『罪人たち』ブルースと吸血鬼が描く黒人の歴史

黒人奴隷の歴史と文化

かつてアフリカから連れてこられた黒人たちは人間とは見なされなかった。確かに彼らは奴隷ではあったが、しかし奴隷という呼び方でもまだ生温いかもしない。アフリカでは黒人は動物のように狩られた。そして奴隷船でアメリカなどへ運ばれていくわけだが、貨物と同じで不必要であれば生きたまま海へと投棄された。
1997年に公開されたスティーヴン・スピルバーグ監督の『アミスタッド』では、その悲惨さがこれでもかと描かれている。劇中では、奴隷船で赤ん坊を抱いていた母親が突然海に身を投げる。これからの運命を悲観して自殺したのだ。

なぜこのような話から始めるかというと、今回紹介する映画『罪人たち』を理解するには、黒人奴隷の歴史を無視することはできないからだ。
アメリカに連れてこられた黒人たちは自らの文化を持つことすら禁止される。
当時、アメリカの南部ではすでに白人の人口より奴隷たちの人口の方が遥かに多かった。もし彼らが一致団結して反乱を起こしたら・・・それは奴隷主たちにとって大きな脅威でもあった(実際、初期の方には大規模な反乱運動も度々起きている)。
奴隷たちの団結を阻むために、奴隷主は徹底して文化を奪い去った。それでも彼らは自分たちの文化を必死で守り抜こうとした。作業の「音」を拍子を合わせたり、テンポを作ったりして音楽として用いた。そんな中から生まれた音楽がブルースだ。

『罪人たち』

ライアン・クーグラーにとって初のホラー映画となる『罪人たち』はそんなブルースが大きな意味を持っている。
主演はマイケル・B・ジョーダン。クーグラーの長編デビュー作である『フルートベール駅で』を始まりに、その後の『クリード チャンプを継ぐ男』、『ブラックパンサー』でも両者はコンビを組んでおり、今作が通算4作目となる。

1932年のミシシッピ

今作の舞台は1932年のミシシッピ州の片田舎。この頃、すでにリンカーンの手によって南部の奴隷制は法の上では解除されていたものの、「ジム・クロウ法」によって、実質的な差別は色濃く残っていた。ジム・クロウ法は、1876年から1964年にかけて存在した、アメリカ南部の人種差別的な内容を含む州法の総称で、主に黒人の公共施設の利用を禁止、制限する法律のことだ。
双子の兄弟であるスモークとスタックは地元で酒場をオープンしたいという野望を胸に、7年ぶりに故郷であるミシシッピ州の田舎町に帰ってくる。

 

© 2025 Warner Bros. Pictures.
シカゴから戻ったスモークとスタック。彼らはまさに成功した黒人のイメージ

兄弟は白人からと建物と土地を買い、そこを酒場に改装する。オープニングパーティーでは、酒とブルースを出し物に、従兄弟でギターの名手のサミーを中心に様々な人物に声をかけていく。
サミーは牧師の父を持ち、綿花畑で働いている。当時のミシシッピに住む黒人の過半数が土地を持たない小作人であり、彼らは奴隷制時代と同じように綿花畑で働く者も多く、そのほとんどが貧しい生活を送っていた。

大移住時代

一方で当時のミシシッピ州は大移住時代とも呼ばれ、数万人もの黒人がミシシッピを離れ、北部のセントルイス、シカゴ、デトロイト、フィラデルフィア、ニューヨークなど工業化された都市に移住した。南北戦争のときにリンカーンは北部の指導者であった。そのことから北部では早くから奴隷制は撤廃され、工業による発展を果たしていた。スモークとスタックもそうした思いを胸に北部で一番の都市、シカゴで長らく働いていたのだった。

アル・カポネ

さて、『罪人たち』の舞台は1932年だが、スモークとスタックはそれまで7年間シカゴにいて、なおかつその間アル・カポネの元で働いていたことが劇中で示唆されている。
アル・カポネは当時のシカゴを牛耳っていたマフィアのボスだ。名前だけは聞いたことがあるという人も多いだろう。ハリウッドでも『暗黒界の顔役』や『アンタッチャブル』なとアル・カポネをモデルにした名作映画も多く作られている。

