
※以下の考察・解説には映画の結末のネタバレが含まれています
私が小さな頃はサブスクなんてなかった。それどころかDVDすらなかった。レンタルビデオも近所にはない。なので、映画と言えば金曜ロードショーなど放送された映画をビデオテープに録画するしかなかった。今の時代のように映画を観る量こそ稼げないものの、ただ一本のテープを何回も何回も繰り返し観たという経験もそれに劣らない素晴らしい映画体験だったと思う。
『天空の城ラピュタ』
繰り返し、繰り返し観た映画といえば、以前も何度か言及した『ジュラシック・パーク』が浮かぶが正直怖いシーンはちょいちょいスキップしていたので、実は通して観た回数は少ない。
きちんと繰り返し観たと言える作品は『天空の城ラピュタ』た。本当にこれは(ほぼ姉に付き合わされてだが)何度も何度も観た。
もちろんネットもなければ、パルス祭りもない時代だ。もっといえば「アニメ」という言葉すら知らないほど幼い頃から観ていたために、私にとってはもはや面白い・つまらないなどの判断以前の作品でもあるのだ。
しかし、大人になって久しぶりに観ると、そのレイヤーの多さに驚く。単なる少年少女の冒険譚でもなければ、成長物語だけでもない。正義と悪の物語でもあり、自然と科学の物語でもある。このように様々なレイヤーが何層にも折り重なり、『天空の城ラピュタ』を構成していることに気づくのだ。
そして、本作には聖書や神話からの引用やオマージュも多く散りばめられている。
今回は『天空の城ラピュタ』を再度観直していく。大人の目で観た『天空の城ラピュタ』の本当の意味を紐解いていきたい。
『天空の城ラピュタ』は1986年に公開された宮崎駿監督のファンタジー映画。声の出演は田中真弓らが務めている。
空への憧れ
本作の舞台は19世紀の産業革命の時代だ(パズーの父が撮ったラピュタの写真には1868.7と日付が入っている)。本作の製作にあたって、宮崎駿はイギリスのウェールズ地方をロケハンしている。
飛行機はライト兄弟が1903年にようやく初の有人飛行に成功したばかりであるため、ゴリアテやタイガーモスなどの飛行艇はかなりのオーバーテクノロジーではあるのだが、このあたりは宮崎駿の飛行機好きが反映されたものだろう(当初、ドーラ一家は空賊ではなく海賊という設定であった)。
『魔女の宅急便』でも舞台は同時代のヨーロッパに設定されているが(宮崎駿曰く「産業革命が起きなかったヨーロッパ」)、やはり飛行艇が登場している。
宮崎駿は『天空の城ラピュタ』について、対象年齢を小学生に設定した古典的な冒険活劇と述べているが、その着想のきっかけは小学生の頃に描いていた架空の冒険譚だという。そこには宮崎駿の空への憧れも確かに込められていたのだ。
空から落ちて来た少女
物語はその空から始まる。軍の巨大戦艦ゴリアテの中に浮かない顔をした少女が佇んでいる。次の瞬間、空賊からゴリアテは襲撃を受ける。少女は空賊から逃げようと窓の外(!)へ身を隠すが、手を滑らせて落下してしまう。
地上ではパズーという少年が鉱山で働いている。彼は両親を早くに亡くした孤児であり、親方と呼ぶダッフィーの元で朝から夜遅くまで働いている。社会の教科書で子供の労働は産業革命の負の側面として取り上げられることが多いが、パズーもその一人である。
ある日、パズーは空から女の子が落ちてくるのを目撃し、救出する。

パズーとシータの出会い。パズーは後に「天使が降りてきたんじゃないかと思った」とシータに語る
彼女の名前はシータ。彼女はペンダントとして身につけていた飛行石の力でゴリアテから落ちても死なずに済んだのだった。
翌日、シータはパスーの家で目を覚ます。そこには空に浮かぶ都市ラピュタの写真が飾られていた。パズーは父がラピュタを発見、撮影したが世間には信じてもらえず、無念のうちに亡くなったこと、そして自分が父の名誉を回復するため、ラピュタを再び自分の手で見つけることが夢だと話す。
だが、シータの居場所も空賊(ドーラ一家)にバレてしまい、彼らとの逃亡劇が始まる。

