『ジョーカー : フォリ・ア・ドゥ』なぜ酷評されたのか?作品に込められたメッセージとは

※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


2019年に公開された『ジョーカー』は衝撃だった。安倍元首相を銃撃した山上徹也は「ジョーカーを本当に理解できるのは自分だ」とツイートした政治家が肩入れしていた統一教会という宗教に人生をめちゃくちゃにされた。それは都市機能がままならなくなったゴッサムという社会の被害者として描かれたアーサー・フレックの境遇と重なる部分がある。
だが、誰もがアーサー・フレックに同情し、彼の中に自分の一面を見つけ、アーサーがジョーカーになったように、ジョーカーに共鳴したとしても、誰もジョーカーにはなれない。『ジョーカー』の中で登場する時計は全て11時10分を指していたことを知っているだろうか?もしかすると、アーサー自身もジョーカーにはなれておらず、『ジョーカー』はただのアーサーの妄想話だったかもしれない。
アーサー・フレックの本当の物語は『ジョーカー : フォリ・ア・ドゥ』で確かめるしかない。

『ジョーカー : フォリ・ア・ドゥ』

『ジョーカー : フォリ・ア・ドゥ』は2024年に公開されたスリラー映画。監督は前作に引き続きトッド・フィリップス、主演はホアキン・フェニックス、レディー・ガガが務めている。
日本での公開は2024年10月11日だが、アメリカでは一足早い10月4日に公開されている。しかしその評価は著しく低いものだった。

あらゆる「なぜ?」を抱えて、私は映画館へ向かった。

『俺と俺の影』

確かに『ジョーカー』の流れを期待していた人には違和感のある内容だろう。
オープニングから違和感の嵐だ。なんと『ジョーカー : フォリ・ア・ドゥ』はアニメから幕を開ける。『俺と俺の影』というタイトルでトムとジェリーのようなコメディタッチのアニメだが、そこはアーサー・フレックを彼の影であるジョーカーが乗っ取る。人々を傷つけ、殺していくのはジョーカーだが、それが終わったあとはジョーカーの面は鳴りを潜め、アーサー・フレックになる。
だが、彼を追う警官たちはジョーカーと同じメイクのアーサー・フレックを暴行する。
このアニメは本作のテーマを端的に示している。と同時に『ジョーカー : フォリ・ア・ドゥ』は前作とは大きく異なったスタイルの映画だということを宣言したのだろう。

アーサー・フレックの物語

物語の舞台は前作から2年後。地下鉄でウェイン社の社員3名と同僚の、そして有名なテレビ司会者のフランクリン・マーレイを生放送で殺した「ジョーカー」アーサー・フレックはアーカム州立病院に収容され、裁判を待つ身だった。雨が降る中、傘を差した看守に囲まれながら弁護士のスチュワート待つ棟へ向かう。
外の世界には彼の「信奉者」が大勢おり、彼らは悪のカリスマとして、ジョーカーを支持し、ジョーカーが開放されることを望んでいる。
一方で病棟内でのアーサーは模範囚であり、治療の一環として、軽度の犯罪者たちのグループに混ざって歌を歌うこととなった。

リーとの出会い

そこにいたのは、リーと名乗る若い女性だった。彼女は父親から虐待されており、ジョーカーに会うために実家に火をつけ、母親からこの病棟に入られたと言う。
アーサーはリーと打ち解け、彼女の境遇を知り、人生の中で初めて自分は一人ではないと思えるようになった。
アーサーは歌い出す。「生まれて初めて、僕は一人じゃない 生まれて初めて僕を必要としてくれる人に巡り会えた」(『FOR ONCE IN MY LIFE』)

アーサーと音楽

本作がミュージカル仕立てであることは、続編制作のかなり早い段階から報じられていた。
これもまた『ジョーカー : フォリ・ア・ドゥ』が低い評価を受けた原因だろう。前作のシリアスな世界から一気にミュージカル映画になってしまうのだから(ただ、トッド・フィリップスもレディー・ガガも「ミュージカル」という表現には否定的だ)。

トッド・フィリップスは『ジョーカー : フォリ・ア・ドゥ』ではアーサーの内面をより深く掘り下げることにした。前作でも音楽はアーサーを踊らせ、アーサーは踊るごとにジョーカーに近づいていた。『ジョーカー : フォリ・ア・ドゥ』では音楽の存在はより重要になる。
トッド・フィリップスは今作の音楽をオリジナルの曲ではなく、既成曲からセレクトしていく方法を採った。セレクトした音楽はどれもアーサーが母親との生活の中で耳にしていた音楽をイメージしたという。

