ヴィカスは最初は官僚的なキャラクターとして描かれている
『第9地区』のロケはヨハネスブルグの郊外にあるソウェトの郊外、チアウェロという地域で行なわれた。監督のニール・ブロムカンプはその光景を「まるでチェルノブイリのよう」で、「核戦争後の荒廃した地」のようだと述べている。
この場所ではロケ当時、実際に移住政策が行われていた。政府の補助金を受けたRDP住宅という住宅に移住するために、この地域の住民は立ち退きを迫られていた。それは有無を言わさない強制的なものであり、撮影のたびに住民が減っていったという。
話を戻そう。ヴィカスが立ち退きを迫っている一方で、エイリアン側ではクリストファー・ジョンソン、幼い息子CJ、そしてポールという3人のエイリアンが母星に戻るための燃料の抽出に成功していた。だが、訪れたヴィカスが誤ってそれを顔に噴射してしまう。
その場は何事もないように見えたヴィカスだったが、次第に体がエイリアンへと変化していく。
「エビ」の本当の意味
ニール・ブロムカンプとともに脚本を担当したテリー・タチェルは、ニール・ブロムカンプはエイリアンのデザインにおいて、妥協しなかったと述べている。
「彼らは魅力的でもなければ、可愛くもなく、私たちの心を揺さぶるような存在でもない。彼は恐ろしく、強靭で、戦士のような姿をしたエイリアンを目指した。それははるかに難しい挑戦だった」
ブロムカンプは、「なぜこのイメージを思いついたのかはっきりとは分からないが、この環境には昆虫のようなエイリアンがぴったりだと思った」と述べている。
ちなみに劇中でエイリアンは「エビ」という蔑称で呼ばれているが、これは私たちが一般にイメージするエビではなく、パークタウンエビのことであり、名前とは異なってエビの仲間ではなく、コオロギの仲間である。このパークタウンエビはヨハネスブルグでは不快害虫とされており、脅威を感じると悪臭を放つ黒い糞液を噴射することもある。
ヴィカスは地下のMNU研究所に連れて行かれる。人類史上初めて生きながらエイリアンのDNAと融合したヴィカスは科学者たちの格好の興味の的となる。彼らはヴィカスを生体解剖しようとする。恐怖に怯えるヴィカスは研究所の職員を制圧して脱走。

助けを乞うヴィカスの叫びは無視される
ヴィカスを捕らえるために、「ヴィカスはエイリアンと交尾し、伝染病に感染した」というフェイクニュースが作成・放送される。
シャールト・コプリー
今作でヴィカス役を演じるのは、シャールト・コプリー。実はコプリーは俳優ではなく、本業はプロデューサーだ。
「以前、2分間の短編映画に出演したことはありますが、これが私の初めてのプロの俳優としての仕事なんだ」
ブロムカンプはコプリーについて次のように述べている。
「何十年も離れていた間も、ずっと連絡を取り合っていた。彼を俳優だと思ったことは一度もない。だって彼は俳優じゃなかったから。でも、彼は信じられないほどキャラクターになりきって、ふざけたりアクセントを変えたりする能力がある。なりたいと思ったどんなキャラクターでも、観客に信じ込ませることができるんだ。彼は南アフリカ版のサシャ・バロン・コーエンみたいな男だよ」
逃亡の身となったヴィカスは第9地区に身を隠す。そしてクリストファーとその息子と再会する。
クリストファーは、ヴィカスを救うためにもМNUに押収された燃料が必要だという。その燃料で母星にドッキングし、仲間たちを救い、故郷に帰還。そして船に搭載された装置でヴィカスを人間に戻すのだという。
ヴィカスはナイジェリアの犯罪組織からエイリアン用の武器を盗み出し、クリストファーとともにМNUを襲撃。無事に燃料を取り戻すが、そこで見たのはМNUが秘密裏にエイリアンに対して行ってきた生体解剖や残虐な医療実験の数々であった。

МNUにより焼死体となったエイリアン。変わり果てた仲間の姿にクリストファーは慟哭する
クリストファーはこの事態にまず仲間を助けることを優先し、ヴィカスに3年待ってほしいと伝える。ヴィカスは逆上し、クリストファーを殴り倒して、司令船に乗り込もうとするが、 司令船はМNUの傭兵部隊のトップであるクーバスに撃墜され、クリストファー共々またしてもМNUに捕らえられてしまう。
しかし、その途中でヴィカスはナイジェリアのギャングに拉致される。彼らはエイリアンを食べることでその力を取り入れることができるという信仰を持っていた。エイリアン化が進むヴィカスも食べられそうになるが、クリストファーの息子が起動させたロボット兵器に乗り込み、危機を脱出する。
一方、МNUに捕らえられたクリストファーはクーバスに処刑されそうになるが、ヴィカスが救出へ向かい、クーバスをはじめとする傭兵たちを壊滅させる。

本作は『ブレードランナー』や『エイリアン』などの世界観に影響を受けているという
クリストファーはヴィカスに3年後の約束を交わし、息子と共に船に乗り込む。
宇宙船が去り、なんの連絡もなく、誰もがヴィカスは死んだと思っていた。
だが、ヴィカスの妻の玄関には廃材で作られた造花が置かれていた。
第9地区では、完全にエイリアンと化したヴィカスが、クリストファーとの約束を待ちながら、妻のために廃材から花を作っていた。

ラストシーン。『第9地区』の続編はいまだに製作にGOサインが出ていない状況だ
District9とDistrict6
『第9地区』の原題は「District9」。これはケープタウンのディストリクト・シックス(第6地区)を思い出させる。
ディストリクト・シックスは1867年に誕生した。このエリアは街からも近く、街と港を繋ぐ中継点として人種や肌の色を問わず、多くの人が集まり、平和に暮らしていたという。その人数は6万人にも及ぶ。しかし、政府はその地区をディストリクト・シックスを犯罪が蔓延するスラム街だと言い、その原因を多くの人種が共存していることだとした。
1966年、政府はディストリクト・シックスを「白人専用区域」と宣言し、6万人を強制的に家から追い出した。街にはブルドーザーが押し寄せ、住人たちは自分が破壊される様子ただ混ている聞かなかった。彼らはを屋根のないトラックの荷台で、新しい居住地に強制的に移動させられた。
ニール・ブロムカンプは本作の内容を「政治的なメッセージではない」と否定しているが、改めて映画の内容を振り返ると、本作が人種差別のメタファーであることはもはや疑いようがない。
それでもブロムカンプが政治的な作品でないと言い切るのであれば、アパルトヘイトの光景は幼い頃からブロムカンプの生まれ育った環境にありふれたものだったのだろう、
しかし、今『第9地区』を観返して思うのは、これは「今」を予言した作品ではないかということだ。フェイクニュースをSNSで振りまく政治家、また移民と社会との衝突は日本でも大きな課題となっている。
犯罪者が捕まれば、その出自は中国人か韓国人か、いずれのデマが生まれる。
国籍なんて関係ないとまでは言わないが、それが全てではない。私たちだってそうだろう。なんだか、社会そのものが「МNU」のようになっているのではないかとも思う。
ヴィカスのように、「エイリアン」化までしなければ、私たちはイデオロギーの色眼鏡を外すことができないのか?
『第9地区』の公開から15年以上が経つが、今や現実社会の方が『第9地区』のディストピアに近づきつつあるのではないだろうか?