シータを追うドーラ一家。やはりドーラが最も豪快
やがて軍隊も加わり、二つの勢力からシータは狙われることになる。
堕天使ムスカ
この軍を指揮する中心人物がムスカ大佐だ。声は俳優の寺田農が担当している。ムスカの声については、金曜ロードショーで『ブレードランナー』を観ていたスタッフ達がルドガー・ハウアー演じるロイ・バッティの声が良かったことから、吹き替えを担当していた寺田農を宮崎駿に推薦したのだという。
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専制的な悪役
個人的にムスカについては宮崎駿作品には珍しい、専制的な悪役だと思う。
例えば『もののけ姫』のエボシ御前や『風の谷のナウシカ』におけるトルメキアの王女はどはあくまで主人公側からすると敵のポジションになるだけであって、彼女たちには彼女たちなりの正義があり、それは確かに少なくない人々の助けになっている。
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ムスカの正体
ムスカの正体は劇中の後半で明らかになるが、ラピュタ帝国の王家の末裔である。シータも王族の末裔であり、もう一つの名として「リュシータ・トエル・ウル・ラピュタ」というラピュタ帝国の名を受け継いでいる。ムスカのそれは「ロムスカ・パロ・ウル・ラピュタ」だ。
シータの「トエル」は「真」を表すのに対して、ムスカの「パロ」はギリシャ語で「従属」の意味を表す。つまり、シータが王家の正統な後継者だとしたら、ムスカは分家にあたる。

悪役として屈指の人気を誇るムスカ。名セリフも多いが、アフレコはわずか2日のみだったという
ミルトンの「失楽園」における堕天使ルシファーは、天の神に逆らい、地獄でルシファーとなり、神へ復讐を誓う。
ラピュタを目指すムスカは、まさにルシファーではないか。
3枚の金貨
シータとパズーの逃亡劇は、二人が軍に拘束されることで終わりを迎える。
パスーはシータからラピュタ探しから身を引くように言われ、ムスカから手切れ金として3枚の金貨を渡される。
失意のどん底で帰路につくパズー。金貨を投げ捨てようとするも、それがどうしてもできない場面では、パズーの毎日の暮らしがどれだけ苦しいものかが伝わってくる。
バズーが家に着くと、そこにはドーラ一家が待ち構えていた。ドーラはパズーの不甲斐なさを指摘し、対するパズーはシータを今度こそ守り抜くためにドーラ一家へ加わることを志望する。
ドーラ
個人的には『天空の城ラピュタ』か大人の鑑賞にも耐えうる作品になったのは、作品のクオリティもさることながら、ドーラの魅力も大きいように思う。ドーラ一家は本作におけるコメディリリーフ的な役割も担っているが、ドーラに関しては結果的に笑える描写になることはあっても、観客を笑わせるために作られた場面はほとんどない。
ドーラは本作におけるほぼ唯一マトモな大人なのだ(親方夫妻もそうだが、出番はほんの僅かだ)。時に笑ってしまうほどの豪快さ、胆力、身体能力を有する、まさに女傑ではあるが、その本質は冷静に物事を見極め、情深く、リーダーシップのある大人だ。
『天空の城ラピュタ』においてパズーは確かに成長はするものの、主人公にありがちな目を見張るような突然変異はしない。パズーが本当に大切な人を守る覚悟を抱くようになったのは、ドーラの叱責があったからこそだ。子供が抱くような理想や甘さにドーラは大人として現実を突きつける。それは大人の私達の目線と同じであり、いわばドーラは子供の世界に現れた、我々の代弁者でもあるのだ。
「40秒で支度しな」
そしてパズーはドーラ一家とともにシータの救出へ向かう。
宮崎駿は人間と自然との対立をどう動いてきたのか、それをジブリ作品の変遷から考察した記事を書いた(「宮崎駿は自然をどう描いてきたのか?『ラピュタ』から『千と千尋の神隠し』まで」)。 今回の考察はその姉妹編と言っていい。今回考察するの[…]
ドーラの夫について
ここで少し余談を入れよう。
ここまでの女傑の夫とはまたどのような人物か気になるところである。劇中ではタイガーモス号を作ったとしか言及されないが、実際には中々の物語を持った人物だ。
元々はドーラの夫は神父であり、様々なことを研究する科学者でもあった。18歳のドーラにその才能を見込まれ、攫われたのだ。しかしドーラと暮らすうちに恋心が芽生え・・・という隠されたエピソードも存在する。
劇中に登場するタイガーモス号だけでなく、フラップターもこのドーラの亡き夫の発明品という設定である(フラップター自体はフランク・ハーバートのSF小説『デューン砂の惑星』に登場するオーニソプターからの着想だ)。
キングコング
シータは要塞に幽閉されていたが、祖母から教わった「おまじない(リテ・ラトバリタ・ウルス・ アリアロス・バル・ネトリール)」をつぶやいたことで、地下に保管されていたロボットが覚醒。軍隊をシータの敵とみなし、要塞を火の海に変える。このリテ・ラトバリタ・ウルス・ アリアロス・バル・ネトリールは「我を助けよ、光よよみがえれ」という意味で、救いを求める言葉でもあったのだ。
ここは『風の谷のナウシカ』の巨神兵や、『シン・ゴジラ』を彷彿とさせる。どちらもレーザー状の光線で辺り一面を焼き尽くす。
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だが、個人的には『キングコング』のオマージュも感じられる。コングもロボット本当は優しさを持っているが、それはヒロイン以外には理解されず、化け物と思われて退治される。またコングもロボットも共にヒロインを抱いて、塔の上で暴れまわるのも共通している。

