『菊次郎の夏』北野武はなぜ父の名を冠したのか?

久石譲の楽曲の中に『Summer』という曲がある。パッと思い浮かばなくても、メロディを聴けば、ほとんどの人が聞き覚えがあるのではないだろうか。
しかし、元々この楽曲がある映画の主題歌であったことは、あまり知られていないのではないか。

その作品が北野武監督の『菊次郎の夏』だ。

『菊次郎の夏』

『菊次郎の夏』は北野武の監督・主演作として1999年に公開された。

前作の『HANA-BI』がベネチア国際映画祭で日本映画としては39年ぶりとなる金獅子賞を受賞するなど、国際的にも高い評価を得た。つづく今作でもその評価が期待されたが、蓋を開ければ無冠。スポーツ新聞には「たけし、ヌカ喜び」と書かれてしまったという。
とは言え、個人的には『HANA-BI』より『菊次郎の夏』の方が好きだ。毎年夏になると不思議と観返したくなる魅力を持った作品だ。
ちなみに余談だが、キタノ映画の音楽担当として常連たった久石譲は『BROTHER』以降、キタノ映画には関わっていない。北野武監督によると「映画より音楽のほうが評価されるようになったから」とのことだが、これはおそらく『菊次郎の夏』の『Summer』のことを指しているのだろう。

さて、『菊次郎の夏』だが、チンピラ中年と少年のひと夏の旅を描いたロードムービーだ。
小学三年生の正男は、クラブ活動もなく、夏休みを淋しく過ごしている。そんなある日、から母親の写真を見つけ、居てもたってもいられず、カツアゲされそうなる。それを止めてくれた近所のおばさんから、お小遣いを持ち出した理由を訪ねられる。
事情を察したおばさんは、小学生が一人で母のいるところへ向かうのは危ないと、自分の旦那である菊次郎を子守として正男の度に同行させるのだった。

このように『菊次郎の夏』は「正男の母親探し」に引っ張られる形で物語が動いていく。普通の一般的な映画であれば、正男の母親探しが物語の目的であり、軸となるだろう。多くの映画がそのようなストーリーに設定し、母との再会をクライマックスに持っていきそうなものだが、本作は中盤であっさりと母親は見つかる。

北野武の作家性

この裏切り方が実に北野武監督らしい。個人的に北野武監督作には一時期ハマっていた時期がある(もちろん、今でも好きな映画監督の一人だ)。
エンターテインメントに寄せた『アウトレイジ』シリーズや『座頭市』、芸術家の性と狂気の人生をユーモラスに描いた『アキレスと亀』(これはある意味、トラウマ作になった)、国際的にも高い評価を受けた『HANA-BI』や、ハリウッドに渡って製作された『BROTHER』、初期の傑作である『ソナチネ』など大方は観たと思う。そのどれもが月並みな展開や、お決まりのパターンからは外れている。監督の照れなのか反抗なのか、はたまたその両方かはわからないが、とにかく北野武監督の作品はその作家性も強い。

北野武監督は自身の作品について次のように述べている(以下「」内すべて『北野武 全思考』からの引用)。

「他の映画監督が使っているような、言葉は悪いけれど、見え透いたテクニックを使うのがどうにも照れ臭い。漫才とかコントで、わかり切ったオチは言いたくないというのと同じ話だ。水戸黄門の印籠みたいに、観客の100人が100人とも「さあ印籠が出るぞ」ってわかっているところで、ちゃんと印籠を出してやるというのも、ひとつのテクニックなのはわかる。けれど、俺はそういうことがしたくて、映画を撮ってるわけじゃない。そういうことは他の人でもできる」

その考えは『菊次郎の夏』も漏れなく発揮されている。
前述の正男の母親が見つかった話で言えば、正男と母親は感動の再会をするのではない。母親は家を出て、別の家庭を持っていた。つまり正男は捨てられていたのだ。正男は物陰から見る母とその新しい家族にショックを受け、涙が止まらない。

そんな正男を見ながら、菊次郎は「俺と同じか」とつぶやく。菊次郎もまた母親に捨てられた過去があったのだ。
懸命に正男を慰めようとする菊次郎。バイカーの男から鈴のついた天使のお守りを無理やり奪うと、それを正男に「お母さんからのプレゼントだ」と言って手渡す。
「それを鳴らすと、天使が来て助けてくれるんだってさ、天使来るだろ?」そう言って鈴を鳴らすが、正男は「わからない」というばかり。
ここでも武は子供が立ち直るという「期待」を裏切っていく。人の心の傷はそう簡単に癒えるものではない。

『菊次郎の夏』の痛み

傷と言えば、キタノ映画の特徴として挙げられるものの一つが容赦ない暴力描写だ。大抵、それは何の前触れもなく唐突に始まり、一瞬で終わる。
一言で言えば「痛い」のだ。決して不良が大暴れするようなエンターテインメントとしてのケンカや暴力を北野武は描かない。なぜか。リアルではないからだ。

