
一番最初に観たホラー映画
物心ついた頃に家に唯一あった映画のVHSは『ジュラシック・パーク』だった。当時からゴジラ映画などの「怪獣モノ」は好きだったが、『ジュラシック・パーク』はその恐怖描写が段違いだった。コップの水が揺れるだけで、「何か巨大なものがこっちに来る」ことを予感させる演出は素直に凄いと思った。また、食われた山羊の脚がサンルーフに落ちてくるところなどは子供心にトラウマを植え付けられた(正直に告白すれば、大人になった今でもそのトラウマは抜けきれていない)。
中でも子供たちが乗ったツアーカーをT-レックスが襲うセクションは個人的には映画史に残してもいいほどの名場面だと思っている。襲いかかるティラノサウルスと子供たちの間にあるものが薄いガラスー枚でどんどん割れていく場面、車が潰れていく中で車内に取り残されるその恐怖!
今思えば、『ジュラシック・パーク』は私が一番最初に観たホラー映画とも呼べるかもしれない。
[itemlink post_id="1635" size="L"] [sc name="review"][/sc] 『ジュラシック・パーク』シリーズは休止期間を含みながらも、最新作『ジュラシック・ワールド 新たなる支配者』まで[…]
『ジュラシック・ワールド/復活の大地』
さて、今回紹介したいのは、そんな『ジュラシック・パーク』フランチャイズの最新作『ジュラシック・ワールド/復活の大地』だ。
監督はギャレス・エドワーズ、主演はスカーレット・ヨハンソンが務めている。
今作は『ジュラシック・パーク』シリーズとしては7作目、『ジュラシック・ワールド』シリーズとしては4作目にあたる。前作の『ジュラシック・ワールド/新たなる支配者』がシリーズの集大成的な内容だっただけに、「金のなるメガフランチャイズを続けていく場合、次の作品はどんな内容になるんだ?」と思ってもいた。
ギャレス・エドワーズの出した答えは「原点回帰」。
またプロデューサーのフランク・マーシャルからは「恐怖にフォーカスした作品」との発言もあった。おお、子供の頃に受けたあの衝撃が戻ってくるのか?
というわけで映画館へ向かった。『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 』の影響もあるのか、大作映画であるにも関わらずスクリーンは小さめ、しかし朝イチの上映としてはほぼ満席。小さな子供もチラホラいたのは夏休みだからだろう。
かつての私のように、彼らもトラウマを持ち帰ることになるのだろうか?
生命は道をみつけるべきではなかった
物語は今から17年前にさかのぼる。サイトCでは、インジェン社による遺伝子操作によって、新種の恐竜を作る試みがなされていた。シリーズの時間軸からすると、ちょうどテーマパークの「ジュラシック・ワールド」が開園して3年目になる時だ。「ジュラシック・ワールド」では2015年に独自に遺伝子実験を繰り返して「インドミナス・レックス」が作られているが、今作の設定を見ると、実際にはその何年も前からインジェン社では恐竜たちの遺伝子実験が行われていたと言っていいだろう。
今作で脚本を務めたのは、『ジュラシック・パーク』『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』で脚本を務めたデヴィッド・コープ。コープは当初『ジュラシック・パーク』シリーズへ復帰する気はなかったというが、『ジュラシック・ワールド』で遺伝子操作によって巨大で恐ろしい能力を備えた恐竜(インドミナス・レックス)を観て、「こうした遺伝子操作がうまく行く恐竜ばかりではないはず」と感じたという。

『ジュラシックワールド』に登場した「成功例」のインドミナス・レックス
そのとおりで、サイトCでは多くの「失敗恐竜」が生み出されていた。そのひとつが通称「D-REX」と呼ばれている、ディストータス・レックスだ。コープはそんなディストータス・レックスについて「生命は時に道をみつけるべきではなかった」と述べている。
© 2025 Universal Pictures. 予告編では一瞬だけディストータス・レックスの姿が映し出された 『ジュラシック・ワールド』の解説でも書いたのだが、『ジュラシック・ワールド』以降の『ジュラシック・パーク』シリーズはだん[…]
ギャレス・エドワーズの『ジュラシック・パーク』
しかし、ある職員がスニッカーズを食べたままディストータス・レックスのラボに入ってしまう。すると床に落ちたスニッカーズの包装紙が、開閉ゲートに巻き込まれてセキュリティシステムがエラーになってしまう。職員は全員退避するが、逃げ遅れた職員(スニッカーズの男だ)がレックスの犠牲となる(個人的にはあまりにシステムが脆弱過ぎると感じるが)。
このシーンはギャレス自身が監督を務めた『GODZILLA ゴジラ』のオープニングとほとんど同じと言っていい。 つまり、この時点で『ジュラシック・ワールド/復活の大地』はスピルバーグではなく、ギャレス・エドワーズの映画だと宣言したのだろう。
