子供の頃にテレビで観て以来、『フォレスト・ガンプ/一期一会』は常に五本の指に入るお気に入りの映画でもある。
知能指数は低いが、純粋な男フォレストの半生を描いた作品だ。
『フォレスト・ガンプ/一期一会』
『フォレスト・ガンプ/一期一会』は1994年に公開されたロバート・ゼメキス監督、トムハンクス主演のドラマ映画。第67回アカデミー賞では作品賞をはじめ、監督賞、主演男優賞、脚色賞など複数部門を受賞している。
ちなみにこの映画の評価の影に隠れてしまったのが、同じく名作の名高い『ショーシャンクの空に』である。
原作は1985年にウィンストン・グルームが発表した同名小説。原作では荒唐無稽なコメディの趣もあるが、映画版は感動的な内容へと大きく印象の異なった作品になった。
幼い頃は知能指数の低いガンプが時代の波に翻弄されながらも純粋なままで成功を重ね、愛を叶えるという奇跡のような物語に惹かれていた。
アメリカ南北戦争時の南軍の将軍でありKKKの設立者のネイサン・フォレストにちなんで名付けられたフォレスト・ガンプは生まれつき知能が低く、また足も不自由な子供だった。小学生になると同級生からのいじめも始まるが、近所に住むジェニーだけはフォレストに暖かく接してくれていた。あるとき、いじめっ子がいつものようにフォレストを追いかけてくる。その時のジェニーの「走って、フォレスト!」の言葉に無我夢中で逃げていると足の器具が外れ、フォレストは誰より早く走れる少年になっていた。
高校になってもフォレストは相変わらず走っていたが、車で追いかけてくる同級生から逃げるために間違ってアメフトのコートに侵入してしまう。大学のコーチに俊足を見込まれたフォレストはアラバマ大学にフットボールの特待生として入学、全米代表にまで選ばれる。
その後もフォレストはベトナム戦争などの時代の波にさらされながらも、卓球やエビ漁などで成功し、時代を軽やかに生き抜いていく。
個人的に「子供のように純粋なままの心を持った大人」が主人公の作品に弱いのだが、そのきっかけは今思えば『フォレスト・ガンプ/一期一会』だったのだと思う。
だが、大人になると『フォレスト・ガンプ/一期一会』が無垢なだけの映画ではないことに気づかされる。
『フォレスト・ガンプ』への批判
『フォレスト・ガンプ/一期一会』は個人的には大好きな作品でもあるし、紛れもなく名作と呼べる映画だが、この作品には実は批判の声も根強い。
2016年に『大統領の執事の涙』という映画が公開された。その監督であるリー・ダニエルズは「『大統領の執事の涙』は『フォレスト・ガンプ』への反論として撮った」と述べている。
『大統領の執事の涙』は実在のホワイトハウスバトラーであるユージン・アレンをモチーフにしたセシル・ゲインズというキャラクターを主人公に、彼が奴隷として働いていた幼少期からホワイトハウスの大統領の執事として働く日々を通して、アメリカの人種差別と公民権運動の歴史を描いた作品だ。「『フォレスト・ガンプ』が隠した1960年代の公民権運動を描くために作った」そうリー・ダニエルズは言う。
『フォレスト・ガンプ/一期一会』は全米で最も人種差別が激しかったアラバマ州が舞台であり、加えて描かれている時代としても黒人差別と公民権運動の盛り上がりは本来避けては通れないはずだが、作品からはそれらがほとんど抜け落ちている。
カウンターカルチャーや公民権運動の隆盛をほとんど無視し、保守的なアメリカの賛美に徹しているからだ。その意味でフォレスト・ガンプの示す戦後史はかなりのバイアスがかかっているという声もある。
公民権運動に関して言えば、まずは2人の黒人学生ジェームズ・フッドとヴィヴィアン・マローンのアラバマ大学入学にガンプが遭遇するシーンだろう。そこでは黒人学生の入学に抗議する声明を出したアラバマ州知事のジョージ・ウォレスが映し出され、黒人学生の前に立ちはだかる。
ジョージ・ウォレスは人種差別主義者であり、「今ここで人種隔離を!明日も人種隔離を!永遠に人種隔離を!」をスローガンに選挙を勝ち上がった。この知事はアラバマの公民権運動を語る際に外せない人物でもあるのだが、もちろん『フォレスト・ガンプ』にはほとんど出てこない。このシーンのみだ。ここではガンプは黒人生徒の一人が落としたノートを拾ってあげるというコミカルな演出がなされている。
エメット・ティル事件
もちろん実際の黒人への差別はそんなものではない。
1955年、アラバマ州に隣接するミシシッピ州で起きたエメット・ティル事件を紹介しよう。当時わずか14歳だったエメット・ティルは白人女性に口笛を吹いただけで白人男性二人から凄惨なリンチを受け殺された。ティルの母親は、この犯行の残忍性を知らしめるために、原形を留めぬほど変わり果て損壊されたティルの遺体をあえて公開し葬儀を行った。
一方でティルを殺害した犯人たちは目撃者の証言があったにも関わらず、無罪となった。