ある時アーサーは他の受刑者とともにテレビで若き検事のハービー・デントがアーサーは死刑になるだろうと発言しているのを目にする。
アーサーはその極度の恐怖から笑いの発作が収まらなくなる。
裁判の直前、受刑者で映画を観るイベントがあった。アーサーはその前に看守の一人にサインを頼まれる。だが、看守の本意は「アーサーが死刑になったらサイン入りの本は高く売れる」というものだった。それを知ったアーサーはサインの言葉を「ガンでくたばれ」に変更する。

『バンド・ワゴン』とエンターテインメント

映画のプログラムはヴィンセント・ミネリ監督の『バンド・ワゴン』。アーサーの横にはリーがいる。リーは映画を抜け出そうとアーサーを誘う。「結末は知ってるでしょ」と。

『バンド・ワゴン』は落ち目のミュージカルスターが仲間とともに舞台で再起を図る話だ。だが、脚本家の提案でシリアスな演出によって、自分の新しい一面を見せようとするも評判は芳しくない。原点に帰ったコミカルなミュージカルでついに舞台は成功を掴む。

それがエンターテインメント

この『バンド・ワゴン』は『ジョーカー : フォリ・ア・ドゥ』の中でも多く引用されている。
例えば、『バンド・ワゴン』から誕生したスタンダード・ナンバーの『THAT’S ENTERTAINMENT』は後に法廷へ向かうシーンでリーが口ずさんでいる。

人生で起こることはどれもショーで起こり得る
人々を笑わせたり、泣かせたり、何だって、何だって起こり得る
スボンが落ちたピエロやロマンチックな夢のダンスや悪役が卑怯な手に出る場面、それがエンターテインメント!

映画の上映の途中で、リーは部屋の片隅に火をつける。その火はだんだん大きくなり、出火に気づいた受刑者や看守が我先にと逃げ出す。誰もいなくなった部屋でアーサーと口づけを交わす。そしてそのまま二人は病院を抜け出す。

出典:『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』オフィシャルサイト

病院を出たらどうする?リーは言う「二人で山を作る」

今の私を見せてやりたい

ここでリーは『IF MY FRIENDS COULD SEE ME NOW』を歌う。この曲は三谷幸喜監督の『THE 有頂天ホテル』のクライマックスでも歌われていたから、耳覚えのある人も多いだろう。

今の私を見せてやりたい
あの頃のシケた仲間たちに
今の私をみんなに見せてやりたい
今の私を見て

その高揚感そのままに病院と外を隔てる金網へよじ登る。しかし、警官たちに二人とも捕まってしまう。

懲罰房へ入れられたアーサーの元へリーがやってくる。なんでも看守を「抱き込んで」入れてもらえたのだという。
「本当のあなたを見せて」リーはそう言って持ち込んだメイク道具でアーサーにショーカーのメイクを施す。その時二人は結ばれるわけだが、アーサーのぎこちないセックスが妙にリアルだ。

二人狂い

裁判の前日、テレビ番組のインタビューが入る。アーサーがテレビに映るのはマーレーを射殺したあの生放送以来だ。
人気レポーターのマイヤーズがアーサーへの質問を行うが、彼は執拗にマーレーを殺したときのことを聞き、勝手にアーサーの気持ちを要約しようとする態度にアーサーは苛立ちを隠せなくなる。
徐々にジョーカーへ目覚めてゆくアーサー。リーのことを訊かれると「彼女はお馬鹿さん、それはわかっているさ」と『BEWITCHED』を歌い出す。

それを街角のテレビのショーウインドウで観ていたリーは、ショーウインドウを破壊し、テレビごと持ち去る。 『ジョーカー : フォリ・ア・ドゥ』のフォリ・ア・ドゥとは「二人狂い」という意味で一人の妄想が他の親しい人々に伝播していくことだ。
果たしてジョーカーの狂気がリーを巻き込んだのか、それともリーがアーサーをジョーカーへ戻らせたのか。

ショーの始まり

そして、アーサーの裁判が始まる。車で裁判所に移送されるアーサー。裁判所の周りにはジョーカーの信奉者が集まっている。

出典:『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』オフィシャルサイト

「さぁショーの始まりだ」
弁護士のスチュワートはアーサーは精神病であり、治療が必要と訴えようとするが、裁判ではハービー・デント検事の要求で民生委員のケリーの口からアーサーの個人的な日記も読み上げられることとなった。