このシーンは『キングコング』を思わせる
ドーラのパンツ
パズーはトラブルに見舞われながらも何とかシータを救出する。
一方でムスカはシータの落とした飛行石を拾い上げ、飛行石の発する光の先にラピュタがあるとして、ゴリアテをラピュタへ向かわせる。
シータとパズーもドーラ一家とともにラピュタへ向かう。パスーはハラ・モトロの助手として、シータは炊事担当としてドーラの飛行船(タイガーモス号)で働くことになる。
ドーラは「そんな服では何もできやしない」と言い、シータに自前のパンツを着させる。
ここからシータは本格的に「お姫様」のポジションから、ジブリのヒロインらしいアグレッシブな女性へと変貌していく。そのシンボルがこのドーラのパンツなのだ。

シータに着せるパンツを探すドーラ。左には若かりし頃のドーラの姿が!
タイガーモス号でのシーンは、それまでの緊張をほぐすように笑える場面が多いが、パズーとシータが見張り役になると、またトーンは一変する。ここではパズーがドーラへの印象を「見かけよりいい人」と打ち明け、シータも自分が巻き込まれた運命の過酷さへの恐怖を吐露する。また、「滅びの呪文」の存在が明かされるのもこの場面だ。
タイガーモス号もゴリアテからの攻撃を受け一時退避する。パズーとシータは見張り台をグライダーにして分離させ、再びゴリアテの位置を探っていく。
龍の巣
そんな中でパズーとシータは巨大な低気圧の「龍の巣」に遭遇する。龍の巣の表面では名前の通り、猛烈な風が吹き荒れている。しかし、パズーはこの中にラピュタがあると主張する。
「父さんはこの中でラピュタを見たんだ!」
そしてシータとともに竜の巣へ突入する。
龍の巣の本当の由来は雲の中で絶えず多くの雷が竜のように咆哮しているからではないか。
パズーはその中に父の幻影を見る。

パズーは龍の巣の中で父と「再会」する
そして雲を抜け、二人はラピュタへ不時着する。そこは人が絶え、文明が滅びてなお、豊かな自然にあふれ、ロボットが生命を守っている、穏やかな場所だった。
だが、ムスカ率いる軍もゴリアテとともにラピュタへ辿り着いていた。飛行石を手にしたムスカに対し、ラピュタは龍の巣の防御を解いていたのだ。軍はラピュタの眠りを覚ますかのように爆薬で無理やり侵入口を作り、ラピュタの財宝を収奪していく。
神気取り
ムスカはラピュタに到着すると、軍とは別行動を取り、真の目的を果たそうとする。
黒い石板を起動させ、将軍らの目の前で超兵器「ラピュタの雷」を発射してみせる。
「『旧約聖書』にある、ソドムとゴモラを滅ぼした天の火だよ。『ラーマーヤナ』ではインドラの矢とも伝えているがね」
この威力の大きさの描写は核兵器に酷似しており、ここでラピュタと古代核戦争説との関連を見ることもできる。

