
※以下の考察・解説には映画の結末のネタバレが含まれています
今では信じられないが、戦前は「西部劇なら必ず当たる」と言われ、年間100本以上の西部劇映画が製作されていたそうだ。その多くが単純な勧善懲悪もので、アメリカの自尊心を高め、我こそが正義と思わせるには十分だっただろう。
西部劇の正義の味方と言えば保安官だ。危険と正義を手に日々悪漢たちに立ち向かって行く。
おそらくはベルもそうした西部劇を観ていたのではないか。
ベルはテキサスの田舎町で暮らす引退間際の保安官だ。彼の父や叔父も保安官であり、ベル自身も保安官であることに誇りを持っていた。
『ノーカントリー』は、そんなベルが「最近の犯罪は理解できない」とつぶやくモノローグから始まる。
『ノーカントリー』
『ノーカントリー』は2007年に公開されたコーエン兄弟の監督・脚本による、ジョシュ・ブローリン、ハビエル・バルデム主演のスリラー映画だ。
原作はコーマック・マッカーシーの『ノーカントリー・フォー・オールドメン』(映画の原題も同じで、『ノーカントリー』は邦題。そもそも『ノーカントリー』だけでは意味が通じない)。
作品の舞台は、1980年のテキサス州のメキシコと隣り合う、とある田舎町。ここで起きた麻薬取引の失敗が全ての始まりとなる。
コーエン兄弟は1980年あたりの国境沿いのテキサスの町は物騒だったと語っている。
1960年代に流行したヒッピー文化はそれ無しには語れないほどドラッグと強い結びつきを持っていた。
アメリカのドラッグ規制
そんなドラッグの供給源として大きな位置を占めたのがメキシコだ。当時のアメリカ大統領リチャード・ニクソンはそんなドラッグの流通の増加に歯止めをかけるため、1970年に規制物質法を策定、特定の薬物の製造、輸入、所有、流通を禁止した。そして、3年後の1973年に麻薬取締局 (DEA)の設立を果たしている。
しかし、1981年にロナルド・レーガンが大統領に就任するまで、麻薬の取り締まりには予算も人員も常に不足している状態だった。
それはそうだろう。ニクソンは麻薬取締局を設立した1年後にウォーターゲート事件で失脚。任期途中で大統領職を辞任する前代未聞の事態となった。その次に大統領に就任したのは民主党のジミー・カーターであったが(フォードはニクソン辞任に対する昇格で大統領となった)、カーターは麻薬取り締まりについて「薬物所持に対する罰則は、薬物の使用そのものよりも個人に大きなダメージを与えるものであってはならない」と穏健な姿勢を見せた(カーターの時代に一気に大麻合法化論が噴出したのもうなずける)。
カーターから政権を奪ったレーガンはニクソンと同じ共和党の政治家であり、カーターとは一転して麻薬にも強い態度で臨んだ。もともとレーガンは保守派かつタカ派の人間である。ホワイトハウスで『9時から5時まで』を鑑賞し、主人公の女性3人がマリファナを吸うシーンに苦言を呈した(「酒ならまだよかったんだが」とつぶやいたという)というエピソードもあり、後に妻のナンシー・レーガンは「ただノーと言おう(Just Say No)」を合言葉に麻薬撲滅運動を展開していく。
『ノーカントリー』をアメリカの歴史と照らしてみると、作品の時代設定はカーター政権下であり、コーエン兄弟の言うように、「物騒な」時代だったのだろう。
変わりゆくアメリカ
1981年にロナルド・レーガンは「再びアメリカを偉大に!」のキャッチコピーで選挙戦を制して大統領に就任する。
レーガンが元俳優の経歴をもつ「銀幕から生まれた大統領」なのは今更説明するまでもないだろう。レーガンは『決闘の町』『カンサス騎兵隊』『バファロウ平原』などの西部劇にも出演していた。
アメリカの黄金期
レーガンのいう「アメリカが偉大だった時代」とは1950年代のことだ。
実際に1950年代は「パクス・アメリカーナ」とも呼ばれるアメリカの黄金期でもあった。
好景気もあり、労働者の収入は増え、政府からの低利の融資もあり、彼らの多くは郊外に家を持つようになった。生活水準は向上し、1950年代を通して一人当たりのGDPはアメリカがトップだった。
だが、それも白人に限った話で、黒人をはじめとする有色人種にとってはまだ差別が色濃く残っていた。キング牧師やマルコムXの登場は1960年代まで待たねばならない。
今でも1950年代を指して「アメリカの黄金期」と評する識者も多いが、そこにはあらゆる痛みが覆い隠されていたとも言えるだろう。その黄金期は1960年代にカウンターカルチャーによって崩壊するが、すでにハリウッドはその空気を敏感に感じていたのではないかと思う。
1950年代に西部劇は最盛期を迎えた。しかし、その内容はかつての勧善懲悪なものではなく、孤独で、悩み、苦悩する主人公を描いたものが多かった。それは徐々に変容していくアメリカを映し出したものとも言える。そして1960年代には西部劇は完全に下火に陥る。ベトナム戦争や人種差別など解決すべき問題は、はるか過去ではなく、今この瞬間にあることに誰もが気づいたからだ。
