『グレムリン』という映画を知ったのは小学4年生の時だ。映画好きな担任の先生が、今度テレビで面白い映画があるよ、と紹介してくれたのが『グレムリン』だった。
たしかに『グレムリン』は子供向けの映画に思える。
主人公たちが飼う、不思議な生物「モグワイ」も可愛らしいし、彼らが変貌したグレムリンも特撮好きの男の子の興味を刺激するモンスターとしての魅力がある(『ゴジラVSキングギドラ』に登場する、未来のペットのドラッド葉モグワイに影響を受けている)。そして、ルールを守らないととんでもないことが起きるというメッセージも寓話的だ。
だが、大人になって改めて『グレムリン』を観てみると、本当に子供に勧めて大丈夫かと思いたくなるようなショッキングなシーンも多い。そして、グレムリンはなんと日本人がモデルだという噂もあるではないか。実際はどうなんだろうか?
今回は『グレムリン』を制作過程から見ていき、そこに込められた本当のメッセージを考察してみたい。
『グレムリン』
『グレムリン』は1984年に公開されたジョー・ダンテ監督、ザック・ギャリガン主演のSF映画だ。
主人公のビリーは出世コースからは落ちこぼれた銀行員。ある日内緒で職場に連れてきていた、ペットの犬(バーニー)が銀行の大口顧客であるディーグル夫人の持ち物を壊したことで夫人とトラブルになり、解雇寸前にまで陥ってしまう。勤務終了後に立ち寄ったパブでビリーはディーグル夫人が怪物に夏還イラストの落書きを描く。そこに現れた同僚のジェラルドはそんなビリーを嘲笑し、自分がいかに有能であるかを語るのだった。
ビリーとマーティ一
このビリーというキャラクター、誰かに似ていると思ったら、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の主人公のマーティーとその家族だ。
マーティ一家もまた時代の流れを上手く乗りこなすことができずに落ちぶれている。
マーティーは1950年代の「古き良きアメリカ」にタイムスリップし、自身の両親の過去を修正する。そして再び現在へ戻ってくるわけだが、すると修正した過去のおかげで、現在では一家は満ち足りた生活を送れるようになっている。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』公開当時の大統領はロナルド・レーガン。レーガンは「アメリカを再び偉大に!」をキャッチフレーズに大統領選挙を勝ち進んだ。レーガンの言う「偉大なアメリカ」の時代も1950年代だ。
その意味で『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は政治的に保守的な作品だと評されることもある。
しかし、『グレムリン』のビリーはそうではない。レーガンは「レーガニズム」と呼ばれる新自由主義経済を推し進めたが、その姿勢はむしろジェラルドのキャラクターに重なる。
ジェラルドのキャラクターは『ウォール街』や『アメリカン・サイコ』で描かれた、金銭的、物質的な成功に取り憑かれた人間だ。
ちなみに『ウォール街』、『アメリカン・サイコ』は公開年こそ大きく異なるが、どちらも1980年代のウォール・ストリートを舞台にした作品だ。
では、『グレムリン』のビリーに投影されているのは何だろうか。
実はビリーは監督のジョー・ダンテ自身の姿が投影されている。
ジョー・ダンテは1946年にニュージャージー州で生まれた。父親はプロゴルファーだったが、ダンテ自身はスポーツに興味が持てず、代わりに映画に熱中するようになる。大学卒業後は「B級映画の帝王」ロジャー・コーマンの映画会社に入社するが、十代の頃は漫画家を志し、美術学校に入学したという経歴も持つ。
周囲の求める成功から外れ、ディーグル夫人の醜悪なイラストを描くビリーの姿はまさしく10代の頃のダンテ自身だっただろう。
3つのルール
さて、そんなビリーだが、誕生日に父からモグワイと呼ばれる未知の生物をペットとしてプレゼントされる。チャイナタウンで怪しげな骨董品店で、店主の孫からこっそり買い取ったものだ。