その日の裁判終わったあと、リーはスチュワートに詰め寄る。
「あなたはジョーカーをわかっていない、法廷で彼がバカにされるようにした」そして「私なら彼を自由にできる」とも。そしてリーはマスコミからジョーカーが自由になったらどうする?と問われてこう答える。「山を作る」

ハーレイ・クインゼル

その後スチュワートはアーサーのもとを訪ね、リーの真実を伝える。彼女の名前はハーレイ・クインゼル。彼女は両親と住んでおり父は医者であること、彼女自身も精神医学を学んでおり、アーカム州立病院には自ら望んで入ってきたことなどが明かされる。

その後はアーサーの妄想の場面だ。『TO LOVE SOMEBODY』が流れ、ジョーカーとリーはTVショーでデュエットをしている。
しかし、二人のデュエットはズレ始め、最終的にリーは銃でジョーカーを撃つ。
それはアーサーの心に芽生えた、リーへの不信感だ。

その後、面会に来たリーに真相を問うアーサー。リーは嘘を認め、妊娠していることと、アーサーの住んでいた部屋に引っ越したことを伝える。
そして、『(THEY LONG TO BE)CLOSE TO YOU』とともに、ジョーカーへの想いを歌い上げる。

鳥たちが突然姿を見せるのはなぜ?
あなたがそばにいるといつも
皆、わたしと同じように思い焦がれている
あなたに近づきたい

ソフィーの証言

次の日の裁判では、証人として前作でアーサーの隣人だったソフィーが登場する。彼女の口からはアーサーの母親が秘めていたアーサーへの思いが語られる。
「あの子は、私の冗談を真に受けてコメディアンを目指してしまった。才能もないのに」「あの子は恋人も一人もできたことがなくて、きっと童貞」
それもまた、アーサーが抱いていた母親への思いを打ち砕くものだった。
法廷は明らかにアーサーの尊厳を貶める場になってしまった。耐えきれなくなったアーサーは弁護士を解任し、自分で自分の弁護をするようになる。

ちなみにシリアルキラーの語源となった実在の連続殺人犯であるテッド・バンディも法廷では弁護士をつけずに自分で自分の弁護を行った(この事実はトッド・フィリップスも、言及している。だが、バンディは法律事務所に勤めた経験もあり、またIQ160とも言われる極めて優秀な頭脳を持っていた)。

暴力の犠牲者

次の裁判、アーサーはジョーカーとして出廷する。そして、証人はかつての同僚で小人症のゲイリーだ。彼が証言台まで歩く間、傍聴席からは笑いが漏れている。
ジョーカー』でアーサーは自宅を訪れたランドルとゲイリーを迎え入れる。ランドルを滅多刺しにして殺す一方で、唯一優しくしてくれたゲイリーは殺さずに見逃している。
だが、ジョーカーと化したアーサーはゲイリーの「君らしくない、君だけが僕を笑わなかった」の言葉に「君は本当の僕を知らない」と返す。そして、「君もここで証言した連中や看守の豚どもと同じ、僕を見下している」と激昂する。
トッド・フィリップスはここで暴力の犠牲者について描きたかったという。それがゲイリーだ。

ゲイリーはあの事件以来、仕事にも戻れず、恐怖で眠れない日々を過ごしていると告白する。
ゲイリーの退廷後、アーサーは反論のための証言の機会を与えられるが、放棄する。
「死刑確定でいいのか?」傍聴席がざわつく中で、アーサーはリーとのこれからを妄想していた。

「山を作る」の意味

その妄想ではリーとジョーカーはクラブで『GONNA BUILD A  MOUNTAIN』を歌っている。

出典:『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』オフィシャルサイト

ここで初めて「山を作る」の意味がわかる。

二人の天国を築こう
小さな地獄から
二人の天国を築こう
よくよくわかっているよ
心を込めて山を築き
二人で描いた夢を頂まで運べば
そこに天国が待っている

このクラブの幕にpogoと書いてあるのがわかるだろうか。これは33人を殺した実在のシリアルキラー、ジョン・ウェイン・ゲイシーにつけられたあだ名。ゲイシーは社会的に成功した男であったが、自身がゲイであることを隠すため、関係した男娼たちを殺害し、床下に埋めた。彼は慰問の場でしばしばピエロの格好をしていたことから、「キラー・クラウン」との名前でも呼ばれている。