足立区で育った北野武にとって、暴力は日常茶飯事だった。前後間もない日本。路上ではヤクザ同士がケンカして、翌朝にはどちらかが冷たくなっているということもしばしばあったという。
以下も『北野武 全思考』からの引用だが、映画における暴力描写についての北野武の思いが垣間見れる。

「俺の実家のあったあたりは、ガラがとんでもなく悪くて、ヤクザの喧嘩なんかは日常茶飯事だった。男が腹を一突きされて、「いてぇ」ってうずくまって、そのまま死んでしまったり。そういうのを見て育ったから、映画の暴力シーンがみんな嘘くさく見えてしょうがない。
ほんとの喧嘩は、ボクシングの試合とはぜんぜん違う。たいていは、一発殴ってケリがつく。銃を撃つにしても、変な見得を切ったりしない。ポケットから出して、撃って終わりだ。俺の映画はそう撮っているから、リアルに感じるのだろう。」

『菊次郎の夏』もまたリアルな「痛み」がある。それは肉体的な痛みではなく、心の痛みだ。簡単には癒えるはずのない傷。それを包み隠さず見せていくところに監督の誠実さを感じる。
そんな痛みを上書きするように、正男と菊次郎は旅先で知り合った男たちとだるまさんが転んだなどをしながら遊ぶ。
ここからはギャグのオンパレードが続いていく。私は初めて本作を観た時にてっきり感動作とばかり思っていたものだから、このショートコント番組のような展開には非常に驚かされた。

だが、北野武監督はあえてここに悲しい音楽を被せた。その楽しい時間の儚さ、切なさを音楽に語らせたのだろう。
音楽を担当した久石譲は、この監督のセンスに脱帽したという。
さて、正男や菊次郎と遊ぶ男たちはそれぞれたけし軍団の井手らっきょやグレート義太夫が演じているのだが、彼らに役名はない。
やがて旅の中で彼らとも別れる時が来る。そして正男と菊次郎のめちゃくちゃな旅も終わる。

なぜ正男は名前を尋ねたのか?

正男は旅の終わりに菊次郎に名前を尋ねる。

「おじちゃん名前なんて言うの?」

予告編の冒頭でも使われる印象的な場面の一つだが、初めて観たときは、なぜ名前を訊くのか分からなかった。
だが、今なら分かる。正男にとって、菊次郎はまた会いたい人だからだ。だから正男は菊次郎の名を尋ねるのだ。
正男が旅先で出会った人たちの誰の名前も分からない。一緒に遊んでくれたおじさんたちの名前も知らないまま、おそらく再び会うことはないだろう。
また、もしかしたら大きくなって母親に再び会いに行くこともあるかもしれないが、姓は変わっているだろう。住所だって今と同じ保証はない。

菊次郎との夏の旅は、出会いと同じ数だけの別れがあった。
「おじちゃん名前なんて言うの?」
「菊次郎だよバカヤロウ!」
菊次郎は照れながらそう答える。

北野菊次郎

タイトルの菊次郎とは、北野武の実父の名前でもある。亡き父の名前を使ったことに対して、北野武は「墓参り代わり」と答えており、大して深い意味はなかったそうだが、菊次郎のキャラクターには、武から見た父親への複雑な思いが垣間見える。

菊次郎は家の外では気が小さかったらしいが、家族には傍若無人に振る舞っていたという。
その姿は武が演じる菊次郎のメチャクチャさにも繋がる。しかし、正男に「またお母さん探しに行こうな」と呼びかけたりするなど、決して情のない人物ではないこともわかる。極度の照れ屋でもあるのだろう。そんな不器用さも武の父にはあったのではないか。

北野武自身が父親について以下のように述べている。

「下町あたりの居酒屋で、仕事帰りの職人が一人酒を飲んでいる姿を見て、なぜかやたらと格好いいなあと思うのは、つまり親父を思いだしているのかもしれない。
親父は、三角定規で線を引いたみたいに、家と仕事の現場と飲み屋を、ぐるぐる回っていただけだから、お袋に『父ちゃん、呼んできな』と言いつけられたときは、そのコースを反対回りするだけで簡単につかまえられた。いつもの飲み屋で、手酌で酒をなめている父親の姿が、きっと頭に焼きついてしまったのだ。
それに、何のことはない、今の俺自身が、親父そっくりだ。 俺も教育は母親まかせ。子供たちとも、めったに話さなかった」

『菊次郎の夏』のエンディングで、菊次郎が正男を抱きしめる場面がある。
菊次郎もまた孤独な人間だったのだろう。正男との旅を通して、菊次郎にも正男という唯一の友人が生まれたに違いない。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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