1950年代における西部劇の盛り上がりは、ロウソクが燃え尽きる前の最後の輝きであったとも言えるだろう。
ベトナム帰還兵
『ノーカントリー』の主人公であるルウェリン・モスもベトナム戦争の帰還兵という設定だ。
先ほど述べたように1950年代の幸福を打ち壊したのは間違いなくベトナム戦争だった。
ベトナム戦争がベトナムを舞台にしたソ連との代理戦争であったことは言うまでもない。若者たちは「共産主義からベトナム救う」という使命感に溢れてベトナムへ向かう。
しかし、戦場は地獄だった。ジャングルの中、ゲリラ戦を強いてくるベトコンたち。もはや誰が民間人で誰が戦闘員かもわからない。兵士たちは民間人をも虐殺し、その様子はアメリカのテレビで放送された。ベトナム戦争は泥沼化し、戦争の真実を知ったアメリカ国民の間で反戦運動が広がっていく。
命をかけて戦ったはずのベトナム帰還兵は人々から冷たい目で見られ、最低時給の仕事しか見つからない。
1982年に公開された『ランボー』や1990年に公開された『7月4日に生まれて』ではそんなベトナム帰還兵の哀しみが映し出される。
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同様にベトナム帰還兵であるモスもまた貧しい暮らしを送っている。
序盤はモスが狩猟をしている場面から始まるが、ギャングたちの麻薬取引現場から大金を盗んだことで、ギャングや殺し屋に追われることになる。
同じベトナム帰還兵でも、ランボーがアメリカのヒーローらしく警察や保安官を返り討ちにしていくのに対して、モスはひたすら逃げ続ける。ヒーローでも、アンチヒーローでもない。アメリカの理想とは程遠い人物なのだ。
当初は獲物を狩る立場だった男が、一瞬で狩られる側へ回っていく。
アントン・シガー
マッカーシーが脚本を書いた『悪の法則』もそうだ。主人公の弁護士(作品内では一貫してカウンセラーと呼ばれる)が、一度きり麻薬取引に手を出す。しかし、そこは法の及ばない弱肉強食の世界でもあった。カウンセラーもまた一瞬にして狩られる側へと追いやられていく。
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コーマック・マッカーシーの小説はこのように暴力的かつ、厳しいせめぎ合いの世界を描いた作品が多い。
マッカーシー自身、エリートである父親への反発から、反エリート主義として育っていく。社会的なステータスよりも、むしろアウトローな人間たちに惹かれ、マッカーシー自身も定職を持たず、貧しさの中で小説を書き上げていった。その中で社会的な倫理や知性の外にある暴力に惹かれたのは納得がいく。
『ノーカントリー』でその象徴と言えるのが、殺し屋のアントン・シガーだ。
シガーは素性も目的も不明の殺し屋として登場する。モスが盗んだ金には興味がなく、雇い主との契約のためかと思えば、雇い主を殺してしまったりもする。
『ダークナイト』のジョーカー
同じ様なキャラクターとして挙げられるのが『ダークナイト』でヒース・レジャーの演じたジョーカーが挙げられる。
アメリカの変化という意味でも、ほぼ同時期に公開された『ダークナイト』と本作を比較する論調もある。どちらも9.11以降のアメリカの姿が作品に反映されている。
『ダークナイト』では、アメリカの正義こそが悪を生み出しているということ。イラク戦争はその好例だろう。アメリカの仕掛けた戦争は、イラクを民主化するどころか、むしろ混沌とさせてしまい、イスラム国のような強固な反米組織の台頭にまで至らせている。
『ノーカントリー』もそうだ。個人的にはアントン・シガーはテロリストではなく、今のアメリカのメタファーだと思う。
アントン・シガーとツーフェイス
『ノーカントリー』と『ダークナイト』を比較するのであれば、私としてはアントン・シガーとツーフェイスを比べてみたい。
両者にはどちらもコイントスで相手の生死を決めるという慣習がある。
ツーフェイスは元々ハービー・デントという新進気鋭の検事であったが、ジョーカーによって罠にはめられ、大切な人を失ってしまう。
彼がそれまで持っていた正義が勝つという信念は脆くも崩れ去る。正義を尽くしても救えないものがある、正義は公平ではなかったのだ。では何が公平なのか?ハービーは「運」しかないと気づく。そしてジョーカーの手引きによって彼はツーフェイスとなり、恋人の死に関わった人々の前に現れ、コイントスでその生死を決めるようになる。
まだツーフェイスがそうなる前のハービー・デントだった頃の姿は保安官のベルにも通じる。法の番人であり、あらゆる犯罪は法の枠内で適切に処理でき、また悪人を罰することも法によって可能だと信じている。
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だが、ベルはシガーが潜むドアを開けようとしたときにためらいを見せる。
モスを追っていた殺人者は果たして自分の手に負えるのだろうか?いや、理解できるのだろうか?