禁酒法の時代

当時のアメリカは禁酒法時代の真っ只中。そんな中にあって密造酒の販売で莫大な利益を上げたのがアル・カポネだった。他にもカポネは売春業や賭博業などを組織ぐるみで行っていた。多くの抗争事件を起こしたことでも知られるカポネだが、一方では黒人差別などは行わなかったと言われている。
スタックとスモークの兄弟もカポネの元で様々なことを学んだであろうことが容易に想像がつく。酒場を作るというアイデアも「禁酒法時代には、人々の飲酒量は禁酒法以前より10%も増加した」というほどの飲酒の盛り上がりを考えれば、自然なことだ(恐らく酒が違法となったことで、酒税を払う義務も消滅したものと思う)。

なぜスモークとスタックは帰ってきたのか?

ではなぜ彼らは都会のシカゴからわざわざ故郷へ戻ってきたのか?
劇中では「シカゴもミシシッピも差別は変わらない」と述べてはいるものの、それだけだと7年間もシカゴで暮らすことはない。
映画では語られないが、実は1931年10月にアル・カポネは脱税容疑によって刑務所へ収監されてしまうのである。よく言われるのが「アル・カポネは娑婆と同じように刑務所の中も牛耳っていた」ということだが(実際、当時の新聞にはそう書かれたらしい)、本当のところは他の囚人から標的になり、罵倒されていたという(この頃からかねてから患っていた梅毒も悪化しはじめる)。
ここからは想像にはなるが、恐らく1932年のシカゴにおいてはアル・カポネの影響力はだいぶ弱まっていたはずだ。それと同時に兄弟への人種差別も露骨なものになってきていたのではないかと思う。兄弟は変貌していくシカゴに嫌気が差し、金を盗んで故郷へ戻ったのではないだろうか。

ブルースの始まり

今作でもう一人の主役と言えるのがサミーだ。先にも述べたように、サミーは従兄弟のスモークやスタックとは違い、まだ若くミシシッピで暮らしている。

 

© 2025 Warner Bros. Pictures.
どこまでも広がる広大な綿花畑。これがサミーの生きる現実だ

父が牧師であるために、サミーの愛するブルースは父の前では忌避すべきものであり、従兄弟のスモークとスタックからの演奏の誘いはサミーにとってまさに願っていたものだった。
実はブルースをはじめとしてゴスペル、カントリー、ジャズなど、あらゆる音楽がミシシッピ州のミュージシャンから生み出されたと言われている(実際に明確な発祥地や年代を特定することは不可能だろうが)。
ブルースのブルーは憂鬱だとか、憂いだとかそうした感情を意味している。私たちが「ブルーな気分」などと言うときのブルーだ。その発祥は19世紀の後半にアメリカの南部でゴスペルや労働歌などから、発展したと言われる。一応1903年がブルース誕生の年とはされてはいるのだが、実際にはその都市にW・C・ハンディが、ミシシッピ州タトワイラーで演奏されていたブルースを楽譜化し、ブルースの存在を世の中に知らしめたから、というだけでしかない。

監督のライアン・クーグラーは今作の製作はブルースを愛していた叔父の存在がきっかけだったという。

「生涯をかけて築き上げてきたジェームズ叔父との関係を掘り下げたんだ。ミシシッピの出身で、ブルースを聴いてオールドテイラー・ウイスキーを少し口にすると、彼は懐かしそうに“そのこと”を語っていた。彼を恋しく思っていた私は、映画を通して“アメリカ”を生き抜いた自分の先祖の歴史を掘り下げるチャンスを得たんだ」

ここで語られている「そのこと」とは、まさに今作で描かれた黒人の歴史そのものだ。

ヒップホップの祖先

個人的にはロックンロールやジャズは聴いても、ブルースはほぼ聴かないジャンルだ。『罪人たち』の時代にはスタンダードでも、令和の今の時代にはかなりのオールディーズだ。
監督のライアン・クーグラーにとっても、ブルースは「理解」が必要な音楽だったという、