『フォレスト・ガンプ/一期一会』で他に描かれるのはそのアラバマ大学への黒人生徒の入学問題と、黒人差別の反対を訴えた急進的なグループのブラックパンサー党くらいだ。
しかし『フォレスト・ガンプ/一期一会』で描かれるブラックパンサー党はジェニーにDVを行い、ドラッグを吸引するならず者のように描かれている。実際のブラックパンサー党はは女性の地位向上を訴えたフェミニズム運動とも連携していたのだが。
日本でも映画評論家の町山智氏が著書『最も危険なアメリカ映画』の中で『フォレスト・ガンプ/一期一会』と、同じくロバート・ゼメキス監督の出世作である『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に対して「歴史の歪曲とねつ造と虚偽に満ちている」と指摘している。
個人的には町山氏の映画評論のファンである。その膨大な知識と着眼点には常に新鮮な驚きと感動を覚えるからだ。
確かに大枠では町山氏の意見には同意せざるを得ない。
とは言っても大好きな映画『フォレスト・ガンプ/一期一会』がある種のイデオロギーに染まっていくのは哀しいものだ(町山氏も著書の中でできればこんな見方はしたくないと書いてはいるが)。
本当に『フォレスト・ガンプ/一期一会』はそれほど差別的な映画なのだろうか。
ジェニーとアメリカの影
まずは明白なことから。『フォレスト・ガンプ/一期一会』監督のロバート・ゼメキスのインタビューを参照して、フォレストとジェニーについて整理しておく。
ロバート・ゼメキスはフォレストについて「しっかりした自分の考えや政治的な信念を一切持たない純粋で純粋な人物」と述べる一方で、ジェニーというキャラクターに関しては「満たされぬ思いを抱えたアメリカの世代」だと述べている。「当時彼らが救いを求め走ったのが『セックス、ドラッグ、ロックンロール』。
フォレストはいわゆるアメリカの理想像であり、アメリカの明るく幸福な面の代弁者。
二人は当時のカルチャーの光と影を表す存在」
つまり、ジェニーが人生でことごとく失敗してしまうのは彼女がセックス、ドラッグ、ロックンロールに関わったからであり、フォレストが成功したのは無垢だったからと言うのだ。ここで問題なのは政治に関わることすらも「無垢ではない」とされてしまっていることだ。
そのことを考えさせられるシーンがある。
どこまでも無垢を貫く『フォレスト・ガンプ/一期一会』
フォレストがベトナム戦争帰還兵となって、ひょんなことから反戦集会に迷い混み、大勢の人の前でスピーチすることにになる。
「僕に言えるのはひとつだけです。(無音)僕に言えるのはそれだけです」
映画では肝心な部分が無音になってしまっている。反対派がフォレストのマイクのコードを抜いてしまったからだ。
この場面の裏話として、実際は脚本家のエリック・ロスとゼメキスは何通りものセリフを考えていたという。しかし、どれもしっくり来るものがなく、思い付いた策が「何かを話しているがマイクが繋がっておらず、その内容は誰にも聞こえていない」というものだった。
だが、ここにはれっきとした「正解」のセリフがある。
「ベトナムに行った人には両足を無くした人もいます。故郷に帰れなかった人もいます。悲しいことです。僕に言えるのはそれだけです」
これが映画版でフォレストが発したスピーチの内容だが、原作ではこの部分はこうなっている。
「戦争なんてろくでもないことです」
戦争に賛成か、反対か。この二択だって立派な政治的スタンスの表明になり得る。映画版の『フォレスト・ガンプ/一期一会』はそこからも離れて愚直に無垢を貫く。
逆にジェニーはどんどん政治活動に傾倒していく。ジェニーは公民権運動と反戦運動に熱心に取り組んだジョーン・パエズに憧れているという設定のキャラクターだ。
だがジェニー自身のキャラクターについて個人的にはジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』でヒロインを務めたジーン・セバーグの影響も感じることができる。セバーグは若くして成功をつかんだが、その後半生はあまりにも悲劇的だった。セバーグも公民権運動に傾倒し、ブラック・パンサー党にも近づいていく。だが、白人女優が黒人の解放運動に関わることは当時は相当にスキャンダラスなことでもあった。そのためにFBIに目をつけられ、根も葉もないデマを流され、神経を磨耗し、40歳という若さで自殺する。ジェーンもエイズに罹患し、フォレストと彼の間に生まれた息子を残して、若くして亡くなる。
もう一度ゼメキスの言葉を振り返ってみよう。
「当時彼らが救いを求め走ったのが『セックス、ドラッグ、ロックンロール』。フォレストはいわゆるアメリカの理想像であり、アメリカの明るく幸福な面の代弁者。二人は当時のカルチャーの光と影を表す存在」
本当にそうか?
