※以下の考察・解説には映画の結末のネタバレが含まれています
『もののけ姫』
『もののけ姫』は1997年に公開された宮崎駿監督のアニメ映画だ。スタジオジブリの作品としてはとしては作目の映画になる。
『もののけ姫』の解説記事でも書いたが、『もののけ姫』の公開当時はその暴力描写な話題になっていたのを覚えている。
今でこそスタジオジブリ作品の公開と言えば、老若男女の別なく誰もが映画館へ詰めかける「国民的イベント」だが、私が幼い頃はいくらジブリ作品と言えどもまだまだ子供向けのアニメというイメージも強かった(さらに言えば今のようにアニメが大人の間にまで市民権を得ている時代でもなかったと思う)。
『もののけ姫』では、腕や頭の切断シーンも何の遠慮もなく直接的に描かれている。その10年前は宮崎駿が『となりのトトロ』や『魔女の宅急便』を作っていたとは信じられないほどだ。
本当の暴力
だが、『もののけ姫』における本当の暴力は手足がちぎれ飛ぶようなものではない。もののけ姫の内容を最もシンプルに単純化してしまえば、自然と人間の対立であり、作品の中ではそれがタタラ場と人の対立として描かれている。タタラ場は近代化の象徴であり、その果てに今の私達の暮らしがある。そう考えると単純に人間=悪、自然=善という図式は成り立たない。
2009年に公開されたジェームズ・キャメロン監督の『アバター』では、自然=ナヴィ側を善、人間たちを悪として描いた。
『もののけ姫』のプロデューサーだった鈴木敏夫は『アバター』の(個人的に『もののけ姫』は大好きな作品だが、『アバター』はあまり好きではない。『アバター』が『もののけ姫』や『風の谷のナウシカ』の影響を受けていながら、なぜ好きになれないかは単純に薄っぺらい説教を聞かされているように感じるからだ。
『アバター』の内容に関してはイラク戦争への反省も込められていると思うが、それを汲んだとしても、現実世界は映画のように自然=善、人間=悪のような単純な二項対立では解決できないだろう。
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では『もののけ姫』はどう解決したのか。全て壊したのである。
エボシ御前によって、シシ神は首を飛ばされる。本来、シシ神は生と死、その2つを司る神であるが、首を無くしたシシ神は、死のみを撒き散らすデイダラボッチになってしまう。
デイダラボッチは触れたもの全てを死に絶やすようになる。森も、木霊たちも、またタタラ場の住人や侍たちもデイダラボッチの犠牲になる。
サンとアシタカは、首を持っているジコ坊と戦い、首をデイダラボッチに返す。
それと同時に朝日によってデイダラボッチは消滅するが、その時の爆風によってタタラ場も吹き飛んでしまう。
これほどまでに暴力的で一方的な結末の映画もそうないだろう。子供の頃は気づかなかったが、よく考えれば『もののけ姫』は自然と人間の対立については何ら答えを出していないのである。
それどころか、その解決を諦めているようにも感じる。「一度すべて壊して、ゼロから始めるしかない」『もののけ姫』の結末はそう言っているように思える。
『もののけ姫』が公開された1997年あたりは社会的にも衝撃的な事件が起きている。
神戸連続児童殺傷事件
オウム真理教
北海道拓殖銀行の破綻
ダイアナ元妃の事故死
などが挙げられる。私は1997年当時10歳ではあったが、オウムの上九一色村への強制捜査のニュースやダイアナ妃の悲劇などは未だに覚えている。当時の子供の目線では、見えるものはポケモンブームなどになってしまい、さすがにその時の世間の雰囲気までは分からなかったが、ネットで調べると「不況」「バブルの終わりの始まり」なと、やはり当時の世相には暗さがつきまとう。
個人的にはこれら現実社会の暗さを『もののけ姫』は反映しているのではないかと思う。
『もののけ姫』はクライマックスに近づければ近づくほど、閉塞感が増していき、ついには誰にもどうすることのできない、絶望的な状況が完成されている。
たとえ一人でも時代の空気に抗うのはできる。だが、時代の空気を覆すことは不可能に近い。本作のアシタカには、そういう意味では本作公開当時の若者の姿が反映されているように思う。宮崎駿もアシタカは「現代の若者」だと述べている。確かにアシタカは神々と人間の対立、タタラ場とサムライたちの対立、どちらも止められなかった。もう全てをリセットする以外にないのではないか?
『もののけ姫』の結末は暴力的である意味では投げやりである。しかし、その中からしか本当の答えは出てこない。それが宮崎駿が提示した「解決策」ではないだろうか。

