※以下の考察・解説には映画の結末のネタバレが含まれています
トマス・ハリスは寡作な作家だが、その著作のほとんどが映画化されている。
特にハンニバル・レクターを描いた
『レッド・ドラゴン』
『羊たちの沈黙』
『ハンニバル』
『ハンニバル・ライジング』
は映画シリーズとしても人気となり、映画史にもハンニバル・レクターという強烈な悪役を刻みつけた。
小説『ハンニバル』
個人的にはトマス・ハリスはあまり読んではいないのだが、『ハンニバル』だけは中学の頃に何度も読み返した。クラリスの失脚と陰謀、イタリアで「フェル博士」として潜伏生活を送るレクターとその正体に気づいてしまう刑事のパッツィ、そしてレクターへの復讐を画策する大富豪のメイスン・ヴァージャー。
どのキャラクターにも物語は幾重にも張り巡らされ、それぞれが複雑に絡み合って、小説全体のストーリーへと昇華されていく。加えて、ラストには誰もが驚く展開が待っている。
『羊たちの沈黙』
そもそも私が『ハンニバル』を読もうとしたきっかけは当然ながら映画版の『羊たちの沈黙』あってのことだ。
少し思い出話をしよう。私の小学生の頃の担任の先生が映画好きで、いろんな映画を教えてもらった。『グレムリン』、『メン・イン・ブラック』、確か『タイタニック』や『ターミネーター』もそうだった気がする。ある日、「今夜の日曜洋画劇場(だったと思う)で『羊たちの沈黙』って映画があるらしい」という話をしたところ、「それは名作だよ」と教えてもらったのだ(ちなみにその先生がいなければ、このサイトも存在しなかっただろう)。
その日の夜、テレビの前に座って「名作」を観始めたのだが、クラリスが精神病棟から帰る場面であまりに怖すぎて観るのをやめてしまった。
記憶がうろ覚えだか、精神病棟の檻から幾つもの男性の手が伸びてきて、クラリスに触れようとしている、そんなシーンだった。
小学生にはなんとも刺激が強い「名作」であつた。
ただ、アンソニー・ホプキンス演じるレクター博士のキャラクターは強烈だった。食人鬼でありながら、優雅で教養深く、芸術面への造詣も深い。それまでにレクターのようなキャラクターを見たことがなかった。
当然、その続編は気になる。しかし、トラウマ映画の『羊たちの沈黙』の続編なのだ、正直映画を観る勇気はない。だが、文字だけの小説なら大丈夫だろう、そう思って手に取ったのがトマス・ハリスの『ハンニバル』と言うわけだ。
『ハンニバル』の物語
今でもその内容はありありと思い出せる。赤ん坊を抱いたギャングの女性ボスを射殺したことで非難を浴びせられるクラリス。イタリアでのレクターの優雅で強要に満ちた生活。そういえばダンテを知ったのも本書がきっかけだった。
そしてメイスン・ヴァージャーの描写だ。かつてはレクターの患者であったか、レクターにけしかけられて、自らで顔面の皮を剥ぎ、犬に食わせたという過去を持つ。また、その際にレクターから首の骨を折られ、首から下は麻痺状態にある。また、レクターの亡くした妹ミーシャへの思慕から垣間見える「怪物」の内面、そして驚きの結末。
だからだろう、リドリー・スコットによる映画版を観た時には、原作の内容がかなり薄味になっていることに驚いた(もちろん、小説の内容をそのまま映画化したら2時間には到底収まらないだろう)。
中でも結末はトマス・ハリスの小説とは全く異なっていた。
メイスンに拉致されたレクターは、メイスンが調教した人食い豚に食い殺されそうになるが、間一髪でクラリスが現れ、レクターを救出する。しかし、クラリスはメイスンの手下の一人に麻酔銃を撃ち込まれ、倒れ込む。
レクターはクラリスを抱き上げて連れ帰る。クラリスはレクターから、肉体と精神ともに治療を受けることになる。その過程でかの有名なポール・クレンドラーとのおぞましきディナーを体験するのだが、小説では、レクターとともに夕食を楽しむのに対して、映画版ではあまりのむごたらしさに、レクターにやめるように懇願している。ちなみにディナーの内容は、レクターがポール・クレンドラーの頭を生きたまま開頭し、その脳みそを調理し、クレンドラー自身に食べさせるというもの。
トマス・ハリスの結末
その後、小説版ではレクターとクラリスは共依存的な関係となっていく。クラリスは治療の過程で亡くした父親へのトラウマを克服し、レクターもまた妹のミーシャの姿をクラリスの中に見出していく。
『羊たちの沈黙』のクラリス像とは全く異なる結末を迎えるわけだが、一説によれば、トマス・ハリスの原作『ハンニバル』は小説『羊たちの沈黙』の続編ではなく、映画版の『羊たちの沈黙』の続編ではないかという声もある。つまり、クラリスを演じたジョディ・フォスターがあまりに自身が想定したクラリスというキャラクターにマッチしていたため、続編の『ハンニバル』では、レクターら自らのにトマス・ハリス自身を投影させたというわけだ。