「ラピュタの雷」の爆発の様子は核兵器と絡めて論じられることも多い
実際に今日においても一部の人々は『ラーマーヤナ』の記述は古代核戦争を意味していると考えているのだ。
恐怖と破壊によって再びラピュタ王として君臨しようとするムスカ。生殺与奪の手段を得たムスカは神のように人々の生死を支配していく。
「見ろ、人がゴミのようだ!」
ドーラ一家の救出
パズーは一人でドーラたちの元へたどり着き、ナイフを手渡す。ドーラはパズーの成長を認め、くるぶしに隠しておいた銃と弾を手渡す。
恐らくドーラ一家が軍に捕らわれた時、手持ちの武器も全て押収されたはずだ。ドーラの抜け目のなさがここでも描かれている。一方でパズーにその武器を渡すということは、軍に対して大きな攻撃の機会、もっといえば自衛の機会すら放棄したと言っていい(もしムスカが軍を混乱に陥れなかったら、いくら紐を切っていたとしても無事に逃げられた確率は低かっただろう)。このシーン一つとってもドーラの強かさと情の厚さが見えてくるのである。
パズーはドーラの縄を切るときに彼女の股の間から顔を見せていた。それは「新しく生まれ変わったこと」を象徴しているとも言われている。

このシーンはパズーが「新しく生まれた」場面としてしばしば言及されている
そしてパズーは単身シータを救いに行く。
「バルス」は本当に滅びの呪文だったのか?
一方、シータは虐殺を嬉々として行うムスカから飛行石を奪い、逃げる。
だが、所詮は幼い子供、ムスカに追い詰められてしまうわけだが、世界の支配者たらんとするムスカに対し、毅然としてこう言い放つ。
「ラピュタがなぜ滅びたか、今ならよくわかる。(中略)どんなに恐ろしい武器を持っても、かわいそうなロボットを操っても、人は土から離れては生きられない」
当然、ムスカはシータの言葉など意に介さない。
「ラピュタは滅びない、何度でも蘇るさ」
そしてシータのおさげを一本ずつ撃ち抜いていく(余談だが、ムスカの使う中折れ式リボルバーは第二次世界大戦中に発明されたものだ)。
やがてパズーもシータの元へたどり着く。パズーはシータに「あの言葉を教えて」と言い、二人は滅びの呪文を口にする。

滅びの呪文を口にする二人。そこには悲壮な覚悟が漂っている
「バルス」
これはラピュタの言葉で「閉じよ」という意味であるらしい。
事実、その言葉によってラピュタの下半分は崩れ去っても、最上部はそのままであった。ラピュタでは階層と階級が連動している。ラピュタの最上部に住めるのは王族だけなのだ。つまり、これは王家の者だけを残して、それ以外のものを抹殺する呪文ではなかったのか?
そう思うと、皮肉なことにムスカのほうがラピュタの王族にふさわしい素質を備えていたのではないかと思う。
だが、シータの意思に呼応するように、滅びの呪文によって飛行石から発せられた閃光は、ムスカの視力を奪う。
ムスカは神の座を再び取り戻そうとしたルシファーだ。
あるいは太陽に近づきすぎて翼を焼かれたイカロスかもしれない。
あるいは神から火を盗み、罰を受けたプロメテウスかもしれない。
あるいは、父を殺し、母と交わり、目を潰したオイディプス王かもしれない。

画像の中央よりやや右の上部、ムスカが瓦礫と共に落ちているのがわかるだろうか
ドーラ一家は辛くも脱出し、崩壊していくラピュタを見つめる。
「あの子らはバカどもからラピュタを守ったんだよ」
ドーラはそうつぶやく。しかし、青空の彼方に二人が乗っていたグライダーが見えるではないか。
ドーラは驚きの顔を浮かべるが、そこには次第に笑みと涙が浮かんでくる。

