※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています
映画館の楽しみの一つは上映前の予告編だ。上映会時刻になってもまだ予告編が延々流れ続けるので、上映前の予告編が嫌いという人もいるというが、個人的には思いも寄らない作品との出会いにもつながる、大切な機会なのだ。
さて、そんな中でも観てみたいなと思ったのが『本心』だ。
『本心』
原作は平野啓一郎の同名小説。監督は『月』の石井裕也、主演は池松壮亮が務めている。
AIが発達した社会で、母を失った青年が、母のアバターを作成。なぜ母は自ら命を絶ったのか、そして、生前最後に母が自身に伝えようとしていたメッセージは何であったのかを探していく物語だ。
観る前までは邦画にありがちなツッコミドコロ満載の作品かと思っていた。特にAIとして復元された母親が抱き続けている秘密のメッセージだが、AIがどうして秘密を知っているのかという点は興味深い。
AIは完璧ではない。その人の可視化された情報を復元してその人に近い別の何かを作っていく。非可視化されたものは決して反映されない。
例えば、離婚したいと思っている人がいたとする。しかし、その人がその意思を何らかの形で残していなければ(おそらくネットの検索履歴もその人を形成する一つのデータとして扱われるとは思うが)、それはAIに反映されることはない。
この時点ですでに本物とは違う「ニセモノ」になってしまうのだ。
原作での時代設定は2040年だが、今回の実写版は2026年が舞台となっている。変更された理由は、現実社会のAIの進歩がそれだけ目覚ましいからということらしいが、それでも今の基準からみると、とても再来年には実現するとは思えない技術ばかりだ。
母の死
主人公の石川朔也は28歳で母と同居しながら工場で働いている。生まれてすぐの時に両親は離婚し、朔也は母と二人だけの家族として暮らしてきた。
勤め先の工場も機械が導入されており、幼馴染で同僚の山岸は自分達もいつまで働けるかわからないとボヤく。
昼休みに母から「夜に伝えたいことがある」と告げられるが、朔也は同僚と飲みの約束があり、その日は母親からの話を聞くことはできなかった。
その夜、自宅付近では土砂降りとなっていた。朔也は川を挟んだ道路の向かい側に母がいることに気付いた。洪水となっている川に入ろうとしている母。呼びかけの声も空しく、母は川の中へと姿を消していた。朔也も川の中へ飛び込むが、目覚めるとそこは病院だった。なんと朔也は一年間も眠っており、その間に勤めていた工場は潰れ、そして事故だと信じていた母の死は「自由死」であったことが明かされる。
「自由死」
今作での大きなキーワードの一つが「自由死」だ。高齢化社会の現代、日本でも「安楽死」の制定を望む声は少なくないが、今作の設定ではそれをより推し進めた「自由死」が認められている。安楽死は海外では法的に認められているケースも多いが、実際に安楽死を認められるにはいくつかの条件が必要だ。
例えばオランダでは
・患者の決断が完全に自発的な意思であること
・生きることが改善の見込めない耐え難い苦痛」となった
・あるいは今後そうなると予想されること安楽死以外に合理的な代替策がないことについて医師の認定があること
・加えて別の医師が独立の立場から同意すること
が義務付けられている。
安楽死を尊厳死の一つと考えるならば、「自由死」とは自分の好きな時に好きに死ぬ権利であり、尊厳死を無条件で認めたようなものだ。
つまり、合法的に自殺が認められている社会ということだ。もちろん、現実においても自殺は犯罪ではないものの、それを手伝った人間は自殺幇助罪に問われる。
しかし、自殺が自己決定権の一つとして幅広く認められるのであれば、自殺幇助は意味がなくなるだろう(ちなみに原作において「自由死」の認可条件として、ポジティブな理由であることが求められている)。
『本心』の中では自由死によって税制が優遇されたり、政府から見舞金が支給されたりと、積極的に推進されているかのような描写もある。しかし、朔也は自由死という制度に強く反対している。
原作と映画の違い
その心の奥には、「母親が自由死を選んだのは、経済的な理由があったのではないか?」という思いがあったからだ。
『本心』は原作と映画でそのテーマは微妙に異なっている。
