『うつろな人々』
イギリスの詩人、T.S.エリオットは、1925年に代表作となる『うつろな人々』を発表した。
エリオットの目から見た現代人の魂の空虚を描写した作品だ。
1925年当時の青年たちは「ロストジェネレーション」の世代とも呼ばれる。日本では「失われた世代」と呼ばれることが多いが、正確に言えば、それは誤訳で、「迷える世代」という言葉の方が正しいだろう。
第一次世界大戦による旧来の価値観への疑問の芽生えや、享楽的かつ刹那的に生きる当時の人々をエリオットは「うつろな人々」と呼んだのだろう。
『インビジブル』
さて、今回紹介したいのは、そんなうつろな人々と同じ原題を持つ映画、『インビジブル』だ(原題は『Hollow Man』)。とは言っても『インビジブル』は透明人間をテーマにした作品で、T.S.エリオットとは、何の関係もない。『インビジブル』の公開は2000年、監督はポール・ヴァーホーヴェン、主演はケビン・ベーコンが務めている。
今作を初めて観たのは、公開の翌年、ビデオレンタルで観たので確か2001年くらいだったと思う。主演のケビン・ベーコンは知っていたが、ポール・ヴァーホーヴェンという映画監督は全く知らなかった。
だが、もし私が今『インビジブル』を初めて観たとしても、今作がヴァーホーヴェンの作品だと気づきはしないだろう。
前述の通り、透明人間を題材にした作品ではあるものの、H・G・ウェルズのSF小説『透明間』とは直接の関係はない。
本作では生物を透明にする技術はすでに開発されているものの、透明になった生物を再び元の状態に戻すのは難しいという設定がなされている。
主人公はケビン・ベーコン演じる天才科学者のセバスチャン。彼が率いる研究チームは国家の機密計画として、人体の透明化に取り組んでいる。劇中ではまず、動物実験によって、ゴリラが透明になる。ここで透明化した動物は時間が経つと凶暴性が増すというのが、後々への伏線になっている。そしてある日、とうとう動物の復元に成功する。歓喜する研究所のメンバーたち。しかしセバスチャンはこの結果を国家に報告せず、更なる名声を求め、周囲の反対を押し切り、自分の身を使っての人体実験を行う。
このゴリラとケビン・ベーコンの透明化の描写は本作の見どころの一つだろう。
昔みたいに、煙のように一気に透明になるわけではなく、まず皮膚が透明になり、次に筋肉、内臓、骨と人体模型を一つ一つ分解していくように透明化が進んでいく。
『インビジブル』の製作費は9500万ドルと言われるが、その半分以上の約5000万ドルが視覚効果に費やされたという。
ヴァーホーヴェンはCGクリエイターらを医学学校に通わせ、正しい人体構造を勉強させた。そして、骨や筋肉、神経、血管に至るまでベーコンの体に基づいて精巧にCGで再現したという。
セバスチャンの目線
透明化に成功したセバスチャンだが、その体はゴリラと同じようには復元しなかった。苛立つセバスチャンは、やがて透明な状態を利用し、研究所を抜け出し、性犯罪に手を染めていく。
ここでカメラはセバスチャンの目線になる。観客はセバスチャンと同化し「いけないことをしている」スリルを味わうことになるが(実際、子供の頃に透明人間になるなら何をするか?という妄想は多くの人が経験あるだろう。男子ならばスケベな妄想をした人も少なくないはずだ)。だが、セバスチャンに襲われる女性の悲鳴で、観客はそれ以上セバスチャンには共感出来なくなるはずだ。
ここで、セバスチャンに襲われる女性を演じているのは、後に『アンダーワールド』シリーズで主役を務めるローナ・ミトラ。一説によれば実際にレイプシーンも撮影されたが、本編では使われなかったという。
しかし、その後の展開は実に凡庸なものだ。
セバスチャンの暴走に気づいた研究所のメンバーは、このことを上層部の人間に報告し、セバスチャンを止めようとするが、その会話を透明人間として聞いていたセバスチャンは、逆に上層部の人間を殺し、研究所のメンバーもまた皆殺しにしようとする。一人ひとり、セバスチャンに殺されていく中で、セバスチャンの元恋人であるリンダと、リンダの現恋人であるマットは、セバスチャンをかろうじて撃退することに成功する。
本当に「見えない」もの
この流れの中に何か意外性はあっただろうか?そこには『ロボコップ』のような残虐性も、哲学的な問いかけも、『スターシップ・トゥルーパーズ』のような隠されたメッセージも、『氷の微笑』のようなサスペンスも感じられない。
「私が優しくて心地いいものを作ると思うかい? これまでの作品を見れば分かるだろう。残酷で血まみれなのが好きなんだよ」