自分の限界を悟ったベルはついに引退を決意する。もはや、この世界に居場所はないと悟ったからだ。
タイトルの意味
さて本作の原題である『No Country for Old Men』はアイルランドの詩人ウィリアム・バトラー・イェイツが1926年に発表した『ビザンティウムへの船出』からの引用だ。
『ビザンティウムの船出』は4章から成る詩だが、その第一章を紹介しよう。
That is no country for old men. The young
In one another’s arms, birds in the trees,
- Those dying generations - at their song,
The salmon-falls the mackerel-crowded seas,
Fish, flesh, or fowl, commend all summer long
Whatever is begotten, born, and dies.
Caught in that sensual music all neglect
Monuments of unageing intellect.
そこは老人の住む国ではない。若者たちは
互いに抱き合い、木々には鳥が集まり、
死にゆく世代は歌を歌い、
鮭が流れ込み、サバが群がる海に、
魚も肉も鳥も、夏の間ずっと
生まれ、生まれ、そして死ぬものすべてを称える。
その官能的な音楽に囚われて、
不老不死の知性の記念碑となる。
イェルツは前年の1925年に妻とともにイタリア旅行へ出かけ、シチリア島でビザンティウム芸術に触れている。その経験がいかに得難いものであったが伝わってくる。
この詩を書いたとき、イェルツは62歳。ここで書かれる「船出」は老いや死の象徴と言われている。
結末の意味
『ビザンティウムの船出』に呼応するように、映画はベルの見た夢の話で唐突に終わる。
「一つはあまり覚えていない。どこかの町で親父に金をもらい、それをなくした」
「もう一つは二人で昔に戻ったような夢で、俺は馬に乗り、夜中に山を越えていた
山道を通っていくんだが、寒くて地面には雪が積もっていて、親父は俺を追い抜き、何も言わず先に逝った。
体に毛布を巻き付けうなだれて進んでいく
親父は手に火を持っていた昔のように牛の角に火を入れていて、中の火が透けた角は月のような色だった
夢の中で俺は知ってた
『親父が先に行き、闇と寒さの中どこかで火を焚いていると
俺が行く先に親父がいる』と」
この2つの夢は何を意味するのだろうか。
映画『ノーカントリー』はベルの祖父も父も代々保安官であり、ベルも自身が保安官であることに誇りを持っていただろう。
「親父からもらった金を失くした」というのはこの誇りのことではないかと思う。
また、2番目の夢は、死についてだ。父親が先に向かった場所は冥府だろう。ベルは父親は今の自分の年齢より20歳若い時に死んだという。
「親父は俺を追い抜き」とはそういうことではないのか。
そして寒さに凍えるというのは今のベルの状況を指している。情熱を失くし、虚無が人生を覆いつつある。
しかし、それは誰にも責められることではない。マッカーシーは個人には抗しようのない運命の過酷さを描いた。
その厳しさを父も理解してくれる。だからこそ火をもってベルを待っているのだ。
ちなみに、原作だと父は保安官ではなくむしろアウトローに近かった。そのためにベルの父に対する感情も、父としては嫌いではないが、大人としてはろくでなしだったのではと思っている。
原作の『ノーカントリー・フォー・オールドメン』の訳者である黒原敏行氏はベルの夢についてベルは今回の事件を通して、この世界には善意や勇気や正義が通じないことがあることを思い知らされ、また父もそういったままならなさに愚弄された一人なのではないかと思い至り、父との絆を初めて実感したのではないかと考察されている。
共通するのは、現実の厳しさと、それをも許容するような人間の中にある神のような愛情だと思う。あなたはこの夢から何を読み取るだろうか。
作品情報
『ノーカントリー』公開年:2007年
上映時間:122分
スタッフ
監督ジョエル・コーエン
イーサン・コーエン
脚本
ジョエル・コーエン
イーサン・コーエン
原作
コーマック・マッカーシー
『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』
製作
スコット・ルーディン
ジョエル・コーエン
イーサン・コーエン
製作総指揮
ロバート・グラフ
マーク・ロイバル
キャスト
トミー・リー・ジョーンズハビエル・バルデム
ジョシュ・ブローリン
ウディ・ハレルソン
ケリー・マクドナルド
ギャレット・ディラハント