映画では、母が亡くなって初めて自由死を望んでいたことを知り、その選択の理由と伝えたかったメッセージを求めること作品全体の目的になっているが、原作では生前の朔也との会話でも母自らが自由死を望んでいることを語り、その選択の意味もその時にあっさりと明かされる。原作における朔也は、他者との関わりによってもう一度母の姿を捉え直し、自らの成長を通して、母の決断とその理由を受け入れていく。原作を通しての目的の一つは朔也の本当の父親は誰か?ということだが、映画版では中盤であっさり明かされる。
リアルアバターが示す格差
逆に格差や貧困、孤独などの社会問題はどちらも共通したテーマとして描かれている。もちろん細かく描かれているのは原作の方だが、映画版の方が実社会に即してイメージしやすい。
例えば朔也が働くリアルアバターという職業。これは依頼者の実体代わりとなって、あらゆる任務をこなす、名前の通り、人間自身が現実社会でのアバターとなる仕事だ。
彼らの仕事服は小説版ではイメージしづらいが、映画ではぱっと見でウーバーイーツの配達員を思わせる。
リアルアバターは個人事業主として会社と契約するわけだが、ウーバーイーツもまた個人事業主としての契約だ。このリアルアバターだが、イメージとしては配達以外もとにかくなんでもやるウーバーイーツ配達員だ。
特に評価に関しては非常にシビアでレビュースコアが3.5を切ると契約解除になる。レビューサイトの平均的な「普通」のスコアが3.5であることを考えると、これは非常に過酷な仕事でもある。また、契約者によってはリアルアバターに無茶なことをさせて楽しんだり、劇中では「人が死ぬ顔が見たい」とリアルアバターに殺人命令まで下している。
原作にはリアルアバターというビジネスには様々な規約も存在しているという記載があったが、それでもYouTubeのように抜け穴はたくさんあるのだろう。
リアルアバターは『本心』における格差社会の象徴的な図式だ。このサービスを運営しているのは複数の会社があると原作中に記載がある。朔也はそれらの会社の中でも最も良い会社と契約していたが、それでも年収は300万だ。
おまけにレビュースコアを始めとした様々な評価制度があり、不安定な仕事だとも言える。
映画では朔也は勤めていた工場がなくなり、山岸にリアルアバターの仕事を紹介されるが、原作では母の存命中から8年ほどリアルアバターの仕事を続けているという設定だ。この8年という長さはリアルアバターの中では相当な古株で数少ない存在なのだという。
『本心』の原作が新聞に連載されていた時期はちょうどコロナ禍が始まる前からだ。
2020年1月に入ると緊急事態宣言が日本でも発令されたが、その中で感染リスクを冒して活動する配達員はある意味でリアルアバターのような存在だっただろう。持つものは感染リスクの少ない場所から、彼らのような持たざるものにリスクを集中させ、食事を受け取っていたのだから。ちなみにサービスという語句の由来は、ラテン語のセルヴィタス(奴隷)という言葉だ。
VFの「母」
朔也は山岸から紹介されたVF会社の記述者である尾崎に母のVFの製作を依頼する。VFとはバーチャル・フィギュアの略で、仮想空間にその人そっくりのAIを作り出すことだ。それは実際に触れることができない以外は、生身の人間と何ら変わりないものだった。
朔也に仕事を紹介した山岸は、尾崎の娘の子守もリアルアバターとして担当していたが、娘の気まぐれによってリアルアバターをクビになり、怪しいバイトに手をつけていく。
このあたりは昨今、社紀問題化している「闇バイト」を思わせる。そして案の定、山岸の関わった仕事は政治家の暗殺準備の一つとなるものだ。事件の末尾として、指示役も仲間も実はVFで架空の人物であったことが明かされる。
朔也のVFに戻ろう。朔也はあくまでもVFは亡き母ではない点に葛藤しながらも、母親のデータを尾崎に送り、母を再現していく。
だが、母をより完璧にするには、生前母が親しかったという女性、三好彩花が持つ母のデータが必要だった。三好から母のデータを受け取り、ついに母が完成する。そして、三好とのやり取りの中で彼女が被災し職もなくしてあることを知った朔也は、母の暮らしていた部屋で三好とのルームシェアを提案、二人は共に同じ家に住むことになる。
だが、三好は過去の体験から他人に触れることも触れられることもできない。彼女は幼い頃から貧しさの中で生きてきた。金を稼ぐためにセックスワーカーとして働き、命の危険を感じるようなことも少なくなかった。
生きることそのものの難しさ
『本心』では三好や山岸が抱えているような、生きることそのものの難しさも描かれている。というか、母と息子の話よりもむしろそちらがメインとすら言える。
朔也はリアルアバターとして働くものの、理不尽なクレームや、無茶な指令によって、仕事としても精神的にも崖っぷちに立たされていた。
