『Vフォー・ヴェンデッタ』の正体 仮面の下にあるものとは?

※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


ハッカー集団アノニマスはガイ・フォークスのマスクをトレードマークにしている。アノニマスには決まったメンバーがいるわけではない。その時その時のアノニマスの抗議や行動に加わった者全員かアノニマスなのだ。
なぜアノニマスはガイ・フォークス・マスクをトレードマークにしているのだろうか?
そこにはひとつの作品からの影響がある。『Vフォー・ヴェンデッタ』だ。

『Vフォー・ヴェンデッタ』

『Vフォー・ヴェンデッタ』は2006年に公開されたSFアクション映画。監督はジェームズ・マクティーグ、主演はヒューゴ・ウィーヴィングが務めている。原作はアラン・ムーアの書いた同名のコミックスだ。
核戦争後、全体主義の独裁国家となったイギリスを舞台に、政府の要人を標的にVと名乗る一人の男が復讐を行っていく。
このVが素顔を隠すために着けているのがガイ・フォークスの仮面だ。ガイ・フォークスとは誰なのか。

ガイ・フォークスと火薬陰謀事件

ガイ・フォークスは1605年に起きたイングランドの火薬陰謀事件の実行役の一人だ。彼らは国王ジェームズ一世を初めとする要人たちの集まる国会議事堂を爆爆破し、彼らを抹殺することで政府転覆を目論んでいたが、決行前に計画が露見し、ガイ・フォークスをはじめとする関係者は逮捕される。
ガイ・フォークスは死刑となり、激しい拷問が加えられた後に首吊り台から飛び降りて首の骨を折り死亡。死してなおその体は四つ裂きにされたという。
国会議事堂爆破事件を未然に防げたことを祝して、今でもイギリスでは11月5日をガイ・フォークス・ナイトと定めて花火やパーティーが行われる。だが、ロンドン議会爆破事件は単純にガイ・フォークスを悪だと断じられるものではない。ガイ・フォークスをはじめとする火薬陰謀事件を画策したテロリスト側にも正義があった。

当時のイングランドではイングランド国教会が大きな力を持ち、カトリック教徒はジェームズ1世の圧政に苦しんでいた。当時のイギリスには国教忌避者に関する法令があり、イングランド国教会の礼拝に参加しない者に対して罰金や財産の没収、投獄などさまざまな罰が設けられていた。この法令によって多くのカトリック信者が刑死していたという事実は火薬陰謀事件の背景として押さえておくべきだろう。
ナイスガイという言葉は男性を指すが、この言葉は元を辿ればガイ・フォークスの名前が由来だ。
もしガイ・フォークスが本当に悪人なら、男を指す言葉に使われ続けているはずはない。 実際にフォークスは取り調べにおいても常に堂々と振る舞い、ジェームズ一世もそんなフォークスを「ローマ人のようだ」と称賛している。
そしてVも同じくガイ・フォークスに共感を覚えている一人だ。

Vの血の復讐

『Vフォー・ヴェンデッタ』の舞台は第三次世界対戦後になって戦勝国となったイギリスだ。かつての大英帝国の繁栄を取り戻したかのような強大な国家となったが、実際はアダム・サトラーによる独裁政治であり全体主義国家であった。

テレビ局に務めるイヴィー・ハモンドは夜間外出禁止令を破ってやむを得ず外出しようとした夜に秘密警察の男たち(フィンガーマン)に見つかってしまう。
彼らから暴行を受けそうになったその時、ガイ・フォークスの仮面を着けた黒づくめの男が現れる。
「その者、数々の悪事をまといし者なり。血糊のついた太刀を持ち、高々と振りかぶる。」そう言ってフィンガーマンを次々に倒していく。この台詞はシェイクスピアの『マクベス』からのラフな引用だ。
仮面の男は一転して命乞いを始めたフィンガーマンの一人にこう言う。
「殊勝な振る舞いで己の悪魔を覆い隠すは人の常」
ここは同じくシェイクスピアの『ハムレット』からの引用。
イヴィーを窮地から助け出した仮面の男は自らの名を「V」と名乗る。ちなみに当初は「仮面の男」と自らを指していたが、古典からの引用が多いことを考えれば、この部分もアレクサンドル・デュマの『ブラジュロンヌ子爵』に登場する「仮面の男」からの引用かもしれない。
さて、Vの自己紹介の挨拶は日本語字幕では絶対にわからない、とても凝ったものだ。原文を掲載するので、ぜひ見てみてほしい。