「僕の人生で出会ってきた音楽すべてにおいて、ヒップホップだけは“自分のもの”として感じられる。僕にとっての母語なんだ。だからこそ、この映画を本当に自分のものとして作り上げるには、ブルースがヒップホップの祖先だということを、心から理解する必要があったんだ」

クーグラーは当時のブルースというジャンルは現代のギャングスタ・ラップのようなものだと述べている。

ギャングスタラップとは、一般的には「暴力的な日常をテーマにしたラップ・ミュージック」を指すが、言い換えれば黒人貧困層の直面する暴力や犯罪、貧困といった過酷な日々を歌ったものだ。それらは日ごろメディアでは取り上げられることのない、黒人たちの現実でもあった。
その生々しさ、リアルさ、ブルースも確かにそれらを備えている。

『奇妙な果実』

私も一曲だけ、いわゆるブルースで忘れられない曲がある。『奇妙な果実』という曲だ。

南部の木々は奇妙な果実を実らせる
葉にも根にも血
黒い体が南部のそよ風に揺れる
ポプラの木々にぶら下がる奇妙な果実

雄大な南部の田園風景
飛び出した目と歪んだ口
甘く爽やかなマグノリアの香り
そして突然、焼ける肉の匂い

カラスが摘み取る果実がある
雨が集まり、風が吸い込む果実
太陽が腐り、木が落ちる果実
奇妙で苦い果実

題名や歌詞の奇妙な果実とは、リンチによって虐殺され、木に吊りさげれた黒人の死体のことだ。
1930年8月ユダヤ人教師エイベル・ミーアポルは新聞で2人の黒人が吊るされて死んでいる写真に衝撃を受け、『苦い果実』という詩を書いた。ミーアボルは後にこの詩に曲をつけ、それを彼の妻が集会で歌うようになったことで徐々に世間に広まっていったそうだ。

この現実を生々しく描写するという意味では確かにギャングスタラップとも共通する。パーティーは始まり、サミーも観客の前で自分の生々しい音楽を叫ぶ。

「牧師なんかになりたくない、ブルースマンになりたい」

劇中でもキリスト教を「押し付けられた宗教」と呼ぶ描写がある。奴隷主の白人たちは奴隷の文化を禁じた一方でキリスト教は積極的に勧めていった。なぜか。キリスト教では自殺は悪だからだ。奴隷制が存在していた当時、黒人は魂を持たないから、殺しても無罪だとされていた。しかし、勝手に死なれても困るのだ。その生死含めて、奴隷主が支配できる存在、それが奴隷だった。

ワンドロップ・ルール

パーティーには町の様々な人々が訪れる。その中には双子の弟スタックの元恋人のメアリーもいた。スタックは黒人ばかりのパーティーの中にメアリーがいることに反対する。もし白人と黒人が一緒にパーティーしているところをKKKにでも見られたらタダでは済まされないだろう。

メアリーは一見白人ではあるもの、祖父の一人は黒人だった。この当時、一部の州にはワンドロップ・ルールというものが存在した。自分の曽祖父までさかのぼって、そこに一人でも黒人がいれば、黒人とみなされるというルールだ。
例えば、第3代アメリカ合衆国大統領トマス・ジェファーソンが所有する奴隷であったサリー・ヘミングスは、4分の1だけ黒人の血を引いていたという。彼女の外観はほとんど白人に近かったが、ワンドロップ・ルールでは彼女は黒人であり、奴隷だった。

 

© 2025 Warner Bros. Pictures.
ワンドロップ・ルールではこのメアリーも黒人。ちなみに演じるヘイリー・スタインフェルドはユダヤ系とフィリピン系の血を引く

ライアン・クーグラーの「吸血鬼」

サミーのブルースは時代や時空を超え、様々なミュージシャンを呼び寄せる。
その中にはターンテーブルやエレキギターを抱えたも者もいる。その様は幻想かつ華やかでもあるが、サミーの歌は邪悪なものまで引き寄せてしまう。