ビリーは「ギズモ(新製品という意味だ)」と名付けられたモグワイを気に入り可愛がる。だが、モグワイの飼育には以下の3つのルールが存在した。
1. 強い光に当ててはいけない
2. 水に濡らしてはいけない
3. 真夜中に食料を与えてはいけない
しかし、偶然も重なり、その約束は一つずつ破られていく。
水に濡れて増殖したモグワイは、次第にいたずらを行うようになり、ビリーの時計にも細工をする。そのせいで時間を読み間違えたビリーは気づかずに真夜中にモグワイに食料をあげてしまう。
それによってモグワイは繭のような形態になり、中から爬虫類のような皮膚をしたグレムリンが登場する。
グレムリンの起源
劇中でも言及されているが、そもそものグレムリンとは飛行機の中に潜んで故障を引き起こすとされる魔物のことだ。当時の人々は原因不明の故障をしばしばグレムリンという魔物の仕業と考えた。
グレムリンの存在は第一次世界大戦中の英国空軍にて語られるようになったという。『魔女がいっぱい』や『チャーリーとチョコレート工場』で知られる児童文学作家、ロアルド・ダールが1942年に著した『グレムリンズ』によって、グレムリンの知名度は世界へ波及していく。
ダール自身も英国空軍でパイロットとして働いた経験があった。第二次世界大戦中にもグレムリンを目撃したという報告がされたことがあるが、機械の不調を魔物のせいにすることで、仲間である整備士への責任を回避させる狙いがあったようだ。
しかし、映画版のグレムリンのイタズラは度を越している。パトカーのブレーキを故障させたり、銃を撃つなどは当たり前、バーを占拠したり、果てにはあの強欲なディーグル夫人の自宅のリフトのスピードを過度に上げて、窓の外へ放り投げて殺してしまう(未公開シーンではビリーを叱責した銀行の頭取もグレムリンによって殺されている)。
そんな中でもビリーの母親は突如出現したグレムリンを3匹ほど退治するなど善戦しているが、グレムリンの首をはねたり、ミキサーに突っ込んだり、電子レンジに入れて破裂させるなど、いくらモンスターと言えど実写でなるにはなかなかドギツイ描写ばかりだ。
なぜこれほど『グレムリン』は残酷なのか
冒頭にも述べたが、なぜこれほど『グレムリン』は残酷なのだろうか。
それはもともと『グレムリン』の脚本はホラー映画として書かれたものだからだ。
最初にグレムリンの脚本を書いたのは当時学生だったクリス・コロンバス。コロンバスの脚本ではギズモは中盤からグレムリンへと変貌し、映画のようにギズモは最後までギズモでありつづけることはない。また、首をはねられて生首になるのはグレムリンの方ではなく、ビリーの母親の方だったという。
だが、ダンテが音楽を依頼したジェリー・ゴールドスミスは『グレムリン』の音楽をコミカルなものにしてしまう。また、プロデューサーを務めたスティーヴン・スピルバーグからも「グレムリンはパペットで動かし、どう見ても人形だからホラーにはならない」と言われてしまう。ちなみにギズモを最後までギズモのままにしようと提案したのもスピルバーグだ。
ダンテはコロンバスは映画の内容が当初の脚本とは大きく変わっていて随分ショックを受けていたと語っている。
これは余談だが、怖いグレムリンということであれば、年に『シャドウ・イン・クラウド』という映画が公開されている。こちらもモチーフになっているのはグレムリンだ。
今作は元々はダン・オバノンが1970年代に書いた没脚本が元になった映画であり、大ヒットとなったSFホラーの『エイリアン』も同じ脚本のアイデアを発展させて誕生した映画なのだ。こうしてみると、コロンバスが当初の『グレムリン』の脚本をホラー映画として書いたことにも納得がいく。
だが、それでもホラー映画として企画されたことの名残なのか、子供向け映画としては残酷な場面は多い。