Voilà! In view, a humble vaudevillian veteran, cast vicariously as both victim and villain by the vicissitudes of Fate. This visage, no mere veneer of vanity, is a vestige of the vox populi, now vacant, vanished.However, this valorous visitation of a by-gone vexation, stands vivified and has vowed to vanquish these venal and virulent vermin vanguarding vice and vouchsafing the violently vicious and voracious violation of volition.
Verily, this vichyssoise of verbiage veers most verbose, so let me simply add that it’s my very good honor to meet you and you may call me V.

(では!ご覧の姿は道化師のもの。時に弱き物を、また、時に悪しき物を演じることも。
仮面はただの虚飾にあらず。もはや素顔をさらして歩ける世界ではないゆえだ。
しかし、この厄介者が再び姿を現したのは、世の悪を正すため、この腐った世界にうごめくウジ虫を掃除する、そのために。
そう、これは “血の復讐<ヴェンデッタ>” だ。復讐の誓いは今も生きている。悪を断ち切り、自由をもたらすために。
少々長い自己紹介になったようだ。要するに、簡単に”V”と呼んでいただければ結構だ。 )

ちなみにVは数字の5も表す。Vと同様に5という数も今作ではポイントとなる。
奇しくもその日は11月4日の深夜。フィンガーマンの一件ですでに時刻は0時を回り、11月5日になった。Vはイヴィーを「音楽会」に誘う。街灯から禁じられているはずのクラシックの音楽が流れ出す。
そして、音楽の盛り上がりと同時に裁判所が爆破される。ガイ・フォークスはテロに失敗したが、Vは易々と破壊活動を成功させた。

このシーンで流れたのはチャイコフスキーの『1812』だ。1812年はナポレオンがロシアに侵攻した年だ。ナポレオン軍は一旦はモスクワを制圧するが、ロシアの冬の寒さと食料不足によって、60万人いたフランスの兵士は5000人にまで減った。
このことはロシアにとっては国民の愛国心に大きな影響を与えた歴史的な出来事であった。
ロシア人であったチャイコフスキーにとって『1812』とは勝利の楽曲でもあるのだろう。もちろん、Vにとっても。

11月5日を思い出せ

そして11月5日の日中、Vはイヴィーの務める国営放送局に現れ、電波をジャックし、テレビを通して国民にこう呼び掛ける。

「平穏な毎日は確かに捨てがたい。同じことの繰り返しは確かに安全だ。私もそう思いたい。だがその一方で過去の出来事を思い出す。権力に逆らい地に染まった出来事は今や国民の祝日になった。しかし、11月5日の精神は忘れ去られてしまった。皆さんにもう一度思い出してもらいたい。それを抑圧するものもいる。警棒で言葉を抑圧することも可能だ。だが言葉には力がある。意義もある。真実を明らかにすることもできる。
真実とはこの国に大きな間違いがあることだ。暴虐 、不正、弾圧、それがこの国だ。
かつては自由に考え、しゃべることができた。今は検閲や監視が横行し服従が求められる。誰がこうしたのか?
程度の差はあれ、責任は多くの者にある。真の責任者を知りたければ鏡を見るだけでいい。気持ちはわかる。恐れたからだ。テロ、疫病、、恐れて当然だ。多くの出来事が判断力と良識を奪い去ったのだ。
恐怖とパニックのなかで議長サトラーに希望を託した。彼は秩序と平和を約束し、代わりに沈黙と同意を求めた。

昨夜私は沈黙を破った。
記憶を呼び起こすために裁判所を爆破したのだ。400年以上前、ある市民が我々の記憶に刻み込んだ11月5日を。
彼は伝えようとした。『自由と正義は言葉ではない、それは生き方だ』と。
あなたにとって政府の犯罪が許されるのであれば、11月5日を忘れていただいて結構だ。だがもしあなたが私と同じように感じ立ち上がるというなら1年後私と共に議事堂の正面に立とう。
そして11月5日の記憶を再び記憶に刻み込むのだ」

