
『ダーティハリー』の記事を書いてる時に、面白い言葉を見つけた。
なんでも「ダーティハリー症候群」というものがあるらしい。
ダーティハリー症候群
ダーティハリー症候群とは、警察官など、法の執行者が陥るとされる精神状態の俗称で、別名ワイアット・アープ症候群とも呼ばれる。
簡単に言えば、「正義のためなら悪党は撃ち殺していい」という考えに取り憑かれてしまうことだ。
この名前の由来は『ダーティハリー』におけるハリー・キャラハンというキャラクターに対するイメージから生まれた。ハリー・キャラハンと言えば、44マグナムで犯人を銃撃するアウトロー刑事なのはそうなのだが、一般的には法を逸脱しても自分の正義を貫き、犯人を追い詰めるという間違ったイメージがあるようなのだ。
『ダーティハリー』を観ればわかるが、ハリーはそうではない。法の前に正義が貫けず、加害者に有利な状況になってしまうことに誰よりも忸怩たる思いを抱えている男だ。だからこそ、ハリーはラストシーンで犯人を射殺し、警察バッジを捨てる。なぜ警官バッジを捨てたのか。法や規則が立ちふさがり、正義を貫くことのできない警察という組織への絶望にも思える一方で、相手を挑発し、わざと射殺もやむなしという状況を作り上げた、ある意味では警官とあるまじき行為への責任を取ったのかとも考えられる。
『ダーティハリー』では、ミランダ警告が加害者を利するものとして登場する。本来ミランダ警告は被疑者の正当な権利を守るものでもあるのだが、監督のドン・シーゲルは『ダーティハリー』を都会の西部劇として完全なる勧善懲悪の物語として仕上げた。西部劇にミランダ警告は邪魔ということなのだろう。
まぁ『ダーティハリー』を概要とダイジェスト、もしくは予告編程度でしか観ていないのであれば、上記のようなイメージの誤解が生まれるのもわかる。
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さて、今回紹介する『ダーティハリー2』では、その「ダーティハリー症候群」がテーマとなる。
『ダーティハリー2』
後年クリント・イーストウッドはインタビューの中で『ダーティハリー』はシリーズ化する予定ではなかったと述べている。
『ダーティハリー』の公開が1971年、『ダーティハリー2』の公開が1973年であることから、『ダーティハリー2』は『ダーティハリー』のヒットを受けて急遽作られた続編だと言える。
だからだろう、『ダーティハリー2』は前作のラストシーンから半ば強引に変更したとしか思えない設定が鼻につく。
例えば、前作のラストシーンでハリーは警察バッジを捨てたはずなのだが、本作では何もなかったかのように警察官として勤務を続けている(さすがに殺人課のままというわけではないが)。そして最大の違いはアウトロー刑事であったはずのハリー・キャラハンが、今作では法を遵守する姿勢を全面に押し出していることだ。
前作は「悪を以て悪を制す」という図式も成り立つ作品だった。厳格な手続きを踏むことで、逆に犯人を野放しにしてしまう矛盾を描いていた。
だが、今作はそのような苦悩は描かれない。ハリーは全くの善の存在となり、犯人に立ち向かう。
フィールグッド・ムービー
『ダーティハリー』の解説の中で、私は『ダーティハリー』という映画はアメリカン・ニューシネマの一つに数えられるのではないかと書いた。スコルピオに惨殺された少女の全裸死体、決してハッピーエンドとは言えない結末、現実社会を色濃く反映したストーリー、そのどれもがアメリカン・ニューシネマの特徴に合致していたからだ。
アメリカン・ニューシネマはそれまでのハッピーエンドが主流のハリウッド映画への反発だった。ベトナム戦争での政府の嘘や反戦デモを反映したような、体制やモラルに反対し、自由を求める若者たちとその挫折を描いた作品が多かった。
だが、アメリカン・ニューシネマは1970年代後半になると下火になり、代わりに観終わった後に幸せな気持ちにさせてくれる映画、いわゆる「フィールグッド・ムービー」がハリウッドの主流になった。
フィールグッド・ムービーには『スター・ウォーズ』などが挙げられるが、アメリカン・ニューシネマからフィールグッド・ムービーへの大きな転換点となった作品が1976年に公開された『ロッキー』だった。
『ロッキー』がアメリカン・ニューシネマを終わらせたー。 ボクシング映画の金字塔であり、シルヴェスター・スタローンを一躍スターダムに押し上げた『ロッキー』は多くのメディアからそう評されてきた。 アメリカン・ニューシネマ アメ[…]
だが、『ダーティハリー』と『ダーティハリー2』のこの変わりようを見ると、『ダーティハリー2』は『ロッキー』に先駆けたフィールグッド・ムービーなのではないかとすら思えてくる。実際、『ダーティハリー』は、ベトナム帰還兵を描いた映画としては確かに先駆的な作品ではあった。だからというわけではないが、『ダーティハリー2』に同じような先駆性があると考えてもいいはずだ。それにしても、なぜこれほど変わってしまったのか?
