『仮面の男』鉄仮面は何を隠しているのか?

※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


フランス革命は1789年のバスティーユ監獄襲撃から始まった。
そこでバスティーユに押し寄せた人々はある男の記録を探した。名はユスターシュ・ドージェ。世の中には「鉄仮面の男」として知られていた人物だ。
バスティーユではドージェに関する情報は破棄されていたが、ドージェには
「この者を厳重に監視し、決して他人に自分のことを話すことがないようにすること。
食事は一日に一回、司令官自らがこの囚人のもとへ運ぶこと。
いかなる理由があってもこの者の言葉には一切耳を貸さないこと。」
という軍務卿からの命令があった。

一体、この男は何者なのか?

フランス革命以前の17世紀当時から今に至るまで、この仮面の男の正体は私たちの関心を惹き付けてやまない。
1847年にはフランスの文豪アレクサンドル・デュマが自身の小説『ブラジュロンヌ子爵』に登場させている。その中でデュマは仮面の男の名前をフィリップとし、ルイ14世の兄だと設定した。それが最も真実味があったからではなく、最も小説的だったからだ。
このアレクサンドル・デュマの小説を元に映画化されたのが『仮面の男』だ。

『仮面の男』

『仮面の男』は1998年に公開された作品で、監督はランダル・ウォレス、主演はレオナルド・ディカプリオが務めている。 ランダル・ウォレスにとってはスコットランドの独立の立役者であるウィリアム・ウォレスを描いた『ブレイブ・ハート』以来の歴史ものの映画になる(『ブレイブ・ハート』には脚本として参加)。

『ブレイブ・ハート』は個人的にも大好きな映画の一つのだが、同作は史実を大幅に脚色していることでも有名だ。
その最たるものが実はウィリアム・ウォレスがフランス王女のイザベラと関係を持っており、ウォレスは処刑されても、その血がイザベラの息子であり、イングランド王のエドワード三世へ引き継がれることを暗示したことだろう。史実ではウォレスの死から4年後に結婚し、エドワード三世が生まれたのは更にその3年後である。

このようにランダル・ウォレスは『ブレイブ・ハート』で大胆な歴史の改編を行っているが、『仮面の男』もデュマの原作から大きな改編が行われている。ウォレスの改編については物語の核心に関わることにもなるのでもう少し後で触れたいと思うが、もし映画版しか観たことのない人がいれば、是非デュマの原作も読んでみることを勧めたい。

個人的な話で恐縮だが、私は映画の『仮面の男 』を観る遥か前にデュマの原作を読んだ(とは言っても映画公開に会わせて発売されたノベライズであり、デュマの小説から仮面の男にまつわる部分だけを抜き取り再構成したものだが)。それが1998年だから、確か11歳の時だ。その頃ちょうど事情があり入院していたのだが、暇をもて余していたこともあり、『仮面の男』は巻末のランダル・ウォレスやガブリエル・バーンのインタビューに至るまで、 本当に何度も何度も読み返した。
実は『仮面の男』の映画版を観たのはそれから20年以上も経った後だ。なぜかと言われると小説の持つ重厚さを映画で表現できているとは思えなかったという理由もある(ちなみにこの作品でレオナルド・ディカプリオは生涯唯一のラジー賞を受賞している)。
もちろん、デュマの時代に映画は無かったので仕方ない部分もある(ランダル・ウォレスもデュマの小説をそのまま映画化するのは不可能だと述べている)。