ビリーの恋人である、ケイトが語る幼い頃のクリスマスの思い出もそうだ。その内容は「いなくなったと思った父親がサンタの格好をしたまま、煙突に詰まって亡くなっていた」といもの。あまりに衝撃的で、たとえギャグだとしても笑えないほど残酷だ(映画スタジオはこのシーンのカットを要求したが、ダンテは従わなかった。スピルバーグはダンテの意志を尊重したが、それでもダンテがなぜこのシーンにこだわるのかは理解できなかったという)。
PG‐13というレイティング
そんな映画なので『グレムリン』は史上初めてPG-13(13歳未満は保護者同伴)の指定を受けた。いや正しくは『グレムリン』のためにPG‐13というレイティングが作られた。
それまではR指定(18歳未満は保護者の同伴が必要)か、PG指定(保護者の同伴が望ましい)しかなかった。このPG‐13のレイティングはスピルバーグが全米映画協会に掛け合って生まれたものだ。ちなみに1999年に公開された『スモール・ソルジャーズ』でもダンテはスピルバーグの製作会社ドリームワークスとタッグを組んでいるが、『スモール・ソルジャーズ』もまた人形手足がもげるなどの表現を行い、指定作品となっている
『グレムリン』に込められたものは残酷さだけではない。『グレムリン』にはダンテの映画に対する憧れが散りばめられている。
劇中でビリーが観ているのは、1956年のSF映画、『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』だ。そして母親が観ているのはフランク・キャプラの名作『素晴らしき哉、人生!』。どちらもダンテが幼い頃から親しんできた映画であることは想像に難くない。
ダンテ曰く、『グレムリン』の性悪なディーグル夫人は『素晴らしき哉、人生!』における悪役のポッターのイメージだという。ただし、キャプラはポッターを殺すようなことはしなかったが。しかし、言われてみれば『グレムリン』の舞台がクリスマスなのも『素晴らしき哉、人生!』にリンクする部分がある(本作をクリスマス映画と呼ぶかどうかは『ダイ・ハード』同様、意見の分かれる部分だと思うが)。
また、ビリーが保安官にグレムリンの頃を相談するも、信じてもらえない場面は『ボディ・スナッチャーズ』の一場面のオマージュだ。
チャイナタウンの店主を演じたケイ・ルークは、1940年の映画、『グリーン・ホーネット』でカトー役を演じている。ティム・バートンは『シザーハンズ』の中でかつて自身が夢中になった俳優、ヴィンセント・プライスを主人公の創造主役として抜擢したが、ダンテにとってはケイ・ルークが同じような存在だったのかもしれない。
テレビを見せるな
ケイ・ルーク演じる骨董品屋の店主は騒動が収まったあと、ビリーの家にモグワイを引き取りに来る。その時、ギズモはビリーとともにテレビを見ていたが、店主は「モグワイにテレビを見せるな」とビリーを一喝する。
店主の目に人間社会はどう映っているのかがわかる。先に述べたように当時はレーガン政権でジェラルドのような強欲な人間が目立っていた時代だ。もちろん、ネットも存在しない。そんな中でテレビはモラルの善悪以上にそんな時代の雰囲気を多くの人に伝播させ、再生産する、これ以上ない機械だっただろう。
そんな人間社会の「空気」にこそ、モグワイを触れさせてはいけなかったのではないか。
『ウォール街』でオリバー・ストーンはモラル無き拝金主義と化した当時の証券業界を痛烈に批判している。
『グレムリン』もまた、「約束を守ること」といえ最低限のモラルの大切さを説いた作品だと思う。だが、そこには拭いきれないホラー映画の名残と、ジョー・ダンテのブラックジョークという「毒」がふんだんに盛り込まれている。
ジョー・ダンテの映画監督としてのヒット作は今作『グレムリン』程度だ。続編の『グレムリン2 新種誕生』は今作以上に様々な映画へのオマージュを入れ込み、ストーリーすら二の次の作品となってしまい、今作と比較して興行収入も惨敗してしまう。ダンテの持つ毒は他ならぬダンテ自身をも蝕んでいったのだろう。