アーカム州立病院へ戻ってきたアーサーだが、彼のの法廷での挑発的な言動は看守の逆鱗に触れてしまう。
アーサーは看守たちから凄惨なリンチを受ける。
友人のリッキーは『聖者の行進』を歌い、看守たちに抗議をするが、逆上したジャッキーに絞め殺される。

殺さなきゃよかった

翌日、法廷にまたもジョーカーメイクでアーサーは現れる。しかし、その服装は初日にアーサーとして出廷した時のものだ。
これだけでもアーサーの内面を伺い知るヒントになる。
「ジョーカーの姿で出廷したかった」
そうアーサーは言う。それは今から話すことを「ジョーカーの発言」として広めたかったからだ。
アーサーは母を殺したことを告白する。そして今までの殺人を懺悔する。
「殺さなきゃよかった」
「ジョーカーはいない。僕だけだ」
この僕というのは、アーサー・フレックの人格のみが存在しているということだろう。

みんなが望む僕にはなれない

自分がジョーカーとして振る舞ったことが友人であるリッキーの命を奪うことになった。結局は誰もジョーカーという偶像に熱狂しているだけであり、誰もが自分に都合のいいイメージをジョーカーに投影していたに過ぎない。『ジョーカー : フォリ・ア・ドゥ』でそこを超えて心に触れたのはリーとリッキーのみだ。二人の違いはジョーカーの姿を真実と思ったのか、アーサーの姿を真実と思ったのかの違いだけだ。
いつの間にか、アーサーはジョーカーとして、ウェインと同じく人を動かす側に立っていた。いやむしろその役割を皆が求めたのか。
「みんなが望む僕にはなれない」
リーはその言葉に落胆し、法廷を出ていく。

「悪のカリスマ」としての続編を期待した観客にはそれは期待外れの作品だったことだろう。だが、私はここにトッド・フィリップスの誠実さを見ている。
確かに『ジョーカー』は素晴らしい作品だった。だが、それは現実世界を侵食しかねないほどの毒を併せ持つ作品でもあった。『ファイト・クラブ』や『タクシードライバー』がそうであったように。

ジョーカーはどこにもいない

トッド・フィリップスが『ジョーカー』で訴えたかったのは思いやりだった。隣人を助け合う思いやりの心が失われると、アーサーのような心優しい男でも容易くジョーカーに変貌すると伝えたかった。
だが、観客はアーサーを隣人ではなく自分自身だと思ってしまった。それほどまでにアーサーの抱える痛みはリアルで強烈だった。そして何人かは超えてはならないラインを超え、犯罪や殺人を引き起こした。
それはトッド・フィリップスのメッセージとは正反対だ。だからこそ、観客の中の「ジョーカー予備軍」に伝える必要があった。「ジョーカーはどこにもいない」と。
その極めつけはアーサー・フレック自身でさえ、ジョーカーではないとはっきりとセリフで表したことだろう。

アーサーはリーに電話しても留守になっていた。
彼は電話口で『IF YOU GO AWAY』を歌う。

こんな晴れた日に君が去ってしまうなら
太陽が一緒に奪われるのと同じこと
僕は君の飼い犬の陰になってしまっても構わなかった
それで君がそばにいてくれると思えば
君が去ってしまうくらいなら

そして判決の日、陪審員らの結論が読み上げられる。アーサーは極度の緊張から笑いの発作が出てしまい、傍聴人がアーサーに殴りかかり騒然となる。
だが、突然裁判所は爆発する。ジョーカーの信奉者が自動車爆弾を仕掛けていたのだ。

ここで注目したいのは、瀕死の重傷を負っているハービー・デントの姿。少ししか映らないものの、顔の半分が傷だらけなのがわかる。『ジョーカー』シリーズでは、このテロをきっかけにハービー・デントはツーフェイスに変貌するのではないか?

