『サブスタンス』モンストロ・エリザスーはなぜ平穏を得ることができたのか?

※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


『ジョーカー』以来の衝撃

久しぶりに凄いものを観てしまった。『サブスタンス』の衝撃が頭から離れずに困っている。つい3日前に観たばかりだ(これを書いているのは2025年5月28日)。話が凄いとは聞いていたものの、まさかああなってしまうとは!
これほどの衝撃は『ジョーカー』以来だ。まぁ『ジョーカー』同様に、そこには過去の名作映画へのオマージュも見え隠れしてしまうのだが(このあたりについては『サブスタンス』の解説で言及しているので見てみてほしい)。

『サブスタンス』

『サブスタンス』はコラリー・ファルジャ監督、デミ・ムーア、マーガレット・クアリー主演のボディ・ホラー映画。
美しさに取り憑かれた一人の女性の狂気と破滅を寓話的に描いている。還暦を迎えたデミ・ムーアだが、今作ではありのままの裸体をカメラの前に晒し、まさに体当たりの演技で美貌に固執し、狂気に陥っていくスターを演じている。
女優として長いキャリアを持ちながらも、これまで賞とは無縁だったデミ・ムーアだが、本作の演技は絶賛され、数多くの賞を受賞している。

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エリザベス・スパークル

デミ・ムーアが演じるのはハリウッド女優のエリザベス・スパークル。かつてハリウッドの人気女優だったエリザベスも今では人気も下がり、唯一のレギュラー番組は主婦向けのエアロビ番組のみ。
しかし、50歳となったエリザベスはプロデューサーのハーヴェイからあっけなく解雇を告げられる。
失意の中、エリザベスは運転中に事故まで起こしてしまい、絶望の底へ沈んでいく。病院で若い医師がエリザベスにそっと一つのUSBメモリを手渡す。そこには「SUBSTANCE」の文字が。サブスタンスとは、細胞を分裂させるように、もう一人のより若く、より美しい自分を誕生させ、一週間毎に若い自分と今の自分と交互に入れ替わることのできるという薬だった(ちなみに「SUBSTANCE」とは物質という意味だが、正しくは依存物質のようなニュアンスも含んでいる)。

一度はUSBをゴミ箱に捨ててしまったエリザベスだが、新聞で「次のエリザベス・スパークル募集」との見出しで18〜30歳までの条件で新しい女性が公募されていることを知り、サブスタンスの業者に連絡。サブスタンスを手に入れて、若く美しいもう一人の自分「スー」を誕生させる。
スーはエリザベスの後任に収まるとたちまち大ブレイク。かつての輝きを取り戻したスーはエリザベスの体に戻ることを拒みはじめ、サブスタンスの使用ルールである一週間ごとの母体との交替というルールを破り始める。

ここからは結末まで一気に伝えてしまうので、まだ観ていない人は引き返すことをお勧めする。

エリザベスはスーの交替が遅れた代償として、体の一部が老化していくという苦しみに見舞われる。そして、スーへの嫉妬と自分への自己嫌悪で過食に走るのだった。

スー

一方のスーは、エリザベスの自己嫌悪と、過食を嫌い、交替のルールを破って3か月もの間スーでい続ける。だが、大事な大晦日の日の特番の司会という大役を控えたその日にスーは具体が急変。スーの容姿を保つには毎日、安定化のための液体を母体であるエリザベスの体から摂取せねばならないが、すでにその液体は枯渇してしまったのだった。復活させるにはエリザベスの体に入れ替わるしかないが、エリザベスはまるでゴラムのような年老いた老婆の姿に変貌していた。絶望したエリザベスはサブスタンスの中止を業者に連絡する。そして、スーの肉体に抹殺用の液体を注入していくが、エリザベスはスーの姿を眺めているうちに、入れ替わりの欲求を抑えられなくなり、注入を中止し、再度入れ替わりを試すことに。
しかし、万全の状態ではない入れ替わりは失敗し、スーにはスーの人格が、エリザベスにはエリザベスの人格が残ったままになってしまった。スーはエリザベスが自分を殺そうとしていたことを知り激昂、逆にエリザベスを殺してしまう。

モンストロ・エリザスー

大晦日の特番のためにテレビ局へ向かうスーだが、エリザベスを殺したことでスー自身も歯が取れ、爪が剥がれ、耳が落ちるなどその容姿を保てなくなってしまっていた。
錯乱したスーは自宅へ戻り、一度きりというルールを破って、サブスタンスで再度分裂を試みる。しかし、生まれたのは体中にいくつものエリザベスの顔と臓器がはりついた奇形の怪物だった。
その怪物「モンストロ・エリザスー」は何事もないかのようにまばらに生えた髪にアイロンをかけ、ピアスを着け、ドレスを着て再びテレビ局へ向かう。スーの登場を心待ちにしている多くの人が見守る中スポットライトを浴びて登場したのは奇形の怪物だった。エリザスーはマイクに向かって「私よ」と言うが、明瞭な発音さえ失われたその声を誰ももはや人間だともまして、スーだとも思わないのだった。
観客やスタッフはステージの上でなお分裂を続ける怪物の姿に戦慄する。やがて誰ともなしに「殺せ!」の声が響き渡り、スタッフの一人がエリザスーの首を刎ねる。
しかし、エリザスーは再生し、取れた腕から鮮血を噴射させ、会場を血の海に染める。

家路に就くエリザスーだが、まだ分裂しようとする細胞に体がついていけず、ついに体は四散し、肉片が飛び散る。
顔だけになったエリザベスは自身の名が刻まれたウォーク・オブ・フェイムにたどり着き、皆からの賞賛の幻想の中で、朽ち果てていく。
翌朝、何もなかったように床洗浄機がエリザベスの血痕を拭い消していく。

モンストロ・エリザスーはなぜ平穏を得ることができたのか?