 

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時空を超えてさまざまなミュージシャンを呼び寄せるサミー。ちなみに横の男性の抱えるフライングVは意外なことにアルバート・キングなどのブルース・ミュージシャンにも愛された

ライアン・クーグラーは物心ついたときからホラーが大好きで、いつか自分でも取り組んでみたかったジャンルだと語る。
今回は取り上げたホラーキャラクターは吸血鬼だが、恐らくリチャード・マシスンの小説『地球最後の男』(ちなみに2007年に公開されたウィル・スミス主演の『アイ・アム・レジェンド』は『地球最後の男』の三度目の映画化作品である)やジョージ・A・ロメロの『ゾンビ』に大きな影響を受けている。

そもそもの大前提として、マシスンが書いた『地球最後の男』の吸血鬼像が今日のゾンビのイメージの大元になっている。ゾンビが自発的に人を襲い、襲われたものもまたゾンビになるという、今日のゾンビのイメージのマシスンが描く吸血鬼の設定をそのまま取り入れたものである。
『地球最後の男』では吸血鬼は伝説通り、ニンニクや太陽光を忌み嫌が、ゾンビと違って、生前の人間としての記憶や知性、言語によるコミュニケーション能力を有している。これは『罪人たち』の吸血鬼も同様だ。
また、主人公が店の中に立ちこもって、その周りを吸血鬼がうろつくという設定は、『ゾンビ』で主人公たちのいるショッピングモールの周辺をうろついていたゾンビを思わせる。
ホラー映画と言っても、『罪人たち』が描くそれはやけに古典的なのである。

 

© 2025 Warner Bros. Pictures.
従来の吸血鬼同様に彼らは太陽光にも弱く、日の出とともに燃えてしまう

それはなぜか。ライアン・クーグラーのインタビューからその答えを覗いてみよう。

「スティーヴン・スピルバーグ監督の『ジュラシック・パーク』はホラーに分類される作品ではねいけれども、観た人にどんなシーンを覚えているかと訊ねると、誰もがT-レックスに追いかけられるシーンやヴェロキラプトルが歯を使ってドアを開けるシーンを挙げるだろう。これらは恐ろしい瞬間であり、忘れられない瞬間だ。また、スタンリー・キューブリック監督の『シャイニング』やジョーダン・ピール監督の『ゲット・アウト』が、私にとってホラーと呼べる作品なんだ。

私の好きな映画監督たちは皆、観客の意識に消えることのない痕跡を残してくれた。多くの場合、そうしたものがある作品こそが、時代を超越する作品になる。物心ついた頃からホラーが大好きだった私は、いつか自分でそれを作ることが待ち遠しかった。好きだった映画を掘り下げ、分析し、いったいなにが私を惹きつけたのかを探っていく。そうしながら、自分の物語を語る方法を見出してきたんだ。

ホラーは一般大衆の心に響き続けるジャンルであり、同時に映画という偉大な芸術について触れる際にも話題に上がることがある。それは古き良き時代を感じさせてくれるものだから。きっと我々が焚き火を囲みながら最初に語った物語は、ホラーだったことだろう」

ライアン・クーグラーは『フルートベール駅で』で黒人が直面する「今」の生活を描いて見せた。そして『罪人たち』では、黒人の過去を描いた。

果たして今作のタイトルである「罪人たち」とは誰のことだろうか?

作品情報

『罪人たち』
公開年:2025年
上映時間:138分

スタッフ

監督
ライアン・クーグラー
脚本
ライアン・クーグラー
製作
ジンジ・クーグラー
セヴ・オハニアン
ライアン・クーグラー
製作総指揮
ルドウィグ・ゴランソン
ウィル・グリーンフィールド
レベッカ・チョー

キャスト

マイケル・B・ジョーダン
ヘイリー・スタインフェルド
マイルズ・ケイトン
ジャック・オコンネル
ウンミ・モサク
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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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