『侍タイムスリッパー』という映画を知っているだろうか?
最初は2024年の8月17日にわずか1館のみの映画館で公開された自主制作映画だが、その面白さが評判を呼び、9月13日からは全国の100を超えるスクリーンでの公開が実現している。
このヒットを「第二の『カメ止め』」だと評する声も多い。
『カメ止め』とは2018年に公開された上田慎一郎監督、濱津隆之主演のゾンビコメディ映画『カメラを止めるな!』だ。
こちらも最初に公開された時はの2館のみの公開であったが、予算わずか300万円という超低予算の映画ながら最終的には30億円を記録する大ヒットとなった、奇跡のような作品だ。
今回はこの『カメラを止めるな!』を紹介しよう。
『カメラを止めるな!』
血まみれの若い女性がゾンビに襲われる場面で作品は幕を開ける。
全体に暗く、粗く、ダークグリーンが良く効いた陰影のコントラスト強めな画は分かり易すぎるくらい、ケレン味たっぷりのホラー映画のそれだ。
映画を観ていると、これはゾンビ映画そのものではなく女性はドラマの主人公の女優であり、ここでゾンビものの撮影を行っているらしいことがわかる。女優の恋人で男性ゾンビの役の青年、メイクのスタッフらは、こだわりの強すぎる監督の要求に現場には殺伐とした空気が漂っている。
しかし、そこになぜか本物のゾンビと化したスタッフが襲いかかってくる。しかし、それでも監督の狂気は止まらず、本物のゾンビが登場するというまたとない機会に狂喜、「カメラを止めるな!」と繰り返し、撮影は続行される。
建物の外にはゾンビたちがうろつき回っている。助けを呼ぼうにもケータイの電波も入らない辺境の場所だ。しかし、ここに留まっても仕方がない。キャスト・メイク係のスタッフらは脱出を試みるが、メイク係はゾンビに噛まれた疑いのある女優を殺そうとし、恋人の男優はメイク係を殺して彼女を助けようとするが、自らがゾンビとなってしまう。女優はゾンビ化した男優を殺し、一向に撮影を止めない監督まで殺す。虚ろな表情で屋上に立つ女優の足元には、監督が書いた死者を蘇らせるマークが広がっていたのだった。
驚くことにこの一連の物語はすべてワンカットで構成されている。全くカット割りがないのだ。
それもそのはず、画面には『ONE CUT OF THE DEAD』と映し出される。そうこの本物のゾンビが登場というのも、全てはドラマの中の出来事だったのだ。
とはいえ、この作品はお世辞にも面白いとは言えない。意味のない会話や、女優の叫び声が無駄に長かったり、途中でカメラが落ちたかのようなアングルさえ登場する。勘のいい人ならば、その時点でこの物語が映画の文法に沿わない、映画内映画であることに気付いただろう。
「30分ワンカット、生放送のゾンビものドラマ」
次のシーンで、時系列は一ヶ月前に飛ぶ。映像監督の日暮隆之はプロデューサーの笹原から新しく立ち上げたゾンビ専門チャンネルのために「30分ワンカット、生放送のゾンビものドラマ」の企画を聞かされ、その監督を打診される。日暮は一旦は断るものの、メインキャストの一人が娘の好きな男性アイドルであったことから、この無理難題を引き受ける。
『カメラを止めるな!』について映画評論家の町山智浩氏は「三谷幸喜の真似をしたら、三谷幸喜よりも、面白くなった作品」と評した。ここでいう「三谷幸喜の真似」というのは1996年に公開された『ラヂオの時間』のことだろう。
『ラヂオの時間』もまた映画内映画の構造をとっている。
『ラヂオの時間』
平凡な主婦、鈴木みやこは書き上げた脚本『運命の女』がラヂオ弁天の脚本コンクールで優勝し、そのラジオドラマのリハーサルにスタジオを訪れてていた。
リハーサルは問題なく終わり、本番を待つのみとなったが、役者の一人、千本のっこが自身の役柄について「律子」という役名の変更を求める。のっこに頭が上がらないプロデューサーの牛島は彼女の役名を律子からメアリー・ジェーンに変更することを許してしまう。
そのわがままが発端となり、のっこをはじめとして、他の俳優たちのわがままやアドリブが連発。本番中にも関わらず、ドラマのシナリオは当初のものと大きくかけ離れたものへと変わっていく。
とうとう、みやこの書いたエンディングすら変更を余儀なくされる事態となり、みやこはクレジットから自身の名前を外して欲しいとスタジオに立てこもる。
ディレクターを務める工藤はみやこの気持ちを汲み、独断で当初のハッピーエンディングに戻そうとシナリオの変更を画策する。