さよならアーサー

混乱に乗じて信奉者の一人がアーサーを車に乗せて逃亡させる。だが、アーサーはその車から降りて走り出す。彼はもうジョーカーでは無いからだ。
走った先のあの階段(ジョーカーステップ)にリーの姿を見つける。急いで階段を登るアーサー。「僕は自由だ。どこへでも行ける」と誘うアーサーに、リーは「どこへも行かない」という。
「僕はジョーカーだよ」
一度脱いだはずの仮面を愛のために再び被ろうとしているアーサーが切ない。

「夢しかなかったのに、あなたは諦めた」
「ジョーカーはいない、あなたはそう言った」

リーはそう言って歌い出す。
「歌はよせ」それはアーサーにとっては決別したジョーカーへの入り口でもある。
アーサーは愛を欲していた。リーは違った。彼女は自由が欲しかったのだ。ジョーカーは彼女にとって憧れであり、希望であり、自由への切符だった。

「さよならアーサー」

それはリーが彼をアーサーと呼んだ最初で最後だ。そして彼女はアーサーから去る。残されたアーサーの背後には警官たちが迫っていた。

まさかの夢オチ?

唐突に画面はアニメに変わる。「ジーンとした?」アニメのキャラが話す。

えっ、今までの話って全てアーサーの妄想だったの?まさかの夢オチ。そりゃ評価も低くなる。

アーサーは看守から面会に呼ばれる。面会へ向かうアーサーを受刑者の一人が呼び止める。
「ジョークを聞いてほしいんだけど」
「手短に」
そのジョークはとあるサイコパスが酒場でジョーカーを見つけたが、実際の彼はシケた男だったということ。
そして、その受刑者は「報いを受けろ!」とかつてアーサーがマーレーを殺した時と同じセリフでアーサーの腹部を6回も突き刺す。
床に倒れるアーサー。彼はかつてのリーとの妄想で銃で撃たれた場面を回想していた。
「立派な息子が欲しかった、僕の跡を継いでくれる息子が」
息子というのはリーが身ごもったという子供のことなのだろう。それはアーサーにとって自らが生きた証でもあり、手垢のついた言葉だが、愛の結晶でもある。

だが、その受刑者はジョーカーの役割を引き継ぐように笑いながら自らの口元を切り裂いていた。
フランク・シナトラの『ザッツ・ライフ』が流れながら、作品は幕を閉じる。

現実と妄想の境界

だが、ここで皆が思うだろう。結局、リーも裁判も、またもアーサーの妄想で、実際は受刑者にいきなり刺されて死んだだけではないのか?と。
ここからは個人的な考察として、現実と妄想の境界を探っていきたい。

作品全体の不自然さ

まず、明らかに作品全体が不自然であることだ。それはアーサーのような重大犯罪人が看守もいる前でリーと親しげに話せるのもそうであるし、懲罰房に閉じ込められたアーサーの元にごく当たり前のようにリーがいることもそうだ(リー自身は看守に抱かれることと引き換えに懲罰房へ入ることができたと示唆しているものの、うまく出来すぎた話ではないか?)。

都合の良すぎるリー

そして、あまりにリーはアーサーにとって都合のいい女性なのだ。彼女自身の目的もよくわからない。ただ、ジョーカーに憧れているだけの存在としてアーサーの前に現れる。彼女はアーサーの全てを受け入れている。正しくは受け入れすぎている。童貞ゆえのぎこちないセックスと早すぎるオーガニズムにも落胆している様子もない。
ではいつからこの話は妄想だったのか?
だが、監督のトッド・フィリップスはリーは幻ではないと述べている。トッド・フィリップスの言葉と前作を踏まえると、アーサーが薬の服用をやめてからはどうだろうか。つまり、リーを見かけた直後だ。
それからリーと親密になっていく以降が全て妄想ということになるが、前作でもソフィーと付き合う妄想が始まったのが市の財政難によって福祉が縮小され、薬を飲めなくなってからだ。

妄想はいつ終わった?

では、「ジーンとした?」のアニメとともにでアーサーの妄想は終わったのか?
その後にアーサーを刺殺する受刑者の男をよく振り返ってみよう。
序盤で男は「ニヤニヤ野郎」と呼ばれ、看守に噛み付いたことがセリフで述べられている。そして、アーサーが高揚している時も、部屋の片隅で相変わらずニヤニヤしている。
だが、その笑いが止まったのはアーサーが「ジョーカーではない」と吐露した時だ。最後のジョークからもわかるように、サイコパスは男自身であり、彼もまたジョーカーに落胆したことがわかる。彼がアーサーを刺したのは「憧れの存在」でなくなったからだ。
ここで「ジーンとした?」のアニメまでが妄想だとしたら、男のジョークの意味がわからなくなる。

ゴッサム・シティのカート・コバーン

ではなぜアーサーはこれほどバッドエンディングの妄想をしたのか?
おそらく妄想というよりも思考の変遷をそのまはま映像化したと言ったほうが近いだろう。

もし、アーサー・フレックとして出廷したら?
もし、ジョーカーとして出廷したら?
もし、自分自身を認めて、愛してくれる人がいたとしたら?

