
「世界のクロサワ」その異名の通りに、黒澤明は世界の映画監督たちに影響を与え続けた。スティーヴン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカス、クリント・イーストウッドをはじめとして黒澤明を尊敬する映画人は数え切れない。
そんな黒澤明は1990年に今までの功績に対してアカデミー賞特別名誉賞が授与された。その後、『影武者』から黒澤映画に関わり続けている、親友の本多猪四郎にこんな言葉をかけたという。
「イノさん、イノさんは海外では俺より有名なんだよ」
これを読んでいる人の中で、黒澤明は知っていても、本多猪四郎は知らないという人もいるだろう。
本多猪四郎
本多猪四郎こそ、あの『ゴジラ』を撮った映画監督である。
『ゴジラ』のファンでもあったマーティン・スコセッシは黒澤明の『夢』に出演した際に、撮影スタジオで本多猪四郎を探し回ったというエピソードもある。
また、ギレルモ・デル・トロは怪獣映画の『パシフィック・リム』のラストに「この映画をモンスターマスター、レイ・ハリーハウゼンと本多猪四郎に捧ぐ」とメッセージを添えている。
だが
本多猪四郎=『ゴジラ』に代表される特撮映画の巨匠
この図式は本当に正しいのだろうか?
先日、ちょっと観たい映画があって、U-NEXTを「本多猪四郎」で検索してみた。結果は『ゴジラ』『キングコング対ゴジラゴジラ』『海底軍艦』『空の大怪獣ラドン』『サンダ対ガイラ』などなど見事に特撮映画ばかりであった。確かに本多猪四郎は特撮映画の巨匠だ。だが、それは本多猪四郎という映画監督の一面に過ぎないと思う。
私が観たいと探していた映画こそ、今回紹介する『太平洋の鷲』である(結局AmazonでDVD購入しました)。
『太平洋の鷲』
『太平洋の鷲』は1953年に公開された、本多猪四郎監督、大河内傳次郎主演の戦争映画だ。第26代連合艦隊司令長官である山本五十六の晩年を通して、日米開戦からミッドウェイ海戦、ガダルカナル島の戦いまでを描いている。
本作は戦後初めて戦争を本格的に取り上げた作品だと言われる(おそらく戦争シーンのことを指しているのだと思うが)。
また、後に多くの映画で取り上げられることになる山本五十六だが、彼を初めて取り上げた作品でもある。
本多猪四郎と円谷英二
そして、この『太平洋の鷲』は翌年の『ゴジラ』で、世界の映画史に金字塔を打ち立てる本多猪四郎と円谷英二が初めてタッグを組んだ作品だ。
『ゴジラ』の発想の大元はこのサイトでも触れているが、ハリウッド映画の『原子怪獣現る』、それに円谷英二が戦時中から構想していた、大ダコが登場する映画というアイデアから誕生しているのは有名な話だ。
だが、私は『ゴジラ』を今日に至るまで名作たらしめているのは怪獣映画だからではないと考えている。確かに怪獣映画としても世界レベルで革新的な作品ではあったのは確かだか、『ゴジラ』が反戦・反核という強いメッセージを持った作品だからこそ、名作の地位を確立しているのだと思う。
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『ゴジラ』という戦争映画
私自身『ゴジラ』については怪獣映画よりも戦争映画だと考えている。『ゴジラ』は日本が敗戦してから10年経たずして映画化された。
例えば2023年に公開された『ゴジラ -1.0』も同じく戦後を舞台にしたコジラ映画だが、『ゴジラ』には今のゴジラ映画ではどう再現しても太刀打ちできない、生々しい戦争の名残が刻まれている。
ゴジラは1954年の『ゴジラ』公開以来、怪獣の代名詞として世界中で愛される存在になった。 なぜこれほどまでにゴジラは人気が出たのか。いくつかの理由が考えられる。 なぜゴジラは人気が出たのか 一つは視覚的な斬新さ。「特撮の神様」[…]
そして「戦争映画」としての『ゴジラ』の原点は間違いなく『太平洋の鷲』だ。
何しろ、冒頭から「二度と同じ失敗を繰り返すまいとすれば、我々はその犯した誤りの実態を、冷静な眼で正しく見極めねばならない」との宣言が表示され、そこから本編に入っていくのだから。
監督の本多猪四郎は、第二次世界大戦中には三度徴兵されている。元々本多はその人柄の温厚さでも有名だが、派兵先の中国でも現地の人々と友好な関係を築き、終戦の際も「日本に戻らず、ここで暮らさないか」と声をかけられている。
互いの国同士は争っていても、人間と人間は分かり合うことができる。あくまで推測だが、本多は戦争の中で、そのように感じたのではないか。そして、日本への復員の際に目の当たりにしたヒロシマの惨状も本多の戦争観に大きな影響を与えたに違いない。
戦争の時代を生きた映画監督