リドリー・スコットの結末
対してリドリー・スコットの手がけた映画版では、クラリスは朦朧とする意識の中でも、レクターに手錠をかけ、彼を逮捕しようとする。
レクターは自らの腕を切断し逃亡、機上の人となるというエンディングだ(余談だが、原作ではこの飛行機内での子供とのやりとりは中盤で展開される。子供連れの母親に食事を邪魔されるというユーモラスな場面だ)。
リドリー・スコットが『ハンニバル』の映画化に興味を持ったのは『グラディエーター』の製作中だったという。当初はタイトルだけを聞いて「象がアルプスを越えてやってくるような映画はやりたくない。今はローマ映画を撮っているんだ」と断ろうとしたが、それがあの『羊たちの沈黙』の続編であると知ると、トマス・ハリスの原作を読み、その面白さに夢中になった。
「ジョナサン・デミはどうしたんだ?」
ジョナサン・デミとジョディ・フォスターの降板
『羊たちの沈黙』を監督したジョナサン・デミはすでに続編の監督のオファーを断っていた。
「トマス・ハリスは相変わらず予測不可能で、クラリスとレクター博士の関係を私には全く理解できない方向に導いた。クラリスは薬漬けになって、彼と一緒に脳みそを食べている。私はただ『これはできない』と思った」
そうジョナサン・デミは述べている(のちに『羊たちの沈黙』を超える続編は作れないと感じていたとも明かしている)。
また、前作でクラリスを演じたジョディ・フォスターもこの続編のオファーを断った。
フォスターは少なくとも原作の『ハンニバル』が完成する以前の1997年までは少なくとも続編への出演には前向きだったが、実際のオファーに関しては先に自身の監督作のスケジュールが入っていたため、出演を断っている(のちに「クラリスはジョナサンと私にとって本当に大きな存在でした。こう言うのは少し奇妙に聞こえるかもしれませんが、私たちのどちらにとっても、彼女を踏みにじることなどできませんでした」とオファーを断った真意を語っている)。
リドリー・スコットのヒロイン像
リドリー・スコットも「ハンニバル・レクターがクラリスに惹かれる理由の一つは彼女が誠実な人間だからだと思う」とし、原作におけるクラリスの急激な変化を批判した。
そして、スコットはクラリスがあくまでFBIとして職務に誠実であるという、『羊たちの沈黙』からのキャラクター像を貫いた。
これまでのリドリー・スコットの監督作を振り返ると、そのヒロイン像には共通のものかある。
『エイリアン』のエレン・リプリーは、ただ一人、エイリアンと戦い、生存する。
『ブレードランナー』のレイチェルは自分自身を追い求め、タイレル社から脱走する。
『G.I.ジェーン』のジョーダンは、男だらけのアメリカ海軍特殊部隊に加わり、自力で尊厳をつかみ取る。
『悪の法則』のマルキナは全ての黒幕として勝利を収める。
つまり、リドリー・スコットの作品におけるヒロインは誰もが「強い女性」なのだ。そう考えると、トマス・ハリスの『ハンニバル』におけるクラリスはそれとは真逆に近いキャラクターとして描かれている。
映画版からはミーシャをはじめとして、原作に登場したキャラクターが少なからず削除されている。特にミーシャの存在は大きい。原作ではミーシャを通して、読者はハンニバル・レクターの内面に触れる事ができ、「怪物」としてではない、彼の人間としての一面を垣間見ることがでいる。
ところが映画版ではむしろその「怪物」ぶりがいかんなく発揮される。『ハンニバル』が批評的に今一つだったのは、その描写の平坦さにあるだろう。前作『羊たちの沈黙』におけるレクターは、味方でも敵でもなく、時には凶悪犯でもあり、時にはクラリスの教師であり、メンターであるなど、短い登場時間の中でも複雑な関係と人物像をもって描かれていた(これがハンニバル・レクターをポップカルチャーにおけるヒーローの1人にさせた大きな理由だろう)。
だが、『ハンニバル』のクラリスはもう実習生ではない。キャリアも積んだ一人前の女性だ。『羊たちの沈黙』から続くレクターとクラリスの奇妙な絆はそのままだが、それ以外の部分は単純な正義と悪の関係に収まってしまっており、前作のような複雑さはない。それが本作における平坦さと、レクターを「怪物」としてのキャラクターを固定させてしまった要因ではないかと思う。
ちなみに、トマス・ハリスは『ハンニバル』の映画化にあたって結末の変更を許可したが、映画版の結末を「小説より素晴らしい」も絶賛している。