だが、結局のところ、アーサーはアーサーでしかなかった。
カート・コバーンや尾崎豊とアーサーは同じではないか?彼らはミュージシャンとして自分が望んだはずの姿にはなったものの、周囲が求めるイメージと本当の自分との乖離が大きくなり、そのキャップに耐えられなくなって自ら命を絶っている。
いわばアーサーはゴッサム・シティのカート・コバーンなのだ。

カラフルな傘

もう一つの考えられるパターンは冒頭で弁護士に会うために別棟へ向かう時から妄想だったのではないか?という説だ。
この時棟に向かったのは5名。アーサーと彼を囲むように看守が4名だ。正面のショットでは看守の傘は黒だが、上からのショットではフランス映画のような赤や青などのカラフルな色に変わっている。

だが、トッド・フィリップスによると、色はアーサーの心を表しているのだという。例えば初めてリーを見かけた時、その色彩は明るく柔らかく華やいでいる。
この傘も弁護士との面会の直前で、アーサーにとっては自分を気にかけ、助けようとしてくれている存在と触れ合うことだ。心にわずかな期待や安らぎが芽生えていてもおかしくない。
もし、リーを見かけてからアーサーの死までがアーサー自身の妄想だとしたら、これは一つのハッピーエンドだとも思う。
それは現実に戻ったアーサーが今度こそ本当の愛に出会う可能性があることをを示唆しているのだから。

「本当の自分」が完結する瞬間

一方でトッド・フィリップスは刺殺されるエンディングも、ある意味では安らぎのあるものだと述べている。この言葉についても考察してみよう。
まずはトッド・フィリップス自身の言葉から。

「あのとき、アーサーは若者を見つめながら、どこか礼儀正しい笑顔をたたえている。若者のジョークや、自分自身を表現してくれたことに対し感謝の気持ちを示しているんだ。それは、前作では誰一人として彼にしてくれなかったことでもある」

あのときというのは男が「僕のジョークを聞いてくれる?」と尋ねた時のことだろう。
確かに前作でも今作でも誰もアーサー・フレックを認め、彼にジョークを聞いてもらおうという人はいなかった。つまり、アーサー・フレックの一面だけを見ていたということだ。ここで初めて「人を笑わせたい」というアーサーの一面が認められたことになる。

では、その後に刺されたことに対しては?
個人的には暴力には暴力での報いがあるという公平性や、アーサーが刺されたということは、アーサー自身はもうショーカーとして見られていない(ここで初めてアーサーの自己認識と他者からの認識が合致する)ことへの安らぎではないか。つまり初めて自分自身になれたということだ。
『ジョーカー : フォリ・ア・ドゥ』のテーマである「本当の自分」が完結する瞬間でもある。

聖者の行進

ちなみに『ジョーカー : フォリ・ア・ドゥ』で最も多く歌われるのが『聖者の行進』。しかしこの曲は本作のサウンドトラックには収録されていない。
これは聖者が街にやってくるという内容ではなく、「最後の審判で聖者が天国に入って行くとき、自分も一緒にいたいものだ」という内容で、聖書の黙示録を根底にした黒人のジャズナンバーだ。これは虐げられてきた黒人奴隷の歌だが、同じく虐げられてきた受刑者が歌うことの意味を考えてみよう。アーサーは果たして、自らが引き金を引いた暴力の殉教者となって天国に行けるだろうか。

余談だが、アーサーを殺した男こそが、バットマンと対峙するジョーカーに成長するのではないかという見方もある。ブルース・ウェインとアーサーでは年齢差がありすぎるからだ。

さて、最後にエンディングの曲についても解説していこう。エンディングで流れるのはダニエル・ジョンストンの『TRUE LOVE WILL FOUND YOU IN THE END』。

最後には真の愛にきっと出会える
誰が友達だったかわかるはず
悲しまないできっと大丈夫
でも諦めないで 真の愛が最後に君を探し当てるまで

ダニエル・ジョンストンもアーサーと同じく精神病を抱え、躁鬱病に苦しんでいた。そして、同じ人を20年以上想い続けた。彼女が結婚して別の人と一緒になっても、ジョンストンは彼女を想い、曲を作り続けた。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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