私が子供の頃は、夏になると心霊写真などのホラーコンテンツがテレビで特集されていた。「おわかりいただけただろうか」で有名なアレである。
しかし、ネットの発達で情報が容易に手に入る今、当時特集されていた心霊写真のほとんどは科学的に説明のつく現象だったことがわかるようになってしまった。
妖怪や幽霊やオカルト、それらが真面目に人々を怖がらせ、刺激を与えていた時代と、科学技術が発達し、情報量が劇的に増えた今では、果たしてどちらが豊かな時代だっただろうか。
古代の人々は、自分たちのルーツを求めて神話を作った。科学的に自分たちの歴史を知る、考古学のようなアプローチは存在しなかったからだ。その点で言えば、現代は神話なき時代だと言えるだろう。
『悪魔と夜ふかし』
さて、今回紹介したい作品は1970年代を舞台に、悪魔憑きをテーマにした『悪魔と夜ふかし』だ。
『悪魔と夜ふかし』は2024年に公開されたホラー映画。監督はコリン・ケアンズ、キャメロン・ケアンズの兄弟主演はデヴィッド・ダストマルチャンが務めている。
作品の概要は、ライバル番組に視聴率で負け続けているテレビ司会者が、生放送の番組内で世界初となる悪魔との共演を試みるというもの。
今作を知ったのはXがきっかけだった。たまたま劇場公開作としてタイムラインに流れてきたポスタービジュアルを目にしたのだが、まずはそのタイトルとどこかホラーらしくない、レトロな雰囲気が気になった。そして内容だ。生放送中に悪魔を降臨させる、そんな番組はいかにも実際にありそうだ(日本でも幽霊を霊能力者に乗り移らせるといったことは番組の中で行われていたように思う)。そんな妙なリアリズムと、映画としてありそうでなかった設定にも興味を惹かれた。
1970年代を舞台にした理由
今作の舞台はあくまで現代であり、かつて重大な放送事故となった、1977年のハロウィン当日の生放送のV番組TRがその舞台裏の記録映像とともに見つかったという体で物語が進んでいく。
監督のケアンズ兄弟は1970年代を舞台にした理由として、当時は悪魔や宗教が真剣に受け止められていた時代だったからだと述べている。
「ヒッピー以降・ニューエイジ思想の時代には、南アメリカのジョーンズタウンで数百人がジュースに毒物を混ぜ、喜んで自殺したこともあった。人々が宗教やスピリチュアル、悪魔崇拝の限界を求める、非常に奇妙な時代だった」
上記は1978年に起きた、カルト教団「人民寺院」の事件を指している。教祖であるジム・ジョーンズの命令によって、信者918人が集団自殺を行ったのだ。
1960年代に隆盛したヒッピーカルチャーは、従来のキリスト教を否定し、仏教やヒンドゥー教などの影響を受けていた。特にインドからの影響は強かっただろう。これは余談だが、後期ビートルズもヒッピーカルチャーを強く受け、マッシュルームカットから長髪のヒゲ姿へ変貌し、インド楽器であるシタールを楽曲に取り入れるなどしていた。
そうしたヒッピーカルチャーは終末思想や悪魔崇拝と結びつくこともあった。例えば上記の人民寺院の他にも、マンソン・ファミリーを率いていたチャールズ・マンソンはヒッピー的な出で立ちをし、独自の終末思想で自身の教団の信者を増やしていった(その思想はビートルズの『ヘルター・スケルター』を拡大解釈し、白人と黒人の間で最終戦争が起きるというものだったらしい)。
だが、そうした事件の影響により、ヒッピー文化は急速に衰退していく。そして、ヒッピーが逆らったはずの1950年代の保守的なアメリカの価値観が再び1980年代に台頭してくる。
「アメリカを再び偉大に!」
1981年に大統領に就任したロナルド・レーガンは「アメリカを再び偉大に!」のスローガンで選挙を勝ち上がったが、アメリカが偉大であった時代は1950年代を指している。
また、1985年に公開された『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は、主人公のマーティが1955年のアメリカにタイムスリップし、保守的な時代のアメリカの姿を追体験していく作品だ。マーティを演じたのはマイケル・J・フォックス。マーティはロックンロールやスケボーに夢中の今どきの若者を代弁したようなキャラクターだが、マイケル・J・フォックス自身は両親がヒッピーであり、その反発から保守思想が強かったという。
そのようなことを踏まえると、『悪魔と夜ふかし』の舞台が1970年代でなければならない必然性も理解できる。
『ナイト・オウルズ』
人気司会者のジャック・デルロイは深夜番組『ナイト・オウルズ』司会者。ジャックは怪しげな教団「ザ・グローブ」との関わりが噂されながらも、気さくなキャラクターで世間からの人気も高かった。『ナイト・オウルズ』開始直後は視聴率も上々。マスコミからは何を犠牲にしてこんな人気を獲得したのかと訊かれるほどだった。また、テレビ局の重役から5年契約を締結される(このとき「君も我々の仲間になったな」と声をかけられる)。