ドーラは宮崎駿の母がモデルだという
今回15年ぶりに『天空の城ラピュタ』を観直してみたが、不意にこの場面で落涙してしまった。子供の頃はドーラの目に涙が浮かんでいたことなど気づかなかった。その顔は空賊の頭のものではない。この時のドーラの顔は一家の誰にも見えないが、娘の無事に安堵する母親の顔だ。ドーラがこのような顔を見せたのも、この時ドーラの顔は息子たちから見えなかったからではないかとも思う。彼らは息子であると同時に、仕事上の部下でもあり、ドーラは常にその頭としてふるまわなければならない。ドーラが二人の生還に涙ぐむこのシーンは今まで誰にも見せなかった、ドーラの本当のやさしさが垣間見える場面でもある。
ドーラは宮崎駿の母がモデルだという。病気がちではあったものの、男4兄弟がそろっても母には太刀打ちできなかったそうだ。
「髪の毛を切られる方がよっぽど辛いさ」そう言ってシータを抱きしめるドーラ。
天涯孤独だったシータにとって、ドーラは母となり、またドーラにとってもシータは初めての娘になったのではないか。
『天空の城ラピュタ』のもう一つのエンディング
さて、『天空の城ラピュタ』にはその後のエンディングが放送されたという有名な都市伝説がある。それはパズーがシータの元を訪ねるエンディングが存在し、それが放送されたというものだ。
実は私も観た記憶があるのだが、1989年7月に『金曜ロードショー』で放送された際、放送時間の関係によって日本テレビ放送側が簡易版のエンディングを作成、それが都市伝説の元になったというのが真相らしい。
しかし1989年はまだ私は2歳で、かつ病院に入院していた時期なので、物理的に観ることは不可能なのだが・・・。
さて、映画監督の押井守の『誰も語らなかったジブリを語ろう』という本には正真正銘のもう一つのエンディングが語られている。
『天空の城ラピュタ』製作当時、押井守はフリーになったばかりで毎日「二馬力(宮崎駿の事務所)」に通っていたという。そこで宮崎駿から、『天空の城ラピュタ』のエンディングについて説明されたという。
その内容は、ドーラがこっそり盗んだ宝石をシータらに見せて「さんざん苦労して、これっぱかしさ」と言うシーンのあとに、その宝石を「お前たちには絶対必要になるから、これを持っておいき。邪魔にはならないよ」とパズーとシータに手渡すという内容だったようだ。
押井守はそのシーンを「生きていくためには金も必要という現実を描き、ただのファンタジーで終わらせていない」と評価していたが、完成版からはカットされている。個人的に思うには、むしろ『天空の城ラピュタ』をファンタジーのまま終わらせたかったからこのシーンをカットしたのではないか。中盤でパズーはムスカから得た金貨を投げ捨てることができないでいるが、エンディングではその「現実」からも解き放たれてパズーとシータは永遠のファンタジーの中で生き続けるようになるのだ。それでこそ、宮崎駿が目指した「古典的な冒険活劇」と成り得るのではないか。
滅びの呪文となってしまったバルス
『天空の城ラピュタ』は今日ではスタジオジブリを代表する人気作と言っても過言ではない存在になった。テレビ放映時には「バルス祭り」と呼ばれる現象が起き、シータとパズーが滅びの呪文を唱えるタイミングに合わせて、ネット上でも「バルス」がそこかしこで投稿されるようになった。
バルスはその起源をトルコ語で平和を意味する「bans(バルシュ)」から来ているなどと解説されることもあるが、実際はそれも都市伝説に過ぎない。
「何もないです。口から出まかせです。なるべく英語でもなく、日本語でもないようなものを考えるんです。
『テケレッツのパー』じゃまずいでしょう(笑)」
そう宮崎駿は語っている。
しかし、2011年にはあまりのツイート量にTwitterサーバーすら落ちるという現象が生じてしまっている(この時は全世界での瞬間最大アクセス数記録を塗り替え、14,594ツイート/秒を記録)。
図らずもバルスは現実世界で名実ともに破壊の呪文になってしまったようだ。
作品情報
『天空の城ラピュタ』公開年:1986年
上映時間:124分
スタッフ
監督宮崎駿
脚本
宮崎駿
原作
宮崎駿
製作
高畑勲
製作総指揮
徳間康快
キャスト
田中真弓横沢啓子
寺田農
初井言榮
常田富士男
永井一郎
神山卓三
安原義人
亀山助清
槐柳二
糸博
鷲尾真知子
TARAKO