1991年に公開された『羊たちの沈黙』は、アカデミー賞の主要5部門を独占するという快挙を成し遂げた。
主要5部門を独占した作品は、『羊たちの沈黙』が3作目となるが、それ以来、今に至るまで、30年以上も後に続く作品は現れていない。
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さて、今回はそんな名作『羊たちの沈黙』から、あるセリフを考察してみたい。
それは「服を大事に」。
服を大事に
このセリフは娘のキャサリンを猟奇殺人犯バッファロー・ビルに誘拐された、マーティン上院議員に捜査協力することになったハンニバル・レクター博士がかけた言葉だ。
果たして、この言葉の意味するものとは何か、映画と原作であるトマス・ハリスの小説から探っていこう。
まずは映画から。犯人の情報をマーティン上院議員に提供する見返りとして、レクター博士にはより良い環境の刑務所が用意される。その取引で二人は面会する。この流れは基本的に映画も小説も変わらない。

マーティン上院議員。演じるのはダイアン・ベイカー
映画版『羊たちの沈黙』
映画版では面会時にレクターは唐突にマーティンに質問を始める。
「なぁ議員さん、キャサリンを自分で育てた?」
なぜ、いきなりそんな質問を?マーティンは怪訝な顔を見せる。
「母乳で育てた?」
「ええ、母乳よ」
レクター博士は質問を続ける。
「乳首が硬くなった?」
マーティンは思わず絶句する。
「足を切断しても足が痛むのを感じる」
「娘さんが死んだら、あんたはどこで痛みを感じる?」
耐えきれなくなったマーティンはこう言う。
「この野獣を早く送り返して!」
その後、レクターは矢継ぎ早に犯人の情報を話した後に、マーティンに最後にもう一つメッセージを伝える。
「服を大事にな」
こうしてレクター博士とマーティン上院議員の面会は終わる。
小説版『羊たちの沈黙』
つぎは小説版だ(以下、斜字は高見浩氏による日本語訳からの引用)。
「あなたはキャザリンに授乳したのか?」
「失礼だけど、今、なんと? 私がなにを……」
「彼女に母乳を飲ませたのか?」
「そうよ」
「喉が渇く仕事だ、そうじゃないかな……?」
その時のレクターの心情は以下のように描写されている。
彼女の瞳が暗くなると、レクター博士は彼女の苦悩を一口味わったが、素晴らしい味がした。

ハンニバル・レクター。演じるアンソニー・ホプキンスはほとんど瞬きをしないことでレクターの異常性を際立たせようとしたという
その後もレクターは待遇などについて直接マーティンと言葉を交わし、その要求が概ね認められると、マーティンに情報の扱い方に対して助言も与える。マーティンが「ありがとうレクター博士」と例と言うと、レクターは「そのスーツは気に入ったね」と声をかけたのだ。
質問の理由
ここで、映画、小説ともにレクターがマーティンに子育てに関する質問をしたのは、彼女の苦悩を味わうためであったことがわかる。
続編小説となる『ハンニバル』では、マーティン上院議員とバッファロー・ビルを射殺してキャサリンを救ったクラリスは良好な関係を築いていることが示されている。二人の会話では、この時のレクターとの面会についても触れられており、そこでは『羊たちの沈黙』では分からなかった、マーティン上院議員の当時の心情が描かれている。
「わたしがキャサリンに授乳したことがあるか、と訊いたの。わたしはあの子を母乳で育てたのか、と。そうだ、と答えると、あの男はこう言ったわ、〝あれは、喉が渇いてくるものだろう?〟。
それを聞いたとき、頭に突然よみがえってきたわ、赤ん坊のあの子を抱えてお乳を飲ませていた頃の記憶が。喉の渇きに耐えながら、あの子に存分にお乳を飲ませたいと願っていたときの記憶が。
昔の思い出があんなに鋭く体を貫いたことはなかったと思う。
娘の無事を願うわたしの苦痛を、あの男はうまそうに飲み干したんだから」
小説と映画の違いの意味
この場面における『羊たちの沈黙』の小説と映画の違いは、マーティンが怒りを顕にするかどうかだろう。
小説版は(内心は憤怒に満ちていたとはいえ)、レクターの質問に誠実に答え、レクターの提示した条件に関しても、大部分は前向きに許可しており、最後まで礼節を崩さない。この場合、「そのスーツは気に入った」はそのままの文字通りの意味として受け取ってもいいだろう。先ほど紹介した『ハンニバル』の中でも、クラリスがその時のスーツはどのようなものだったか、マーティンに尋ねる会話がある。
対して、映画版は内心の怒りを抑えきれずに、「この野獣」とまで言い放っている。
このキャラクターの変化だが、個人的にはクラリスとの対比として描く狙いがあったと考えている。クラリスもまたレクターとの面談の中で侮蔑的な言葉を受ける。
「君は野心家らしいな。だが高価なバッグに安物の靴とは野暮な格好だ。都会に憧れる田舎娘といった感じだ。
栄養がよく、背は伸びた。でもご両親は貧しい階層だ。そうだろ?ウエストバージニアの訛りが残っている。君の父上の仕事は?炭鉱で働いていたのか?
君はいつも男の目を引いた。そして車の中でヘビー・ペッティングだ。
でもそんな生活から逃げたかった。だからFBIに入った」
だが、クラリスは不快感を抑え、職務に徹しようとする。『羊たちの沈黙』において、レクターとクラリスの関係は、師と弟子にも例えられるが、それはクラリスのひたむきがレクターに気に入られたからでもある。
一方でマーティン上院議員は、表面上は節度を保っていても、レクターをただの下品なモンスターとしか見ていないことが露見する。おそらく、レクターはそうした議員の本性をすでに見抜いていたのだろう。その前にレクターが伝えたバッファロー・ビルの本名などの情報はすべてデタラメであった。
そんなデタラメな情報で犯人は捕まえようがない。

クラリスが秘めたトラウマを打ち明けると、レクターは彼女に真犯人の本当のヒントを与える
「服を大事にな」
映画のセリフの「服」が指すのは、バッファロー・ビルがこれから殺して皮を剥ぐ予定のキャサリンのことだ。バッファロービルは剥いだ皮縫合して服を作り、女性になろうとしていた。
「娘を大事に」
それは何よりマーティンが望むことであり、さらには言われても、もはやどうしようもない事なのだが、それを分かった上でレクターは敢えて最後に上院議員に「服を大事に」と伝えたのだ。
原作小説の『ハンニバル』では、レクターはさらに次の言葉を残している。それは6年間レクターと付き合った看守のバーニーの口から以下のように語られる。
「彼はあるときこう言いましたよ──〝実行可能〟と見たときはいつでも、自分は無礼なやつを食ってやるのだ、と。〝放し飼いにされた無礼なやつ〟と、彼はその連中のことを呼んでましたがね」
マーティンもおそらく「無礼なやつ」に入るのだろう。だが面会時のレクターはマスクをつけられており、食らうことができない。だからせめてマーティンの「心」を食らったのではないだろうか。