しかし、その後視聴率は段々落ち始める。ジャックは肺がんになった妻を番組のゲストに呼んでまで、視聴率を獲得しようとしていた。この回は最高の視聴率を叩き出すも、全番組の中で1位とはなれず、しかもその直後に妻は亡くなってしまう。
失意のジャックは一時姿をくらますが、再び『ナイト・オウルズ』へ復帰する。その目的は競合の人気番組の視聴率を抜き、自分の番組を全米No.1にすることだった。
そのために『ナイト・オウルズ』 は段々と過激でスキャンダラスな内容にシフトしていき、視聴率調査週間でもあるハロウィンの夜の生放送では超常現象やオカルトの特集が組まれることとなった。
番組には様々なゲストが呼ばれている。最初に登場したのはインド系の怪しげな霊能力者のクリストゥ。彼は死者の声を聞くことができるという。クリストゥは観客の関係者である故人の「声」が聞こえると言い出す。
無理やりなこじつけと事前の演出により、クリストゥはなんとか番組を盛り上げることには成功したが、突如、大きな「声」が彼を襲う。その声の主はミニーという女性であり、関連する人物は結婚指輪をつけた独身者だという。
そんな人物は観客席には誰もいない。しかし、ジャックはミニーが亡くなった妻、マデリンを呼ぶときの2人の間だけの愛称であったこと、そして自分自身が結婚指輪をつけた独身者であると告白する。超常現象に懐疑的なゲストのカーマイケル・ヘイグはそれすらも演出だと言い切るが、クリストゥは大量の吐瀉物を吐き出し、救急車で病院に運ばれる。
そして、次に登場したのがリリーだ。リリーは悪魔崇拝の教団「アブラクサス第一教会」のたった1人の生き残りで、現在は13歳。悪魔が憑いているされる少女だ。リリーはジャックの知り合いの精神学者で、リリーをモデルにしたルポタージュ「悪魔との対話」著者のジューン博士とともにスタジオへ登場する。
しかし、リリーが登場してから、照明が消えたり、ビデオが乱れたり、スタジオには不可思議なことが起きる。
ヘイグはそれもヤラセだと指摘するが、ジャックはそんなヘイグに辟易した素振りを見せる。日本の番組だと司会者がどちらか一方の(それもオカルト側の)肩を持つのはほぼないため、奇妙な光景に見えてしまうが、この描写はケアンズ兄弟の実体験を元にしている。
『ザ・ドン・レーン・ショー』
幼いケアンズ兄弟は夜ふかしして『ザ・ドン・レーン・ショー』という深夜番組を観ていたそうだ。番組の司会者は番組名にもあるドン・レーン。気さくなしゃべりと超常現象に強い関心を抱いていたという部分はジャック・デルロイのキャラクターの下地にもなっているのだろう。
そして、ある夜の放送で、超常現象に懐疑的なジェームズ・ランディがユリ・ゲラーのスプーン曲げのトリックを見破ったとき、どんなセットを破壊し、番組を放棄してしまったという(実際、スプーン曲げは現在では超能力というよりもマジックの一種だと認知されている)。
幼いケアンズ兄弟にこの場面は強烈なインパクトを与えた。そして、それが『ナイト・オウルズ』という番組の方向性を決定づけたという。
1970年代ホラー映画からのオマージュ
番組の合間にジャックはクリストゥがプロデューサーから亡くなったことを告げられる。
ジェーンはジャックにこれ以上は危険であり、リリーへ悪魔を乗り移らせることをやめさせようとするが、ジャックは番組のために必死で悪魔をリリーに憑かせるようにジェーンに懇願する。
渋々了承したジェーンは、リリーを椅子に座らせ、手足を拘束する。そしてその体に悪魔を憑依させる。
さて、この作品はいくつかの映画からのオマージュが見受けられる。ここにも1970年代へのケアンズ兄弟のリスペクトが感じられる。
悪魔が憑依したリリーの顔が傷だらけになっているが、これは1973 年に公開された『エクソシスト』の影響だろう。リリーの声が変わったり、座った椅子が宙に浮くのもそうだ。
ジャックはリリーの変貌に衝撃を受ける。悪魔はジェーンに卑猥な言葉を吐き、そして悪魔から「久しぶりだな」と声をかけられる。悪魔がなぜ自分のことを知っているのか?その謎は終盤で明らかになってくる。ヘイグはリリーの憑依もトリックだと糾弾し、ジャックのアシスタントであるガスを使って、リリーの変貌を集団催眠だと言い放つが、リリーのVTRは確かに変貌したリリーの姿が映っていた。
だが、映っていたのはそれだけではない。ジャックはVTRをコマ送りで再生するように指示する。すると、その1コマに亡くなった妻、マデリンの姿が映っている。
一体なぜ?
