※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています
アメリカは自由と平等の国だと言われる。そこで言われる平等とは誰にもチャンスが平等にあるということだ。当然結果は平等ではない。その平等でない結果は格差の固定を生み、チャンスの平等さえ奪ってしまう。日本でも格差社会という言葉が叫ばれて久しいが、アメリカの格差は日本の比ではない。
1980年当時、アメリカをはじめとする西欧諸国では上位1%の高所得者が国民総所得の10%を占めていた。しかし現在では西欧諸国は上位1%の高所得者の所得が国民総所得に占める割合は12%に増加した程度だが、アメリカでは20%にもなっている。言い換えればアメリカの国民総所得の20%を上位1%の高所得者が独占しているということだ。
もちろん資本主義国家であり自由競争社会である場合、格差が存在することは自然なことでもある。ただ行き過ぎた格差は明らかに是正せねばらない社会問題だ。一方で貧困は自己責任であるという見方もいまだに根強い。「成功者に比べて、君は努力が足りなかったのだ。だから君は負け犬のままなのだ。」この言葉は一見もっともらしく聞こえるし、そのすべてを否定はしきれない部分もある。
だが、それは成功したからこそ言えるセリフであり、成功者以上に努力した者がいなかったとは言い切れない。
負け犬とは
さて、今回紹介したい映画は『リトル・ミス・サンシャイン』。2007年に公開されたコメディ映画だ。公開時はわずか7館での公開だったが、高い評価によって1602館にまで拡大公開されている。
『リトル・ミス・サンシャイン』は負け犬の家族が旅を通して本当の幸せを見つけていくストーリーだ。多くの人がこの物語に惹かれた理由はなぜだろうか、見ていこう。
『リトル・ミス・サンシャイン』の脚本を手掛けたマイケル・アーントはアーノルド・シュワルツェネッガーの「私がこの世で最も軽蔑するのは負け犬だ」という言葉に違和感を感じ、この物語を着想したという。
シュワルツェネッガー自身、貧しい中でオーストリアからアメリカにわたり、必死に努力し成功をつかんだという自負があるのだろう。その努力は素晴らしいが、努力すれば皆成功できるというのはどこか夢物語ではないか。
マイケル・アーントはニューヨーク大学のフィルム・スクール卒業後に俳優のマシュー・ブロデリックのアシスタントを務めていた。マシューの元に寄せられる多くの脚本に目を通し、それらを選別する仕事を行っていた。やがてアーントは脚本家のキャリアをスタートするが、何年たっても脚本は売れないままだった。いわば彼もまた苦労を重ねた人間の一人だ。そんな彼が自身の体験を踏まえてある家族をテーマに描いたのが、本作『リトル・ミス・サンシャイン』であった。
『リトル・ミス・サンシャイン』のフーヴァー家はバラバラだ。
祖父のエドウィンはヘロイン中毒によって老人ホームを追い出されてしまい、父親のリチャードは人生の勝者になるべく、家族よりも「9段階プログラム」という独自の成功理論書の出版に血眼になっている。母の兄であるフランクはゲイで失恋を理由に自殺未遂したばかり。子供たちはというと、兄のドウェインはニーチェに影響されて、テストパイロットになるためにアメリカ空軍士官学校に合格するまで無言の行を貫いている。そして母のシェリルはそんな家族に振り回されてばかり。そんな中、純粋さに満ちているのが末っ娘のオリーブだ。彼女がミスコンの地方予選に繰り上げ優勝したことから、決勝の地、カリフォルニアで開催されるミスコン「リトル・ミス・サンシャイン」へ出場するため、家族総出で一台のボロボロの黄色いVWバスに乗り込む。
『リトル・ミス・サンシャイン』を書き上げる前、アーントは脚本家への道を諦めようとしていたという。最後に西海岸からニューヨークまで旅をし、旅の終わりとともに夢をあきらめ違う道に進もうと決心していた。
アーントは旅の果てのニューヨークでMOMA(近代美術館)の「ジブリ回顧展」を目にする。中でもアーントが衝撃を受けたのが高畑勲監督の『ホーホケキョ となりの山田くん』だった。アーントは何気ない日常がドラマになることにとても感激した。些細な日常でも傑作になるのだと大いに勇気づけられたアーントは西海岸に戻り、新しい脚本の執筆を始めた。アーントもまた家族の日常を描こうとして生まれたのが『リトル・ミス・サンシャイン』だ。彼自身も幼い頃に家族でVWバスで長距離に渡る旅をしたことがあるという。
アメリカの格差
さて、旅の途中で宿泊したモーテルの部屋で、ドウェインの部屋のテレビに当時の大統領のジョージ・W・ブッシュが数秒間だが映し出される。ほんのわずかなシーンだが、監督のジョナサン・デイトンとヴァレリー・ファリスはこの場面でブッシュを登場させることにこだわりがあったという。「ブッシュ政権時代がどんな社会だったのか、その記録という意味でもね。」ブッシュを映すことで当時の時代を映画に刻みたかったのだろう。