アラミスの計画

『仮面の男』の舞台は1662年のフランス。かつて三銃士として活躍したアラミスはイエスズ会の神父となっていたが、国民を省みないルイ14世の政治に失望し、クーデターの計画を企てていた。
元三銃士のメンバーであるアトスとポルトスはアラミスの誘いを快諾する。アトスは息子のラウルをルイ14世の策略によって戦死させられていた。しかし、ダルタニアンだけは今もルイ14世に仕える立場のためにアラミスの誘いを断る。
アラミスの計画はバスティーユ監獄に幽閉されている「鉄仮面の男」とルイ14世を入れ替えるというものだった。
「鉄仮面の男」の正体はルイ14世の弟であるフィリップであり、その存在は王室の崩壊に繋がりかねないため、徹底的に秘密にされていた(ちなみにデュマの原作ではフィリップはルイ14世の兄となっている)。
舞踏会の夜にアラミスらは作戦を実行に移す。フィリップスはルイ14世との入れ替わりに成功するが、普段と違い、他者への気配りを見せるルイ14世にダルタニアンは不審を抱き、部下に捜索を命じる。結果、本物のルイ14世を連れて地下水道から脱出しようとするアラミスらが見つかってしまい、計画は失敗に終わる。

ルイ14世の激昂

だが、ルイ14世は弟の存在を明かさなかった皇后を責め、慈悲を乞うダルタニアンの言葉に耳を貸そうともせずに、フィリップがもっとも恐れていたバスティーユへの幽閉を命じる。そしてフィリップは再び鉄仮面を付けられ、バスティーユに幽閉されることになった。その様子を目のあたりにしてダルタニアンの中で初めてルイ14世への諦めの感情が生まれてくる。
そしてダルタニアンは逃亡していたアラミスらにフィリップの居場所を書いた置き手紙を残し、再びフィリップが王座に着くことを三銃士と共に手助けすることにする。
ルイ14世は銃士隊に裏切りの三銃士とフィリップの殺害を命じ、自身も銃士隊と共にフィリップらのもとへ乗り込む。
三銃士は往年の強さを見せつけ、銃士隊をことごとく倒していく。しかし、怒りに支配されたルイ14世は隙をついてナイフでフィリップを殺そうと襲いかかる。その刃をダルタニアンは自身の体を盾にして受け止める。

ダルタニアンの秘密

なぜここまでしてダルタニアンはフィリップを守ろうとしたのか。
フィリップとルイ14世の本当の父親はダルタニアンだったのだ。。王妃であるアンヌ・ドートリッシュとの秘密の情事により生まれたのがフィリップとルイ14世であった。
死の間際にして真実を明かしたダルタニアンにフィリップは「仮面の男はあなただった」と声をかける。
現代までデュマの小説は何度も映画化され、多くの俳優がダルタニアンを演じてきた。しかし、この映画で描かれるダルタニアンは(アラミスら三銃士もそうだが)戦士としての華々しい時代を終え、老境に差し掛かった男だ。ダルタニアンを演じたガブリエル・バーンは、例えダルタニアンのような英雄でも英雄のままではいられず、やがて死という運命に直面するという、今作で描かれる人間らしさに惹かれたという。ランダル・ウォレスも『仮面の男』では人間的な神話を描きたかったと語っている。ルイ14世は事故とはいえダルタニアンを手にかけてしまったことから銃士隊からの信頼を失い、裏切りの目に遭う。
フィリップはルイ14世に鉄仮面を被せ、島へ幽閉することを命じる。
「苦しんだ人民の気持ちが少しはわかるだろう」
そして弟に代わり、フィリップは「ルイ14世」としてブルボン朝の黄金時代を築いていく。

『ブラジュロンヌ子爵』との違い

映画と小説で最も異なる(真逆と言った方がむしろ近い)のはこの結末だろう。

映画ではルイ14世の入れ替わりは結果的に成功し、以降はフィリップがルイ14世となり、「太陽王」と呼ばれ、ブルボン王朝の最盛期を作っていくことになるが、デュマの小説ではクーデターは失敗し、フィリップは再び仮面を着けさせられ、サント・マルグリット島に幽閉される。後日、ダルタニャンとラウル・アトスがサント・マルグリット島のフィリップを訪れるシーンが描かれるが、ムッシュと声をかけたアトスに対して、「私を呼ぶなら『呪われし者よ』と呼んでほしい」というフィリップの言葉が印象的だ。
ハリウッド的なカタルシスを感じられるのは映画版の結末だろうが、論理的に納得できるのはデュマの方の結末だ。ある意味では死よりも辛い人生に耐えられるだけの人格の主であるフィリップを配し、ルイ14世をそのまま王の座に就かせ続けた。