ジャックは再びリリーに悪魔を憑依させようとするが、突如リリーの体は電流のように発光し、まるでそのエネルギーに耐えきれないかのように頭部が裂け始める。そして完全に悪魔に体を乗っ取られたリリーが出演者を超能力ともいうべき力で皆殺しにしていくが、この演出はブライアン・デ・パルマの『キャリー』を思わせる。
1976年に公開された『キャリー』は、凄まじい超能力を秘めた少女キャリーが、怒りの感情を爆発させ、念の力でプロムの会場にいたほぼ全員を皆殺しにする。キャリーは自我を無くし、怒りに我を忘れている状態だが、リリーも同様に既に自我はなく、悪夢がその全てを支配している状態だ。
ジャックはスタジオの扉から逃げるが、そこには観客やテレビ局の重役が白いシーツで動物の頭をかたどった被り物を着けている。皆ザ・グローブのメンバーだったのか?そして、重役がジャックに盃を飲ませ、生贄を求める。ここは1973年の映画『ウィッカーマン』を思わせる。『ウィッカーマン』は原始的な宗教が復興した小島が舞台となっている。島の祭りの直前の時期、行方不明になった島の娘を捜索しに来た主人公は、知らず知らずのうちに自分が島の人々の罠にはめられ、島に招かれた本当の目的を知る。それは島の娘ではなく、自分自身が祭りの生贄となることだった。クライマックスで娘も島の人々も全員がその目的のために行動していたことに気づく(祭りの仮装で島の人々が動物などの姿をしていることも『悪魔と夜ふかし』と共通している)。
盃を飲んだジャックは過去の場面を再体験していく。
その果ては、妻が命を引き取る場面だった。なんとジャックは妻の命と引き換えに、番組の成功を悪魔と契約していたのだ。
「こんなことになるなんて思っていなかった」涙ながらにそう妻に語るジャック。
その言葉から察するに、おそらく契約は「もっとも大切なものを差し出す代わりに、番組の成功を叶える」といったものだったのだろう。ここで、ジャックが5年契約を交わした時の重役の言葉を振り返ろう。「これで君も我々の仲間になったな」これはジャックが悪魔と契約を交わしたことを示しているのではないだろうか。また、悪魔がジャックに「久しぶり」と話しかけたのも、悪魔の姿は見えずとも、この時に悪魔に接触していたからだ。
過去の映画からの引用ということであれば、ケアンズ兄弟はマーティン・スコセッシの映画『キング・オブ・コメディ』や、デヴィッド・クローネンバーグの『ヴィデオドローム』からの影響も公言している。
また本作の基本的な設定である、古い映像が見つかったという形で映像を流し、それをドキュメンタリーかのように見せかける構成は1982年のヒット作『食人族』の影響を感じさせる。この疑似ドキュメンタリー(モキュメンタリー)という手法は『食人族』によって一躍有名になった。
ドキュメンタリー制作のためにアマゾンの奥地の密林地帯へ向かった探検隊が、現地で消息を絶つ。大学教授が彼らの捜索へ向かう。原住民らと接触し、そこで発見されたフィルムには、探検隊が原住民に対してレイプや放火など暴虐の限りを尽くす様子と、その復讐として彼らを生きたまま食い殺す原住民の様子が収められていた。
『食人族』には私たち文明人と原住民と本当に野蛮なのはどちらだろうか?というメッセージが込められている。
「ことは成された」
このメッセージは『悪魔と夜ふかし』にも通じるのではないか?