「鉄の女」サッチャーの時代

『V・フォー・ヴェンデッダ』の原作が出版されたのは1982年。
当時は「鉄の女」マーガレット・サッチャーが政権を握っていた時代だ。サッチャーは停滞するイギリス経済を回復させるために新自由主義経済を導入する。いわゆるサッチャリズムとよばれるものだ。新自由主義は同時期のアメリカでやはりレーガノミクスとして導入された。サッチャーは福祉を削減し、公的企業を民間企業へ転換させ、民営化を推し進めた。加えて公共事業の削減など、いわゆる小さな政府を目指したものだった。
だが、サッチャリズムのもとで失業率は大恐慌以来の水準を記録、貧富の格差は拡大した。特にその影響が顕著だったのは労働者階級だ。労働者階級の誇りのひとつが先祖代々からの職業を受け継ぐことにあるという。民営化によって国営企業が減少したことは彼らの誇りを奪うことにもなった。
また、サッチャーは法人税や富裕層には減税を実施した一方で消費税は増税した。そのことで庶民の暮らしは厳しさを増すことになった。サッチャーは福祉の支出削減を目指したが、かえって福祉に頼らざる人々が増えたのは皮肉だと言える。
サッチャーは2013年に亡くなったが、世界から哀悼の言葉が集まると同時に、労働者階級の一部ではその死を祝うパーティーも開催されたそうだ。
アラン・ムーアは当時のサッチャー政権への批判を『Vフォー・ヴェンデッタ』に込めた。政府と戦うアナーキストのVはいわば名もなき庶民の代弁者でもある。

『モンテ・クリスト伯』と『Vフォー・ヴェンデッタ』

Vは待ち構えていた警官隊を倒し、テレビ局を後にしようとするが、一人のに呼び止められる。たまたまその場に居合わせたイヴィーはVに荷担してしまう。イヴィーの両親は政治活動家だったが、政府によって粛清されていたのだった。Vはイヴィーの身を案じ、自宅へ連れて帰る。Vの住み家は「シャドウ・ギャラリー」と呼ばれており、政府によって禁じられた芸術品や本の数々が収蔵されていた。 そこにはピカソの絵画や、ゴッホの油絵、彫刻などさまざまな作品がある。
『Vフォー・ヴェンデッタ』における全体主義や迫害の描写はナチス・ドイツのそれに酷似しているが、実際にナチス・ドイツでは 当時のピカソが傾倒していたキュピズムなどの絵画は退廃芸術とされ禁止されていた。そこには画家としての道を拒絶された芸術家のヒトラーとしての嫉妬もあるのだろう。ちなみにイヴィーを演じたナタリー・ポートマン曰く、シャドウ・ギャラリーには芸能界のゴシップにまつわる本などもあったそうで「本来ならこんなものまで政府は禁書にはしない」と語っている。

ある時、イヴィーが目を覚ますとVは芝居に興じていた。「モンテゴめ!」そう言って甲冑のマネキンを倒す。
これはアレクサンドル・デュマの『モンテ・クリスト伯』だ。日本では『岩窟王』の作品名で知られている。その後イヴィーはVとともに『モンテ・クリスト伯』の映画を見る。これは1934年に公開されたバージョンで日本では『岩窟王』の邦題がついている。この作品ではロバート・ドーナットが主人公を演じているが、興味深いのは監督の名前がローランド・V・リーであることだ。『モンテ・クリスト伯』は数多く映画化されているが、Vはなぜこの『岩窟王』を選んだのか考えるのもまた面白い。

デュマの著した『モンテ・クリスト伯』は無実の男が投獄され、出所後に身分を変え、投獄の陰謀に関わった者たち一人一人に復讐を遂げていく物語だ。『Vフォー・ヴェンデッタ』自体のストーリーもまさにモンテ・クリスト伯だと言える。

Vの正体はかつて軍の生体実験に利用された囚人であった。当時のイギリスは既にファシズム国家となっており、同性愛や政治活動家など、何の罪もない人々が囚人として強制収容所に送られていた。そこでは多くの囚人が非人道的な扱いを受けており、死んだらゴミのように遺棄されていた。
Vは生体実験の被験者の中で唯一生き残った人間だったのだ。
彼は収容所に関わり、今は政府の高官となっている者たちを一人ずつ殺していった。
そんなVにイヴィーは危機感を覚え、次の標的である司祭にVの登場を漏らしてしまう。しかし、司祭はVよりもイヴィーをレイプしようとし、警告どおり訪れたVに殺される。