そんな時に耳に入ったのが男の怒鳴り声だ。コインランドリーで女性の店員に詰め寄っている。女性怯えて何も話せないでいるが、それが一層男の怒りを掻き立てているらしい。
朔也は男を止めに入った。男は一瞬たじろいだものの、朔也がリアルアバターだと知ると、一転して朔也を嘲笑してきた。朔也の脳裏には苦い記憶が蘇っていた。
朔也は高校の頃に教師に暴力を振るい、逮捕された前科がある。それによって進学を諦め、高校も中退した。
なぜ暴力を振るったのか。朔也が好きだった女性生徒をその教師が侮辱したからだ。
朔也の片思いの相手は、売春疑惑によって退学になっていた。 その教師は彼女を庇うどころか、「あんな女と関わると人生損するぞ」と吐き捨てたのだ。
気がつくと朔也は男の首を絞め上げていた。
朔也に帰路の途中で契約破棄の通知が届く。仕事も失い、絶望的な気分で家に着く朔也だが、数日後、母からの知らせで、朔也の行動は女性店員を救った勇敢な行動として、ネットで大きな話題となっていることを知る。一躍朔也は人気者になった。そして朔也のアカウントには数百万もの寄付が寄せらられていた。
その中で最もイーフィという大人気のアバターデザイナーの寄付は200万円という大金だった。
それをきっかけに、朔也はイーフィのもとで働くことにする。イーフィはある事故によって下半身不随となっていたが、アバターのデザイナーとして成功をおさめ、若くして有名人となっていた(映画では中年の設定)
ある日朔也はイーフィから、三好との仲を取り持ってほしいと依頼される。朔也は動揺したものの、その願いを聞き入れる。イーフィは三好とダンスを踊る。その時、朔也はイーフィが三好の手に触れているのに気づく。
最愛の者の他者性
原作者の平野啓一郎は、本作のテーマを『最愛の者の他者性』と述べている。
つまり、人は一つの人格を持つのではなく、あらゆる関係性の中で、それぞれの環境に合った人格を抱いているということだ。
平野啓一郎自身はこれを「分人主義」と呼び、それは本作の根底にも貫かれている。
例えば、朔也の母には、三好には見せても朔也には見せなかった一面があった。
三好にはイーフィには見せても朔也には見せない一面があった。
大切な人の知らない一面に触れたとき、私たちは思わずその本心を探してしまうだろう。
この映画における本心は朔也の母だけではない。様々な登場人物に当てはまる。
とりわけリアルアバターはその最たるものだろう。本心を隠してひたすら他者に従い、彼らの手足となる仕事なのだから。
イーフィは朔也をリアルアバターとして使いながら、ついに三好に告白する。
ここでは三好を演じた三吉彩花の表情が素晴らしい。驚きとともに戸惑いと嫌悪感や哀れみ、あらゆる感情を湛えた表情をしている。
リアルアバターではない、朔也の本心はどこにあるのか?朔也は明確に三好に惹かれているのだが、彼女を家に迎えるにあたって、「好きにならないこと」を自身に課していた。
しかし、どこまでも本心を隠し、更には他人に鉄しようとする朔也の前から三好は去っていく。
そして三好は朔也に見切りを付け、イーフィと付き合うことにする。彼女が出ていき、また一人になった家で、朔也は久しぶりに母と会話する。
母が伝えたかった秘密
母とともに思い出の伊豆の滝の前で、朔也は母の秘められた話を尋ねる。死の直前、母が伝えたかった秘密とは一体何だったのか。そして、母はなぜ自由死を選んだのか。
母は真面目な顔で、朔也を心から愛しているということ、そして、今死んでもいいくらい幸せだったから、自由死を実行したのだと明かす。
重大な秘密を期待していた人には肩透かしの内容かもしれないが、ここで朔也に対して初めて無条件の愛情が寄せられる。
そして、その手に触れることのない温もりが触れる。その手は三好の腕だった。彼女が勇気を出して、朔也に触れようとした手の温もりだったのだ。
原作では三好は朔也の元へは戻らず、母からの告白もない。朔也はイーフィとも離れ、かつて自分で助けた店員の日本語教育を支援する活動に目を向ける。それぞれが自分の人生を前向きに歩き出した所で終わりになる。
原作はコロナ禍ということもあり、仄かな希望を感じさせる終わり方にしたらしいが、映画版はより直接的なハッピーエンドだ。
このエンディングには、観客中でも周囲からすすり泣く声が聞こえてきた。やはり分かりやすいエンディングの方がより感情に訴えやすいということもあるのだろう。
私個人はあまり邦画を好んで観る人間ではないが、こうした作品には日本の今やこれからについて考えさせられる。