どう言い繕おうが、病魔に侵され日に日に死に近づく妻をジャックは結果的に見捨てている。
せめてもの優しさとして、ジャックはスタジオに用意されていた「アブラクサス第一教会」の短剣を手に取り、妻の苦しみとその命に止めを差す。
しかし、現実に戻ったジャックが刺殺したのは妻ではなく、リリーだった。一人呆然とするジャックは「夢から目覚めよ」とつぶやき続け、番組は終わる。
カメラの表示には「アブラクサス第一教会」の教祖の言葉である「ことは成された」の文字が写し出される。
結末に関する考察
なぜ、このような結末になってしまったのか。妻の命を犠牲にして得たのは、妻が番組に出演した時の視聴率だったのではないか。しかし、ジャックは更なる成功を望んだ。妻を失ったジャックにとってもっとも大切なもの、それは自らの名誉や社会的な地位ではないか。結局のところ、番組を成功させる目的もそこにあったのだろう。しかし、「番組の成功」を悪魔と契約したばかりに、自身にとってもっとも大切な名誉や人気、社会的な地位も生放送でのリリーの殺人という結末によって奪われてしまった。これが一つ目の解釈だ。
そして、もう一つ、リリーを殺すこと以外は、全てジャックの妄想だったという二つ目の解釈も成り立つ。というのが、ケアンズ兄弟がリリーとジェーンのモデルにしたのが、悪魔崇拝者から虐待受けていた子供、ミシェル・スミスの回想録である『Michelle Remembers』という本だという。そこには母親に連れられて悪魔崇拝の集会に参加した話や教団内での虐待や拷問に関する内容で一大センセーションを巻き起こした。『悪魔と夜ふかし』同様にテレビのトークショーにも出演し、司会者も本の内容を疑うことはなかったが、実際にはこの本の内容は全てデタラメだった。もし、『悪魔と夜ふかし』がその部分まで含めてのオマージュをしているならば、リリーの悪魔憑依は実際にはなかったことになる。
さらにここを補強する根拠がふたつある。一つは『悪魔と夜ふかし』が完璧な疑似ドキュメンタリーではないこと。もし、完璧な疑似ドキュメンタリー番組であれば、ジャックが妻との過去を追体験する場面はジャックの頭にしか存在せず、映像化は不可能なはずだ。
もう一つは、もし一つ目の解釈であれば、悪魔との契約は2回結ばなければならないからだ。
もし、悪魔との契約が1回であれば、妻が亡くなった時点で契約は果たされたはずである。そうなればジャックがリリーを殺す理由がなくなるのだ。しかし、劇中には悪魔と2回契約したかのような描写はどこにもない。そして、「最も大切なものと引き換えに番組を成功させる」ことが契約内容だとしたら、妻を差し出すのは矛盾がある(本当に妻を差し出せるのは、妻を失っても欲しいものがあるからだ。それが実は一番大切なものであるはずだ)。
ここで、妻の死は全くの運命の悲劇であるが、ジャックはそれを悪魔との契約の犠牲と勝手に思い込んでいるとしよう。その罪悪感から日常の些細なことでも亡き妻に結びつけて考えてしまう。クリストゥがミニーと結婚指輪をつけた独身者と発言したのを聞いて自分のことだと思い込んだのもその一つ、という解釈もできる。
そして、リリーが登場した後から、殺すまでの全ては、悪魔がジャックに見せていた幻だとしたら?これだと、悪魔との契約は1回であり、その内容が「自分の一番大切なものを差し出す」というものでも矛盾なく説明できるはずだ。
果たして本当のところはどうだろうか。それはわからない。しかし、本当に恐ろしいのは悪魔よりも人間の方ではないか。
今の時代だと視聴率よりもPV数や視聴回数だろうが、それらのために善悪や倫理を超える者もいる。現代社会にジャック・デルロイは確実に潜んでいるのだ。