
宮崎駿は人間と自然との対立をどう動いてきたのか、それをジブリ作品の変遷から考察した記事を書いた(「宮崎駿は自然をどう描いてきたのか?『ラピュタ』から『千と千尋の神隠し』まで」)。
今回の考察はその姉妹編と言っていい。今回考察するのは自然ではなく、「女性」についてだ。
強い女性
すでに『紅の豚』をはじめとして、宮崎駿の飛行機へミリタリーへの偏愛はそのアニメ作品の随所に見られる。
『宮崎駿は自然をどう描いてきたのか?』でも書いたが、
『風の谷のナウシカ』のメーヴェ
『天空の城ラピュタ』のゴリアテ、タイガーモス、フラップター
『となりのトトロ』のコマ
『魔女の宅急便』の飛行船
『紅の豚』のサボイアS.21
等だ。
それと同じく、作品に登場する女性たちにも明確に共通するものがある。
それは誰も賢くバイタリティにあふれる、優しく強い女性だ。
『風の谷のナウシカ』
『風の谷のナウシカ』のナウシカは王女であるが、いわゆる「お姫様」とは違い、自身で危険を顧みず、腐海の植物を育て、また、父が殺された時には躊躇なく敵兵を殺してさえいる。一方で自然を愛し、王蟲にさえも愛情を惜しみなく注ぐ優しさがある(このあたりは『もののけ姫』と同じく『虫めづる姫君』からの影響があるだろう。)
また、宮崎駿曰くナウシカの豊かな胸について「あれは自分の子どもに乳を飲ませるだけじゃなくてね、好きな男を抱くためじゃなくてね。 あそこにいる城オジやお婆さんたちが死んでいくときにね、抱きとめてあげるためのね、 そういう胸なんじゃないかと思ってるんです。 だから、でかくなくちゃいけないんですよ。胸に抱きしめてあげたときにね、なんか、安心して死ねる、そういう胸じゃなきゃいけないと思ってるんですよ。」と述べている。
『天空の城ラピュタ』
『天空の城ラピュタ』のシータはどうだろう。こちらも作品の後半で実はラピュタ帝国の王女であることが判明するが、飛行船の窓際に悲しげな表情で佇む姿はいわゆる「お姫様」のイメージとも重なる。
しかし、その直後にムスカを瓶で殴り倒したり、パズーとともにドーラから逃げる際にはスコップをドーラの息子たちに投げつけるなど、中々の大胆さと思い切りの良さも垣間見えるのである。
その強さは映画の後半になるにつれて本格的になる。その象徴はドーラのパンツを履いたときからだろう。それまでは清楚なワンピースタイプだった服が一転、空賊の服へとスタイルがまるっきり変わってしまう。銃を構えたムスカに対して一歩も引かず、それどころか、死を覚悟してなお、自分以外のものを守ろうとする健気さ、強さを見せつける。
今作ではシータの他にも複数の女性が登場するが、ドーラについては言うまでもなく完全無欠の女性であり、もはや女傑、豪傑とさえ言っていい。ドーラについては後で詳しく述べることにしよう。
パズーの働く炭鉱の「親方」の奥さんもまた優しさと強さをもった女性だ。筋骨隆々の親方を完全に尻に敷き(ドーラの息子との筋肉比べでシャツを破れさせた親方に「そのシャツを誰が縫うんだい?」と言い放ち、親方を震えさせている)、一方でドラッグ一家に追われるパズーにはシータを「守っておやり」と言い、こっそり二人を裏口から逃がしてあげるなどの優しさや機微も見せている(余談だが、この奥さんの台詞によって、「シータを守る」というパズーの行動原理が明確になるのである)。
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『となりのトトロ』
次に『となりのトトロ』のさつきである。こちらもシータ同様に健気さと賢さを併せ持っている。『トトロ』においてさつきはヒロインという以外にも「母親」の役割も負っている。妹の世話や家事なども完璧にこなす。それは母が結核で入院しているという事情もあるのだが、それならば父親がある程度の家事を分担してもいいはずだ。しかし、そうではない。サツキは必要以上に母親の役割を果たしていると感じてしまう。それは宮崎駿が理想の女性像をサツキに投影しきっているからではないか。
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『魔女の宅急便』
『トトロ』の次は『魔女の宅急便』。これはそれまでの宮崎駿作品とは少しベクトルが違い、少女の成長物語だ。その意味では『千と千尋の神隠し』にも通じるものがある。