『カメラを止めるな!』との共通点
確かに『カメラを止めるな!』の物語のプロットは『ラジオの時間』に酷使している。
『カメラを止めるな!』ではその後入念なリハーサルを重ね、本番のワンカットに挑むが、いざ本番と会う時にメイク役と監督役の出演者が事故に遭い、キャストの変更を余儀なくされる。また、録音マン役の俳優は本番中に体調不良になり、カメラマン役の俳優は本番直前に深酒してしまい、泥酔状態に陥る。他にもメイク係の役にハマりすぎてしまった日暮晴美が脚本を無視して暴走したり、クレーンの機材が倒壊して使えなくなったりとトラブルは頻発していく。
それでも日暮やスタッフたちはドラマを成立させるために全員で奮闘していく。
監督の上田慎一郎は『カメラを止めるな!』の構造は2014年に解散した劇団「PEACE」の公演『GHOST IN THE BOX!!』から着想を得たという。映画のシーンがすべてワンカットなのもまた舞台からの影響かもしれない。
『ラヂオの時間』の監督である三谷幸喜も元々舞台からキャリアを重ねてきた脚本家だ。そんな三谷幸喜が初めて連続ドラマの、脚本を務めることになったのが1991年のドラマ『振り返れば奴がいる』だ。
チャゲ&飛鳥の大ヒットシングル『YAH YAH YAH』でも知られる同作は三谷幸喜の意向とは逆に現場で脚本が書き換えられ、シリアス調の作品となってしまった。
その苦い経験を元に作られたのが舞台劇『ラジオの時間』であり、『ラヂオの時間』はその映画版に当たる。
さて、『カメラを止めるな!』と『ラヂオの時間』、町山氏が指摘するように確かに良く似た作品だが、決定的に違うものがある。
それは何か。「作品への情熱」だ。
『ラヂオの時間』では素敵なラブストーリーが現場のわがままや無関心によってなぜかバイオレンスものへと変貌していく。
逆に『カメラを止めるな!』では全員作品に対する愛情はあるものの、不可抗力のトラブルが次々に舞い降りるという構成だ。
上田慎一郎監督は映画作りにおいて重視しているものに「情熱」だと述べていた。
史上最低の映画監督
そういった意味では、個人的にはエド・ウッドとの共通点も思い浮かぶ。
エド・ウッドとは「史上最低の映画監督」という異名を持つ映画監督だ(上田監督もそうだというわけでは全く無いのでご安心ください)。エド・ウッドは壊滅的に映画作りの才能がなく、しかし映画作りへのあふれる情熱で製作された彼の作品は、独特のチープさと、矛盾だらけの設定、意味不明な演出でカルト的な人気を博している。
クエンティン・タランティーノ、サム・ライミ、ティム・バートンなどいずれも著名な多くの映画監督たちもエド・ウッドのファンを自認している。
なかでもティム・バートンはエド・ウッドの半生をジョニー・デップ主演で『エド・ウッド』として映画化した。
エド・ウッドも自身の映画の不振と酷評には傷つき、後半生には映画つくりへの情熱も薄れていったと言われるが、バートンの映画『エド・ウッド』ではウッドの前半生として彼自身が最高傑作と信じて疑わなかった『プラン9・フロム・アウタースペース』を完成させるところまでが映画化されており、喜劇的な印象が強くなっている。
『エド・ウッド』を観る度に思うのは、どんなダメでつまらなく思える映画にも、情熱と理想を持って取り組んだ人々がいるということだ。
それを知ったうえでエド・ウッドの作品を観ると、そのポンコツささえも美しく思えるのだ。
『カメラを止めるな!』で描かれていることも同じことではないのか?『ONE CUT OF THE DEAD』はチープでテンポも悪く、演出も意味不明なものが織り交ぜられたC級ドラマだが、その裏を知ると不思議と愛情が湧いてこないだろうか。
狂おしいほど愛される映画
『カメラを止めるな!』公式サイトにおいて。、水道橋博士は以下のようにコメントを残している。
過剰な映画愛溢れる本作は、日本発の低予算独立系カルト映画として狂おしいほど愛されるはず。
その表現への評判と評価は日本を飛び越え、世界で永久に止まらないだろう。
面白い脚本とアイデアは、予算も国境も飛び越えて、映画観客をダイレクトに直撃する。
この言葉はある種の予言となった。『カメラを止めるな!』はのちに『キャメラを止めるな!』としてフランスでリメイクされたのだ。
また冒頭で紹介した『侍タイムスリッパー』も『カメラを止めるな!』を目標としたという。
『カメラを止めるな!』はまさに「狂おしいほど愛される映画」となったのだ。