ベトナム戦争を終わらせたのは全米的な反戦運動だが、カウンターカルチャーの後押しもそこには間違いなくあっただろう。ただ実際にヒッピーカルチャーは薬物の乱用やシャロン・テート殺害事件のような犯罪行為に結び付いてしまったこと、またベトナム戦争の終結と建国200周年による愛国心の高まりもあって、ヒッピー文化は急激に衰退したというのもまた一理ある。
『フォレスト・ガンプ/一期一会』は差別的な映画か?
今のところ町山氏の意見を裏付けるような情報しか出てこいが、個人的にはできれば保守やリベラルなどのイデオロギーの呪縛から『フォレスト・ガンプ/一期一会』を救い出したい。
公民権運動は十分に描かれているとは言えずとも、少なくとも黒人へ差別的な映画とは言えない。黒人への人種差別を熱烈に支持したジョージ・ウォレスはその罰を受けるかのようにその後アーサー・ブレマーに狙撃され、半身不随となる。『フォレスト・ガンプ/一期一会』はこの部分までしっかり映像として映し出している。
また、もうひとつはバッバの存在だ。ベトナムでフォレストの親友となった黒人の青年バッバことベンジャミン・ブルーだが、原作ではバッバは白人だ。映画版では黒人な訳だが、もしかしたら「マジカルニグロ」ではないかと思いもした。
また町山氏は『フォレスト・ガンプ/一期一会』はアメリカのベトナム戦争の敗北を描いていないと述べているが、それでも除隊後のダン中尉の絶望と堕落を見れば、アメリカの敗北は明らかだろう。
『フォレスト・ガンプ/一期一会』はフォレストの半生と共にアメリカの前後史を描いた作品でもある。
そう考えると、確かにヒッピーカルチャーは衰退し、1981年には保守的なアメリカの再興を掲げたロナルド・レーガンが大統領に就任した。ちなみにレーガン政権下でエイズが広まったこともつけ加えておこう。フォレスト・ガンプを演じたトム・ハンクスは1993年に公開された『フィラデルフィア』でエイズに感染した弁護士を演じている。
そもそも、個人的にはロバート・ゼメキスがそこまで保守的な人間だとは思えない。
ゼメキスのデビュー作は1978年に公開された『抱きしめたい』だ。『抱きしめたい』は1964年のビートルズのアメリカ初上陸をテーマに、なんとかしてビートルズを観に行こうとする三人の少女たちの熱狂と奮闘を描くコメディだ。
当時のビートルズはアイドル的な人気を誇りながらも「不良」の側面もあったはずだ。少なくとも今のように音楽の教科書に載るような評価は受けていなかった。『抱きしめたい』は多くのビートルズの楽曲も使われている。
また2015年の映画『ザ・ウォーク』では逮捕を覚悟の上で世界貿易センタービルの2棟を命綱なしの綱渡りで渡ったフィリップ・プティが主人公だ。
『フォレスト・ガンプ/一期一会』の続編
町山氏は『最も危険なアメリカ映画』の中で『バック・トゥ・ザ・フューチャー』もまた「歴史の歪曲とねつ造と虚偽に満ちている」と、この2作を同列に並べているが、こうしてみると『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は実は『フォレスト・ガンプ/一期一会』の続編であり、カウンター・カルチャーの勝利を描いた作品ではないかと思っている。
どちらかといえば『フォレスト・ガンプ/一期一会』はアメリカが実際に辿ってきた歴史、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』はファンタジーを描いていると言えるだろう。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』でカウンター・カルチャーの代表はロックンロールに夢中の主人公、マーティ・マクフライだ。彼とその一家は80年代には皆落ちぶれた冴えない暮らしをしていたが、マーティが過去にタイムスリップし、歴史に干渉したことで、未来でのマクフライ家は裕福で幸せな家庭へと変貌していた。さらにマーティは(本人が気づいているかは不明だが)ロックンロールの誕生にも大きな影響をあたえている。
ゼメキスが嫌悪し、ジェニーが傾倒した『セックス・ドラッグ・ロックンロール』は一つの時代を彩った後に「ロックミュージック」に形を変えて、メインストリームに残ったのだ。マーティはそんなロック・ミュージックを愛する、(フォレストから見ると)次世代の若者だ。
あえてロバート・ゼメキスがどういう人物かいうのであれば、ノスタルジーを愛する人ではないか。
既に80代を超えた映画監督ウディ・アレンは『ミッドナイト・イン・パリ』の中で主人公にこんなセリフを語らせる。
「もしこの時代に残っても、いずれまた別の時代に憧れるようになる。他の時代が黄金時代だって考え始めるのさ。現在には不満を感じるものなんだ。なぜならそれが人生だから」
いつだって過去は美しい。私たちもそう思うだろう。だからこそ、『フォレスト・ガンプ/一期一会』は名作であり続けるのだ。