なので、主人公であるキキは劇中を通して悩み、葛藤する今までにはないヒロイン像であった。今作ではむしろ、キキの保護者代わりとなるオソノさんのほうが宮崎駿の求める女性像に近いのではないかという気がする。とは言え、クライマックスで飛行船からトンボを救出するシーンでは、キキは一人の強い女性へと成長したことがしっかり(女性が男性を助けるという非常に分かりやすい構図で)描かれている。
弱くナイーブな女性が登場しないというのは『紅の豚』も同様だ。
『もののけ姫』
そして『もののけ姫』。ここまで見てきた作品でメインキャラクターにおける女性比率が最も高いのはこの作品ではないかと思うのだが、サン、エボシ御前、トキ、カヤ、モロに至るまで見事に弱い女性が一人もいないのだ。ここではエボシ御前を例に挙げよう。
エボシ御前はタタラ場のトップとしてそこに住まう人々の生活と己の野心のために山を切り崩し、近代化を果たしていく。宮崎駿は『ラピュタ』でも産業革命期をテーマにしたが、同じく『もののけ姫』のタタラ場はいわばそこだけは産業革命期と言えるのではないか。
宮崎駿はエボシ御前について、「目的と手段を使い分けて非常にヤバイこともするけれども、どこかで理想は失っていない。挫折に強くて何度も立ち直ってというね、そんな風に勝手に僕は想像したんです」と述べている。エボシ御前が作り上げたタタラ場に住まう女性たちもトキをはじめとして強い女性たちだ。
タタラ場で働く女たちはもともと遊女、もしくは遊女になる予定の女だったとされている。つまり、土着の人間はタタラ場にはおらず、タタラ場はエボシ達によって集められた人々で構成された村でもある。また、タタラ場には子供がいないことからもまだ若い村だということがわかる(詳しくはコラム『室町という「近代」ー なぜタタラ場には子供がいないのか?』を参照してほしい)。
「エボシ様と来たら、売られた女を見るとみんな買いとっちまうんでさぁ」
タタラ場の男はそう言う。そんな女たちにとって、タタラ場の生活は「キツイけれど下界よりはずっとマシ」「男が威張らないし」「ご飯が一杯食べられる」女たちは口々にそうタタラ場の生活を評する。
『もののけ姫』におけるタタラ場はむしろ「女尊男卑」と言えるまでに女性の社会的な進出と保護が図られているのだ。
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「強い女性」に投影される母
では、なぜここまで宮崎駿は強い女性を描いているのか。宮崎駿のもっともお気に入りのキャラクターは『天空の城ラピュタ』に登場する空賊の頭、ドーラだという。
ドーラは『ラピュタ』において時に笑ってしまうほどの豪快さ、胆力、身体能力を見せる、まさに女傑ではあるが、一方では冷静に物事を見極め、情深く、リーダーシップのある大人だ。
パズーが本当にシータを守る覚悟を抱くようになったのは、ドーラの叱責があったからこそだ。子供が抱くような理想や甘さにドーラは大人として現実を突きつける。
だがそれだけではない。エンディングでドーラは死んだと思っていたシータとパズーの姿に気づいて、驚いた顔の後に、笑みと瞳を潤ませる。この時ドーラの顔は息子たちから見えなかった。
彼らは息子であると同時に、仕事上の部下でもあり、ドーラは常にその頭としてふるまわなければならない。
しかし、このシーンだけはドーラの顔は息子たちから一切見えない。だからこそドーラの優しさが表情に滲み出ているようにも思う。この優しさもドーラの真の姿の一つなのだろう。
そしてそこに宮崎駿の「理想の女性像」を見出してしまうのだ。
ドーラは宮崎駿の母がモデルだという。母親は宮崎駿が6歳から15歳になるまで脊椎カリエスという難病で寝たきりであったと言うが、、男四兄弟がそろっても母には太刀打ちできなかったそうだ。触れ合う代わりに政治・経済から文化・芸術に至るまで多くのことを話してくれたという。
多くの作品で描かれる「強い女性」は宮崎駿の母親が投影されているのではないかと思う。子供の頃に母親を求めてもそれが叶わないという経験は、大人になっても影響を与えるものだろう。
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