恐竜たちのいない世界
本作の舞台は前作『ジュラシック・ワールド/新たなる支配者』から5年後。地球上に放たれたほとんどの恐竜たちは現代の気候に順応できず、病気などで死滅している。一部の恐竜たちがジュラ紀と気候が似ている赤道直下の島にわずかに生息しているに過ぎない。もちろんその島は法的に人間の侵入が禁じられている。
この設定はマイケル・クライトンの原作(『ジュラシック・パーク』)において、イアン・マルカムが主張したことと同じだ。
映画の方の『ジュラシック・パーク』には、物語の前半で病気のトリケラトプスを調べるシーンがあるが、原作においてそれはステゴサウルスになっている。
病気のステゴサウルスを見ながら、マルカムは次のように言う。
「現代の環境に恐竜たちを棲まわせようということ自体、予測不可能事のカテゴリーのひとつといえる。このステゴサウルスは一億年も昔の生物だ。この世界には適応していない。空気も、陽射しも土壌も昆虫も、音、植生、何もかもが違う。大気に含まれる酸素の割合も減少している。かわいそうに、恐竜たちは高さ3000メートルの山に連れていかれた人間と同じなんだ。聞くがいい、この恐竜もゼイゼイ息をしているじゃないか」
原作におけるイアン・マルカムはマイケル・クライトンの代弁者と言ってもいい。つまり、『ジュラシック・パーク』からエンターテイメントを取り除いた場合の社会的なメッセージは、そのほとんどがイアン・マルカムの口を通して語られる。
しかしながら、上記の発言はこれまで映画版では全く触れられてこなかった。
恐竜たちは再び地球を取り戻したかのように、市街地やジャングル、雪の降り積もる雪原など、世界のどこにでも姿を現し、自由を謳歌してさえいたのだ!
この設定一つからも、オリジナルに対するリスペクトが感じられる。
陸・海・空のDNA
今作はバイオメディカルの会社に雇われた傭兵たちが、新薬開発のために恐竜たちの生息する島に潜入する物語だ。
プロの傭兵として、数多の経験を持つゾーラ・ベネットは、製薬会社パーカー・ジェニングスのマーティン・クレブスから取引を持ちかけられる。それは陸・海・空の大型恐竜から、それぞれDNAを採取するというものだった。目的は心臓発作を食い止める新薬を開発するためだ。
クレブスは、大型恐竜の中には100年近く生きるものもいたが、彼らの多くは心臓疾患にかかることは少なかったと言う。その秘密を彼らのDNAから見つけ出し、新薬の鍵にするというのだ(ちなみにこの恐竜に関するクレブスの発言は科学的にも事実らしい)。
報酬は1000万ドル。仲間や母の死から抜け出せていないゾーラは当初は申し出を断るものの、報酬に惹かれて参加を承諾する。
続いてクレブスとゾーラは必要な仲間を集めることにする。古生物学者でアラン・グラント博士の弟子でもあるヘンリー・ルーミス、そしてゾーラの昔からの知り合いである傭兵のダンカン・キンケイド。そして、ゾーラのチームメイトでもある、ボビー・アトウォーター、ニーナ、ルクレールが加わり、一行は海路で恐竜たちの島を目指す。
第一の標的は、島近辺の海に潜む、モササウルスだ。
同じ頃、ボートで世界一周旅行を行っていたデルガド一家と長女テレサの恋人のザビエルはモササウルスとスピノサウルスに襲われ、ボートが転覆してしまう。2001年に公開された『ジュラシック・パークⅢ』ではスピノサウルスはティラノサウルスを超える最強の肉食恐竜として描かれていたが、本作では現在の主流である、スピノサウルスは水棲恐竜だという説に準じた描写になっている。
今作で脚本を務めたデヴィッド・コープは、『ジュラシック・パーク』シリーズの脚本を書く際の自らに課している9つのルールの一つとして「恐竜研究の最新情報」に敏感であることを挙げている。「科学的に正確でありたいという思いがあるので、できる限り新たな知見を反映しようとしているんだ」
デルガド一家らは救難信号に気づいて駆けつけたゾーラたちに助けられ、島まで行動を共にすることになる。しかし、ゾーラ達の船もまたスピノサウルスに襲われ、傭兵のボビーが犠牲になる。
『ジュラシック・パーク』シリーズには多くの「お約束」があるが、恐竜を利用しようとする大企業は大概悪役だと相場が決まっている。
今回も例外ではない。
テレサは無線で救助を呼ぼうとするが、クレブスはDNA採取の目的のためにそれを止めさせようとする。恐竜たちの襲撃による衝撃で船が傾き、テレサは海に落ちそうになる。クレブスに助けを求めるが、クレブスはその声を無視し、テレサは海に転落する。
テレサの転落に気づいたザビエルはすぐさま海に飛び込み、続いて父親も妹のイザベラを抱いて、テレサを助けるために海に飛び込む(個人的には、どう考えても妹は船に残したほうが確実に安全だだと思うが)。一家らは何とか合流を果たし、島へと辿り着く。
一方、ゾーラ達もスピノサウルスに襲われながらも岩場へ船を進め、座礁する形で島へ着く。