本作の公開時、ヴァーホーヴェンはこのように述べたと言うが、それにしては『インビジブル』は大人しすぎる。
本作で本当に見えないのはケビン・ベーコンの姿ではなく、ヴァーホーヴェンの作家性だ。
ヴァーホーヴェンの作家性
ヴァーホーヴェンはセックスと血にまみれた作品を作り続けた。オランダ出身のヴァーホーヴェンは、幼い頃ナチスの占領下の街で育った。道には死体が転がっているような環境だったが、幼いヴァーホーヴェンはそれを「エキサイティング」と感じていたそうだ。その死体はナチスによって殺されたのではなく、連皇国の爆撃によって殺されたのだった。オランダの味方であるはずの連合国が、ナチスを倒すためにオランダを攻撃する。
この現実はヴァーホーヴェンに「善も悪もない」という思想を植え付けた。現実は決して単純でも綺麗事でもない。それどころか、血みどろでゲロにまみれて、下劣で暴力的ではないか。
ヴァーホーヴェンの作家性とはまさにそれだ。『ロボコップ』では、暴走したロボット警官の試作機が命令に背いて開発会社の社員を撃ち殺す描写がある。劇場版からはカットされているが、本来は器官銃の連射によって社員の体はズタズタになり、あまりに激しい銃撃によって「死のダンスを踊っている」ように見える場面も撮影されていたという。『トータル・リコール』では現実と夢、善と悪が曖昧になり逆転していく。
『スターシップ・トゥルーパーズ』はギャグのように人体がバラバラになっていく。それはヴァーホーヴェンが幼い頃に見ていたナチスのバラバラ死体を思わせる。また劇中の主人公らは人類の存亡をかけて昆虫型宇宙生物と戦うのだが、その制服は見るからにナチスを意識したものだ。『スターシップ・トゥルーパーズ』の原作は、ロバート・A・ハインライン自身の軍国主義が強く押し出されたものだが、ヴァーホーヴェンはそれを徹底的に皮肉るような映画に仕上げてみせた。それに気づくと果たして劇中の主人公たちが本当に善の存在なのか分からなくなる。彼らはかつて先住民族の土地を奪い、虐殺したアングロサクソンと同じかもしれないのだ。
上記で挙げたこの3本はヴァーホーヴェンがオランダからハリウッドへ渡った後に作られた作品だが、ハリウッドでもヴァーホーヴェンの作家性は貫かれていたことが分かるだろう(ヴァーホーヴェンをハリウッドに呼び寄せたスティーヴン・スピルバーグは、ヴァーホーヴェンの才能は高く認めていたものの、その作家性から『スター・ウォーズ』シリーズの監督はさせなかったという。「だってジェダイがレイプし始めたら困るからね」)。
自分でなくてもよかった
しかし、『インビジブル』ではそんな作家性もほとんど見えなくなってしまう。
ヴァーホーヴェンは『インビジブル』についてこう述べている。
「『インビジブル』は自分の作品の中で初めて、撮らない方が良かったと思った作品だった。ヒットはしたものの、自分でなくてもよかったという想いが否めない。他の誰にでも撮れる作品だ。『ロボコップ』や『スターシップ・トゥルーパーズ』は自分でしか撮れなかったと思う。しかし、『インビジブル』はハリウッドに他に20人ぐらい撮影できる監督がいる。2002年からずっとそう思ってきたよ」
ヴァーホーヴェンは『インビジブル』は大手スタジオの過大な干渉によって「空っぽ」になってしまった作品だという。
事実、ヴァーホーヴェンがハリウッドで組んでいたのは、オライオンとカロルコ・ピクチャーズという小さな独立系の映画会社だった。オライオンはハリウッドにあってビジネスとしての映画よりもまだ監督の作家性を大事にしてくれていた。ハリウッドデビュー作となった『グレーㇳ・ウォーリアーズ』から『スターシップ・トゥルーパーズ』まではその映画会社と組んでいたが、カロルコ・ピクチャーズは1995年に製作したヴァーホーヴェン監督の『ショーガール』の失敗により倒産。『インビジブル』はコロンビア・ピクチャーズでの製作となった。
スタジオの奴隷
『インビジブル』制作の日々をヴァーホーヴェンは「スタジオの奴隷になった気がした」と振り返る。
かつては血と糞尿とゲロとセックスにまみれた映画を撮り、それが自らの作家性として認知されていた映画界の巨匠、それがポール・ヴァーホーヴェンだった。
『インビジブル』は、全世界で1億9,020万ドルの収益を上げた。ヴァーホーヴェンの作品では1992年に公開された『氷の微笑』以来のヒット作となった。
だが、今作を最後にヴァーホーヴェンはハリウッドを去る決断をする。
オランダ映画界に復帰したヴァーホーヴェンはかつてと同じ、善と悪の混ざり合った、スキャンダラスな作品を撮り続けている。