イヴィーは上司であるゴードンの元へ身を寄せる。ゴードンは自分こそがVであると嘯きながら、自らもまた弾圧される側のマイノリティであることをイヴィーに打ち明ける。ゴードンはゲイであり、日頃イヴィーを食事に誘うのも、それを隠すためのカモフラージュだったのだ。ゴードンはサトラーを揶揄するような番組を放送し、それが原因でイーヴィの目の前で粛清されてしまう。
イーヴィも連行され取り調べを受ける。Vの正体を言わなければ死刑だと宣告されたイヴィーだが、独房の壁に隠されていたある囚人(同性愛者という理由によって逮捕され処刑された元女優のヴァレリー)の日記を読み、拷問に耐え、黙秘を貫く。

『I found a reason』

そして死刑執行の日、取り調べ官の正体はVだった。取り調べから今までのことはイヴィーを試すためにVが仕組んだことだったのだ。激しく取り乱し、過呼吸に陥るイヴィー。目を覚ました彼女は精神が解放されたことを知る。イヴィーはVに礼を述べ、シャドウ・ギャラリーを後にする。
その時にVがかけた曲はcat powerの『I found a reason』だ。
歌詞を少し紹介しよう。

僕は生き続けていく理由を見つけた
ああ、その理由は君、愛しい君

だから君は僕のところへ来た方がいい僕のところへ来て 来て 来て来た方がいい 来て 来て

それは叶わないVの恋心を表している。

Vは最後の標的であるクリーディーの元を訪れる。Vはクリーディーを殺さず、逆にアダム・サトラーを殺すように仕向ける。
その頃、ロンドンの街には大量のガイ・フォークス・マスクが届けられる。

11月4日、イヴィーがシャドウ・ギャラリーを訪れる。
Vとイヴィーはダンスを踊る。

その後に二人が向かった地下鉄の駅には爆弾を積んだ列車が議事堂の方向へ走るようにスタンバイされていた。
Vは起動のスイッチをイヴィーに託すと、クリーディーの元へ行こうとする。「復讐は忘れて生きましょう」そう言ってイヴィーはVにキスをする。だが、Vは最後の敵を倒すため、イヴィーの呼び掛けには応じずに駅を出て行く。

仮面の下にあるもの

Vが向かった場所には約束通り、サトラーの身柄とクリーディーの姿があった。クリーディーはサトラーを殺し、Vに仮面をとるように要求する。が、Vはこれを拒否する。一斉射撃を全身に受けるVだが、何故か倒れない。
「なぜ死なない?」クリーディーの顔に驚きとともに恐怖が広がる。
「この仮面の下にあるのは『理念』だからだよ、クリーディー君。理念は決して死なない」
そう言ってVは宣告どおり、クリーディーの首を絞め上げ、殺害する。
だが、V自身も不死身ではなく瀕死の重傷を追っていた。
満身創痍でイヴィーの元へ戻ってきたVは「私はもうすぐ死ぬ」と言い、イヴィーへの感謝を伝える。
「あり得ないと思っていた、私は君に恋をしたのだ。この気持ちは君が私にくれた最上の贈り物だ」
そう言ってVは息を引き取る。そこにVの行方を追っていたエリック・フィンチ警視もあらわれるが、時遅く、Vの亡骸は列車に積まれ、に囲まれながら多くの爆弾とともに議事堂へ向けて出発する。

午前0時の直前、議事堂の前はガイ・フォークスの仮面を着けた多くの市民で溢れていた。
爆発した議事堂を見上げながら仮面を取る。この場面は映画全体のカーテンコールとも言える場面だ。仮面の下の素顔は、政府の圧政の犠牲となったゴードン、射殺された少女、遺書を残した囚人など、生死や敵味方を問わず今作に登場した様々な人物が一挙に現れる(お遊びだと思うが、仮面をとった人々の中に実際にVを演じたヒューゴ・ウィーヴィングの顔も確認できる)。

Vの正体とは何だったのか?

「Vとは?」爆破された議事堂を見上げながら、エリック・フィンチ警視はイヴィーに問う。
「エドモン・ダンテス」イヴィーは言う。それは『モンテ・クリスト伯』の主人公の名だ。続けて「私の父、母、友人、そしてあなた、私。Vはみんなよ」
冒頭に紹介したアノニマス。アノニマスの意味は「匿名」だ。社会を変えていくのは名もなき私たち一人一人に他ならない。誰もその力を秘めている。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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