本多の反戦という考えは実際に戦争を経験したからこそだ。その重みは今の戦争を知らない私たちの口にする「反戦平和」とは全く違う。
実は本多は『太平洋の鷲』以前にも戦争映画を監督しないかというオファーを受けていた。
それが戦没学生の遺構集である『きけ、わだつみの声』の映画化だった。しかし、本多はその打診を断っている。
「実際に戦争を経験したから、この映画は撮れない」
そう本多は述べたという。結局、この企画は1950年に『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』として関川秀雄監督の手で映画化されている。
しかし、本多は同じ戦争ものでも『太平洋の鷲』には興味を示した。そこで描かれているものは、『わだつみの声』のような一兵士の戦争ではなく、上層部の上層部、海軍トップの山本五十六の姿だった。本多は、山本五十六もまた日米開戦を避けねばならないと思っていたことに共感し、また、そんな山本がなぜに日米開戦当時の首相であった近衛文麿に「半年や一年は存分に暴れてごらんにいれる」と言ったのかについて疑問を抱いていた。
私自身、山本五十六については詳しい方ではない。なので、ここからは半藤一利氏の著書である『山本五十六』もサブテキストとして参照しながら進めていきたい。
ちなみに半藤一利氏の著書『日本のいちばん長い日』は 1965年に岡本喜八監督によって映画化されている。岡本喜八もまた、戦争の時代を生きた映画監督だ。
岡本喜八は明治大学を卒業後、1943年に東宝へ入社する。しかし時は戦時中。徴用によって喜八の東宝での仕事はわずか三ヶ月で中断し、中島飛行機武蔵野製作所で働くことになる。翌1944年には徴兵検査に合格し、幹部候補生として1945年に松戸工兵学校へ入学する。そしてその年の4月に豊橋予備士官学校で岡本喜八は敵の戦闘機の爆撃に遭う。岡本喜八の戦友たちは片手片足を失い、腹からはみ出た内臓を押し込もうとしている者、頸動脈から雨のように血を流しながら「止めてくれ!」と叫ぶ者など、まさに「泥絵の具の地獄図絵」だった。
岡本喜八自身は九死に一生を得たが、戦争が終わった後、町内の幼なじみは誰もいなくなっていたという。
戦争までのスパイラル
本作では従来のように、開戦の理由をアメリカからの無茶な要求に求めるのではなく、陸軍の強硬姿勢にあるとしている。作品を観ていればわかるが、日独伊三国同盟にも山本五十六は反対していた。もともと、日本が同盟関係を結んだら、逆に欧米を刺激することにつながるのではないかという考えがあったようだ。
だが、陸軍は強硬姿勢を取り続け、それに国民は熱狂する(ん?最近も似たようなものではないか?)、そしてさらに陸軍は暴走するという流れが起きており、山本五十六も次第にそのスパイラルに巻き込まれていったのではないかと思う。
半藤一利氏は山本五十六は日米開戦当時の首相であった近衛文麿に対して、戦争の現実を鑑みて「対米戦争はやれません。やれば亡国です」と言うべきであったと書いている。
それを何故言えなかったのか。
戦争前からアメリカは日本の仮想敵国だった。山本五十六は軍縮会議出席のためアメリカに滞在していた時、コーヒーに多量の砂糖を入れ「できるだけ(仮想敵である)アメリカの物資を使ってやるんだ」と冗談を飛ばしていたという。軍人としての山本五十六の中には、アメリカと一戦交えてみたいという誘惑もあっただろう。『太平洋の鷲』では、日米開戦のきっかけは陸軍の強硬姿勢にあるとしているが、実際にはハルノートに代表されるようなアメリカのあまりに一方的かつ、無茶な要求もあっただろう。行くも戻るも地獄である。つまり、日米開戦はアメリカによって仕組まれた、避けられない筋書きだったとも言えそうだ。
であれば、山本五十六としてはできるだけ有利な条件で早々に講和に持ち込みたかったはずだ。
「それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。」
この言葉の後には続きがある。
「然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極極力御努力願ひたい」
日米開戦当時、ある年齢以上の国民の中には、日本の日露戦争での勝利を覚えている人も多かったはずだ。実際には日露戦争は日本の辛勝であった、講和のタイミングが遅くなれば本格的な冬の季節になり、形勢も逆転した可能性も高い。
日米戦争も同じではないか。当時の日本とアメリカの国力差は国民総生産で11.8倍、粗鋼生産量で12.1倍である。
しかももすでにアメリカによって退路は断たれた状態である。加えて、メディアや国民は戦争を支持してもいる。であれば、日露戦争同様に、できるだけ有利な条件で講和に持ち込みたい。それが山本五十六の想いだったはずだ。