
「どんなに恐ろしい武器を使っても、どんなに可哀想なロボットを操っても、人間は土から離れては生きられないのよ!」
『天空の城ラピュタ』のクライマックス、なぜ高度な文明を持つラピュタ帝国が滅びたのか、シータは再びラピュタ王として世界を支配しようとするムスカにそう言い放つ。
久々に『ラピュタ』を観た時、「この時は宮崎駿もまだ手放しに自然を賛美していたのだな」とも感じた。
大地に生きることだけやっていたら、人間は人間にならない
『ラピュタ』の前作である『風の谷のナウシカ』では王蟲が自然を象徴する存在として描かれている。クライマックスの暴走する王蟲の群れは人間の勝手さに対する自然の怒りのメタファーだろう。
その後、たまたま押井守監督の『誰も語らなかったジブリを語ろう』という本を読んだのだが、その中で冒頭に挙げた『ラピュタ』のシータのセリフについて、「大地に生きることだけやっていたら、人間は人間にならない」との指摘が書かれてあった。
たしかにその通りだ。加えて、宮崎駿監督自身猛烈な飛行機マニアであり、作品のほとんどには空飛ぶ乗り物が出てくる。
『風の谷のナウシカ』のメーヴェ
『天空の城ラピュタ』のゴリアテ、タイガーモス、フラップター
『となりのトトロ』のコマ
『魔女の宅急便』の飛行船
『紅の豚』のサボイアS.21
『千と千尋の神隠し』は乗り物とは言えないが、ハクがその立ち位置にいる。
唯一出てこないのは『もののけ姫』くらいだと思うが、一方で『もののけ姫』は宮崎駿の「軍事マニア」としてのフェチを満たしているから、飛行機は不要だったのだろう(軍事、それも神と人間という圧倒的にスケールの大きな戦争である)。
『天空の城ラピュタ』
先にも述べたように、私は『ラピュタ』を観て、「手放しに自然を賛美している」と感じたが、「大地に生きることだけやっていたら、人間は人間にならない」という押井守の指摘を考えると、敢えてその矛盾から目を背けているのではないかと思ってしまう。
その理由として『ラピュタ』における飛行船の存在がある。『ラピュタ』の舞台は産業革命期のヨーロッパが舞台と言われる。現にラピュタの製作前に宮崎駿はイギリスのウェールズをロケハンに訪れてもいる。
パズーが働く町は炭鉱街であり、蒸気機関車が発達していることを考えると、おおよそこの舞台設定は間違いではないだろう。
しかし、それにしては場違いなものも散見されるのである。例えばドーラ一家の乗るオートモービル。T型フォードのような外見だが、当時はまだガソリン車すらなかった時代だ。
そしてなんと言っても数多くの飛行船である。ゴリアテ、タイガーモス、フラップターなど『ラピュタ』には様々な飛行船が登場するが、そもそも有人飛行が世界で初めて成功したのは1903年のことであり、実はこれらの飛行船はかなりのオーバーテクノロジーなのだ。
もちろん、飛行船なしで登場人物をラピュタにたどり着かせることは成し得ないので物語上の必然性もあったのだろう。
しかし、それならばシータのセリフとの矛盾に気づかないはずはないと思う。そういう意味では『ラピュタ』はステーキを食べながら地球温暖化を語るような作品なのである。もちろん、温暖化を語る際には肉牛が温暖化の原因の一つであるメタンガスを大量に排出することには触れられることはないだろう。
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『となりのトトロ』
宮崎駿監督の次の作品は『となりのトトロ』だが、この作品の舞台は昭和30年代で、作品の舞台も田舎なので、文明との対立構造には触れなくて済む作品でもあった。『ラピュタ』で登場した数々のオーバーテクノロジーはトトロの「森の精霊の不思議な力」によって代替できるからである。
だが、そもそもなぜサツキ一家が都会から田舎へ引っ越してきたのか。その時点で「自然がある風景のほうが優れている」という勝敗の結果は明らかであり、その意味では作品が始まった時点で決着は着いているのだ。
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『魔女の宅急便』『紅の豚』
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『もののけ姫』
だが、白眉はその次の『もののけ姫』である。いよいよ、自然と文明という矛盾に真正面から目を向けたのがこの作品だ。
というのも、『もののけ姫』における文明の旗手はエボシ御前と、彼女を慕うタタラ場の人々なのだが、どう考えても彼女達は「悪役」ではないからだ。
あえて言うならばエボシ御前が全ての元凶という意味では最も悪役には近いのだろうが、彼女はタタラ場を営むことで社会の最下層に対して救済を果たしている。いわばタタラ場は製鉄業であると同時に民間のセーフティネットでもあるわけだ。
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『もののけ姫』の舞台設定は室町時代。タタラ場に住む女たちは元々はみな売られていた女たちだという。当時の日本の貧しい農村では、跡取りとならない女子は売りに出されていたという。売られた娘にとっては戻るも進むも地獄なわけだが、そんな彼女たちを買い、安全な暮らしと豊かを与えたのがエボシ御前なのだ。
またエボシ御前はハンセン病とみられる患者の世話も行っている。当時ハンセン病は「業病」とも呼ばれ、先祖の犯した罪が原因で発症すると考えられており、近年に至るまで激しい差別があった。
だが、製鉄には大量の熱が必要であり、そのためには燃料として森を切り崩さねばならない。
これが森の神々とエボシ御前らタタラ場との対立を生む原因の一つだ。
では、この相容れない二つの正義を『もののけ姫』はどう解決したのかと言えば、全てを破壊したのだ。タタラ場も森も壊して、世界を破壊したのが『もののけ姫』だ。まぁ人間が文明を持ってからの問題に対して二時間の映画で真っ当な解答が出るはずもない。
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『千と千尋の神隠し』
『千と千尋の神隠し』ではすでにその対立すら成り立っていない。すでに文明は完全に自然を駆逐して、それを当然のものとして現代人は享受している。『千と千尋の神隠し』で描かれているのは『もののけ姫』で描かれた自然の背後にある神々と人間との関わりだ。
そこにあるのは対立ではなく、神々の存在を忘れた現代人への警鐘だと思う。その時点で『もののけ姫』で描かれた対立は数的には文明の勝利でも、質では神々を擁する自然の勝利ということではないだろうか。
自然への憧れの源流
私の推測だが、宮崎駿が自然主義とも言える思想を持つに至ったのは、母親の影響が大きいのではないかと思う。『ジブリの教科書2 天空の城ラピュタ』に収録されている宮崎駿の弟である宮崎至朗氏の寄稿文には、母親からよく彼女の幼少期の山梨の田舎の思い出話を聞いたという。一方で宮崎駿自身の育ちは都会で裕福な家庭であった。その思い出話から田舎、ひいては自然へのあこがれが生まれたのではないかと推測しているがどうだろうか。
宮崎駿は人間と自然との対立をどう動いてきたのか、それをジブリ作品の変遷から考察した記事を書いた(「宮崎駿は自然をどう描いてきたのか?『ラピュタ』から『千と千尋の神隠し』まで」)。 今回の考察はその姉妹編と言っていい。今回考察するの[…]