歩みを進める中でクレブスは地面にドッグタグと樹上にその持ち主の死体を見つける。ドッグタグは軍人が死んだ時に自分の身元をわかるようにネックレスとして見に付けておくものだ。この描写からもこの島がそれだけ過酷な島であるかがわかる(あるいは、クレブスはゾーラに声をかける前に実は別の部隊を島に派遣していたが、その任務は失敗に終わっていたと解釈することもできるかもしれない)。
ゾーラ達はそれでも陸・海・空のDNAを揃えるために、島の中央へと危険を冒しながら進んでいく。しかし、そこには正規の恐竜以外の「危険な失敗生物」が潜んでいた。
賛否両論の理由
さて、今回の『ジュラシック・ワールド/復活の大地』だが、レビューを見ていくと、賛否両論のようだ。
その理由としては、ディストータス・レックスをはじめとする、遺伝子操作で生み出された恐竜たちが、もはや恐竜ではなくモンスターに成り下がってしまっていること、そしてあまりに彼らをフィーチャーしているために、本来の恐竜たちの比重が下がっていることが主なようだ。本来の恐竜たちが人間を襲うことで、「自然を支配しようとする人間の思い上がり」という『ジュラシック・パーク』のテーマはより鮮明になるのだが。
もちろん、ティラノサウルスが川下りをするデルガド一家を襲うシーンなど、原作の中に描写がありつつも、いまだに映像化されていなかったシーンを再現するなど、「原点回帰」を感じさせる部分は確かにある。

原作ではグラント、レックス、ティムを襲う
ギャレス・エドワーズ自身は本作について、「ユニバーサルスタジオが30年くらい前に作ったことすら忘れていて、倉庫にしまってあった映画が見つかった。見てみたら、『ジュラシック・パーク』の続編みたいだけど、1作目とあまりにも似すぎているのでお蔵入りになってしまった――それを2025年の今、公開したみたいな。1作目と同じようなトーン、同じような印象を抱く作品にしようと思った」と述べている。果たしてそれは成功しているのか?
個人的には微妙だ。やりたいことはわかる。成功している部分もあれば、失敗している部分もある。
例えば、今作の恐竜たちはモンスターではなく、あくまで生物として描かれており、非常に動物くさい描写が目立つ。今作でのターゲットの一つである世界最大の竜脚類、ティタノサウルスは求愛行動を起こしており、ティラノサウルスは川辺で眠っている。いくら最強の肉食恐竜と言えども、寝返りを打つ姿は巨大な猫みたいで可愛さすら感じてしまう。
彼らにしてみれば、三食決まった時間に食事が出てくるわけでもない。狩りがうまくいくこともあれば、逃げられることもあるだろう。襲われる人間からしたらたまったものではないが、食べられるときにエサを食べておくのは極自然な行動であり、彼らもまた生きていくのに必死なのだ。
それだけにただ凶暴さのみが目立つディストータス・レックスやミュータドンの描写は異常とも言える。生物として、歪な感覚を覚えるのだ(あえてカッコよくないデザインをしているのもそれを強調するためだろう)。
ギャレス・エドワーズは彼らに対して「哀しみも感じて欲しい」と述べている。その感覚はよくわかる。

まさにディストータス(歪んだ)・レックスの名にふさわしいデザイン
今回、私はこの解説を書くに当たって『ジュラシック・パーク』の原作をすべて読み返してみた(今読んでもその内容は鮮烈でとても面白く、つい読むのにのめり込んでしまい、いつも以上に遅筆になってしまったのはお詫びしたい)。
その中でパークの恐竜たちは問題行動が発見されるたびに遺伝子操作でその習性を修正され、ヘンリー・ウーをはじめとする遺伝子学者は都度新たなバージョンとして恐竜達をナンバリングしていることが明らかになる。
もちろん原作と映画はある程度切り離して考えるべきだろうが、今作に限っては原作も重要な要素になる。
ということは、ディストータスやミュータドンは生物として本来あるべき習性や行動まで実験台としていいように作り替えられている可能性が高いということだ。ティラノサウルスが見せた睡眠や、ティタノサウルスの求愛、これらは生物としての根本の欲求だろうが、ディストータスやミュータドンはそんな生物として当たり前のことすら禁じられ、暴力という分野においてのみ自由を与えられている、そんな気がするのだ。
ギャレス・エドワーズの原点回帰は成功したのか?
果たして『復活の大地』が恐竜映画かと言われると怪しい。人造生物の登場という意味で、自然を支配しようとする人間の思い上がりというテーマはどうしても薄れてしまってもいる。しかし、生命倫理という意味では、正しく一作目に迫ったと言えるだろう。
劇中で、ヘンリーは「パークも同じ恐竜ばかりだと飽きられる、だから遺伝子操作で新種の恐竜を生み出そうとした」と述べているが、これはそっくりそのままこのシリーズの制作サイドにも当てはまることではないのか?そう考えると何とも皮肉なセリフに思えてくるのは私だけではないはずだ。