なぜ『ダーティハリー2』は変わったのか?
そう言えば最近、同じような感覚を抱いた映画があった。
『ジョーカー』とその続編である『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』だ。『ジョーカー』は売れない中年芸人のアーサー・フレックを主人公とし、彼の悲惨な境遇と暮らしぶりがこれでもかと写し出される。『ジョーカー』は現代のアメリカン・ニューシネマと形容されるほど陰鬱な内容が続くが、クライマックスでは一気にそれが反転する。アーサーは負のカリスマ「ジョーカー」として一躍民衆の英雄になるのだ。
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だが、『ジョーカー』の危険なカタルシスは現実社会にまで影響を及ぼしてしまった。
安倍元首相を銃撃した山上徹也は「ジョーカーを本当に理解できるのは自分だ」とツイートした政治家が肩入れしていた統一教会という宗教に人生をめちゃくちゃにされた。それは都市機能がままならなくなったゴッサムという社会の被害者として描かれたアーサー・フレックの境遇と重なる部分がある。
日本では年に事件が発生(この犯人は『ジョーカー』だけでなく、『ダークナイト』、『スーサイド・スクアッド』のジョーカーにも影響を受けている)。
その続編となる『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は前作の『ジョーカー』を否定する作品だった。
再びアーサーはジョーカーとして覚醒するが、そんな彼の目に映るのは、本当に信奉されていたのは自分自身ではなく「ジョーカー」という偶像だったこと、そして、自分がジョーカーとして振る舞ったことが友人の受刑者の命を奪うことにつながったこと。結局は誰もジョーカーという偶像に熱狂しているだけであり、誰もが自分に都合のいいイメージをジョーカーに投影していたに過ぎない。
「みんなが望む僕にはなれない」自身の裁判で、アーサーははっきりとそう口にする。
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トッド・フィリップスが前作『ジョーカー』で訴えたかったのは思いやりだった。隣人を助け合う思いやりの心が失われると、アーサーのような心優しい男でも容易くジョーカーに変貌すると伝えたかった。
だが、観客はアーサーを隣人ではなく自分自身だと思ってしまった。それほどまでにアーサーの抱える痛みはリアルで強烈だった。そして何人かは超えてはならないラインを超え、犯罪や殺人を引き起こした。
それはトッド・フィリップスのメッセージとは正反対だ。だからこそ、観客の中の「ジョーカー予備軍」に伝える必要があった。「ジョーカーはどこにもいない」と。
その極めつけはアーサー・フレック自身でさえ、ジョーカーではないとはっきりとセリフで表したことだろう。
同様に『ダーティハリー』も誤解されやすい映画だ。『ダーティハリー』に感化された事件が実際に起きたかは分からないが、それでも「ダーティハリー症候群」の由来にもあったように、解釈によっては正義のためなら法すら犯してもいいという考えを増強する作品であることは間違いないだろう。
だからこそ、続編で『ダーティハリー』を否定せねばならなかったのではないか?
『ダーティハリー2』のハリー・キャラハンを観ると、どうしてもそう思えて仕方ないのである。