ブッシュ政権下で格差は拡大し、イラク戦争が始まった。イラク戦争は独裁政治を悪とばかりに大量破壊兵器の保有を口実に一方的にアメリカの民主主義を押し付ける戦争だった。2008年に公開されたオリバー・ストーン監督の『ブッシュ』ではイラク戦争に関する政権の内実が描かれている。
ブッシュは経済政策でも格差を拡大させた。ブッシュの経済政策は富裕層の優遇であり、累進課税の最高税率は39.6%から35%まで引き下げられ、富裕層が中心である投資所得については最高39.6%だった配当課税が15%まで引き下げられた。ブッシュ政権の経済政策は新自由主義に近い。いわゆる小さな政府を目指し、公から民へという流れの中で市場を活性化させようとする考えだ。大企業や富裕層を富ませれば、その富は貧困層も含む全体の所得の底上げになるというトリクルダウンも新自由主義の考えの一つであり、ブッシュの経済政策にも当然その狙いがあっただろう。しかしトリクルダウンは理想論に過ぎなかった。OECD(経済協力開発機構)の分析によると、所得格差の拡大はむしろ経済成長を阻害すると発表されている。
クリントン政権はその終わりを財政黒字で迎えたが、ブッシュが政権を去るとき、財政赤字は1兆2000億ドルにまで膨れ上がっていた(ブッシュの経済政策や経済格差については『ウォール・ストリート』の解説も参照されたい)。
『リトル・ミス・サンシャイン』はそんな時代に対するアンチテーゼだ。
格差社会においてはフーヴァー家は負け犬の方だろう。そもそもお金がないから飛行機でなくて車で旅をするわけだし、父のリチャードも自分達の状況がわかっているからこそ、何としても人生の逆転を果たし、勝者になろうと焦っている。
アメリカの下層所得者は国民所得のおよそ半分を占め、平均的な年収は200万程度だという。
リチャードのような不安や焦りに駆られている人も少なくないのではないだろうか。
しかしリチャードはあっさりと「9段階プログラム」の出版を反故にされ、人生の勝負に負ける。そんなリチャードを祖父のエドウィンはこう慰める。
「結果はどうあれお前は精一杯やった
立派なもんだ
脱帽するよ
大きなチャンスに挑戦したお前を誇りに思う」
エドウィンはドラッグやポルノ好きのどうしようもないおじいちゃんなのだが、ここぞというときには素晴らしい言葉を残す。
先述のモーテルでオリーブがエドウィンに出場への不安を打ち明ける場面もそうだ。「負け犬はイヤ・・・パパが負け犬は嫌いだって」涙を流して不安を吐露する孫娘に祖父はこう言う。
「負け犬の意味を知ってるか?
負け犬っていうのは負けるのが怖くて挑戦しないやつらのことだ
お前は違うだろ
負け犬じゃない、明日は楽しめ」
これらの言葉を本当に欲していたのは『リトル・ミス・サンシャイン』の観客たちではないだろうか。
挑戦への背中を押してくれ、失敗したとしても優しく認めてくれる。その暖かさを観客は求めていたのではないか。
本当の人生の価値
「リトル・ミス・サンシャイン」とはフーヴァー家が目指す旅の目的地、オリーブが出場するミスコンのタイトルだが、マイケル・アーントは「もっとも愚かで無意味な競争をする人々」の典型としてミスコンを設定した。
クライマックス、フーヴァー家はギリギリでミスコン会場へ到着するが、受付時間には4分過ぎていた。なんとか主催者に頼み込み参加させてもらうことになったが、グレッグは参加者の審査を見てそのレベルの高さに衝撃を受ける。「何がなんでも勝たねばならない! 」と常々語っていたグレッグだったが、勝負とはなんと熾烈で残酷なものか。負け犬になったことの気持ちは痛いほどわかる。オリーブにはそんな思いはさせたくない。グレッグはシェリルに「(オリーブをコンテストに)出すのはよせ」と伝える。兄のドウェインもグレッグに加勢する。「妹がくだらないミスコンで点数を付けられるのは許せない」
しかしオリーブは勇気を出してコンテストに臨む。
オリーブは祖父のエドウィンと練習したダンスを披露するが、なんとエドウィンがオリーブに教え込んだダンスはストリップダンスであった。観客の中には露骨に不快感を示し席を立つ者もあらわれる。主催者もオリーブの審査の中止を命じる。グレッグは「娘に躍らせろ!」とステージに乱入し、オリーブとともに踊り出す。フランク、ドウェイン、シェリルも次々にステージに加わりオリーブとともにダンスをする。
バラバラだったフーヴァー家はステージの上で一つになる。
『リトル・ミス・サンシャイン』は世間的な勝敗や価値観からとことん逸脱していく。本当の人生の価値は誰かの基準で決められるものではない。そのメッセージがこの作品からは強く発せられている。
『リトル・ミス・サンシャイン』のエンディングはこうだ。
ミスコン主催者の女性の運転する車が駐車場のゲートから中々出られずにもたついているその横を、ゲートを壊してフーヴァー家の黄色いVWバスが軽やかに通り抜けていく。
私たちの人生は誰かが作った価値観に縛られる必要はないのだ。