以上が『サブスタンス』のざっくりとしたあらすじだ。
今作はアカデミー賞のメイクアップ部門を受賞している。特殊メイクを担当したピエール=オリヴィエ・ペルサはエリザスーになってから、エリザベスは最も心の平穏を手に入れているのではと述べている。

「彼女はこの時が一番ハッピーだったんじゃないかな」

え、あんなに美に執着してきたのに、怪物の時が最も幸せだなんて!その解釈には驚いたが、実は監督のコラリー・ファルジャも、同じ考えなのだ。
なぜモンストロ・エリザベスーは心の平穏を手に入れることができたのだろうか?
『サブスタンス』はルッキズム・ホラーと形容されることもあるように、「外見の美」に執着し、破滅していく女性を描いた物語でもある。
当初はスーとして美しく若返り、満たされていたエリザベスだが、やがてスーとは対照的に誰からも必要とされていない孤独感とスーへの嫉妬に苛まれるようになる。もちろん、スー自身も自分の価値は美しさであるとわかっているために、なんとしてでも今の美しさを保つことに躍起になっていく。
特に作品の後半はそうだ。美を求めるがゆえに憎しみと絶望が渦巻いていき、殺し合いにも発展していく。

美しさという呪縛

私はそんな二人だから、再度分裂して自分がモンスターになっていた時はさぞ絶望的な声で慟哭するのだろうと想像していた。
だが、エリザスーは平然と自分の肉体を見つめる。そして何事もなかったかのように着飾ってテレビ局へ戻るのだ。
最初はエリザスーは人間としての意思も消えかけているのだろうと思っていた。
『バイオハザード』のゾンビが最も原始的な本能である「食べること」のみを残していたように、エリザスーも「美しさ」を求めるだけの怪物になってしまったのだと思っていたのだ。
だが、先に述べたようにエリザベスーには明確な自意識があり、思考能力もある。外見は怪物に成り果てても、心は人間なのだ。
実は、この怪物の容姿こそがポイントだ。人間の時、エリザベスもスーも美しさという呪縛に囚われていた。それは人間の世界の中で美しさやセクシーさが特別な意味を持つからだ。だが、エリザスーは唯一の怪物であり、他に比べる対象が存在しない。
監督のコラリー・ファルジャはこう述べている。

「最終変身で主人公が得たのは究極的な解放。皮肉にも、怪物になったことで容姿を気にしなくなる。鏡を見て「悪くない」と思えたのはあの瞬間だけ。
だから、ついに思える。『どんな姿でも堂々外へ出られるんだ。』
私たちはみんな作り笑顔の裏に本心を隠して生きてるけれど、そうした奥底の不安を爆発させるのがこのキャラクター。社会の化身である劇中の観客は、そんな彼女を見て叫び声をあげて嫌悪する。その反応がどれほど暴力的かを描きたかった。
結局、彼女が真に解放されたのは、もはや身体を持たない状態でのこと。それがすべてを物語っているでしょう」

ルッキズムを塗り潰す武器

このテレビ出演のシーンは映画の中でもとりわけ非現実さが漂う。まずあんな怪物が無事にテレビ局までたどりつけるはずがないし、ましてや舞台に上がるなど不可能だろう。
だが、エリザスーは舞台に上がらねばならない。それは彼女は「自由な存在」だからだ。ルッキズムの呪縛から最も遠い場所にいる存在だからだ。その意味では、確かにエリザスーはスポットライトを浴びて然るべき存在なのだが。
私はコラリー・ファルジャがモンストロ・エリザスーをここまでグロテスクな怪物にしたのは、エリザスーがルッキズムから解放されていると同時に、社会の中では最もルッキズムの影響を受けやすい存在でもあるからだと思う。
劇中でも彼女を醜い怪物だと見るや、すぐに「殺せ!」と言い始める男たちが可笑しい。
一体エリザスーが何をしたというのか。コラリーのこの演出は意図的だ。自分らしい自分でいることは社会の中で認められないのか。醜いことは死に値する罪なのか。いきなり「殺せ!」と言い出すのは現実的には極端すぎて不自然だが、美しさを過度に称賛する社会を先導して作り上げていったのは男性の方ではないのか。「殺せ」の言葉にはルッキズムにおける男性側の醜悪さが集約されているように思えてならない。

そして、腕が取れたエリザスーは会場を血飛沫で染め上げる。ここはブライアン・デ・パルマ監督の『キャリー』へのオマージュが濃厚だ。『キャリー』では、主人公のキャリーがプロム会場で頭から豚の血を浴びせらる。キャリーは戸惑いと怒りで秘めた超能力を爆発させ、会場にいた全員を殺していく。

エリザスーから飛び出る血飛沫には2万リットルもの血糊が使われたという。誰も彼も紅く染まって、もはや美しいも何もありはしない。
この場面で本当に描かれているのはエリザスーではなく、コラリー・ファルジャ自身の怒りだろう。エリザスーの血はルッキズムを塗り潰す武器だったのだ。
ファルジャの前作『REVENGE リベンジ』も男性に襲われ、殺されかけた女性の復讐を描く、レイプ・リベンジ・ムービーだった。
女性を取り巻く様々な制圧や呪縛にファルジャは疑問符を投げかけてきた。『サブスタンス』を撮った理由を彼女はこう述べている。

「『サブスタンス』を撮ったのは子どもの頃から感じてきたことを伝えたかったから。社会がいかにして強力な支配のツールを作り出し、どんな姿をしていようと不幸だと感じてしまうような牢獄に女性を閉じ込めてきたのかを伝えたかった」

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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