確かにルイ14世はブルボン王朝の黄金時代を築いたが、ルイ14世が崩御した際には民衆から歓喜の声が上がったという。フランス革命の時代になるとその治世への評価も揺らぎ始めていた。
現代でもルイ14世の評価は決して高いものではない。やはり戦争に明け暮れたこと(もちろん、国家を維持するために戦争という解決手段が当たり前の時代でもあったのだろうが)、戦争に加え、ヴェルサイユ宮殿を建設によって莫大な国費を支出し、フランスの財政破綻寸前まで至らせ、民衆を困窮させたことが大きいのだろう。また、ルイ14世は王妃を愛さず、王妃が亡くなった後に数々の女性と浮名を流したことでも知られている。もちろんそれは当時からすれば(子供の死亡率が高かった時代と世継ぎを設けねばならないことから)当たり前だったのかもしれないが、いずれにせよこうした事実を踏まえるとフィリップがルイ14世として生きたというのは無理があるだろう。

ちなみに、余談だが劇中で何度も台詞に出てくる「我らは銃士、結束は固い」という合言葉だが、これは「One for all, all for one」であり、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」が訳としては正しい。なぜこのような原文のニュアンスを汲まない意訳なのかはどうにも理解しかねる部分ではある。

なぜルイ14世は仮面に狼狽したのか?

もうひとつ、映画のなかで押さえておきたいシーンがある。舞踏会に出席したルイ14世のもとに仮面が送られる場面だ。
ルイ14世は仮面を見た瞬間に狼狽し、その場を逃げるように去っていく。
圧倒的な権力をもち、自信に満ち満ちているはずのルイ14世がなぜ?
仮面を被るという比喩表現がある。社会の建前のなかで、組織の役割のなかで私ちの私たちのほとんどは仮面を被っていると言っていいだろう。つまり、本来の自分ではなく、周囲に求められている自分を演じているということだ。

ルイ14世は生まれたときから王になることが定められていた。周囲の人もそれを前提にした振る舞いでルイ14世にしたがった。 つまり、ルイ14世にしてみれば王として扱われる仮面を被った世界と実際の自分は限りなくひとつなのだ。そこには我々の感じるような虚実はない。いや、なかったはずた。
だが、舞踏会の夜に仮面が送られてきたことで、ルイは王という肩書きの虚に気づいたのだ。周囲の人間が従っていたのは自分ではなくて虚である王の方だったのだ。こうなると何を信じれば良いのかわからない。愛でさえも王だから愛されたのか、それともルイの名前がなくても人々は自分を愛してくれるのだろうか。
真実の自分に目を向けることは同時に自分の矮小さと向き合うことでもある。
そして、常に気づかぬまま仮面を被ってきた自分に比べて、どこかに仮面を脱いだ者がいるということもまたルイ14世を圧倒しただろう。仮面に縛られた自分とは違い、その者は既に仮面を不要とする強さを持っているのだから!

「仮面の男」の正体

果たして仮面の男の正体は誰なのだろうか。
冒頭で、その男の名をユスターシュ・ドージェだと述べたが、これも偽名である可能性が高い。本当のユスターシュ・ドージェはルイ14世の幼友達、ルイ・ドージェの兄だという。ユスターシュ・ドージェはフランス軍の士官として働くも、その放埒ぶりから家族にも愛想を尽かされ、ついには1668年にルイ14世の勅令によって逮捕されてしまう。だが、一方でこの ユスターシュ・ドージェが本当に「仮面の男」の正体なのか?という意見も大きい。
たかだかルイ14世の幼友達の兄にこれほど厳重かつ丁重な扱いをせねばならない理由が見つからないからだ。
ユスターシュ・ドージェという名前のみが「仮面の男」に貸し出されたのだろう。
仮面の男の正体についてはさまざまな説が当時から語られていた。
看守のサン・マルスはその正体について訊かれることに辟易し、「トルコの大貴族」や「中国の皇帝」などと出任せに答えていたという。
今日では仮面の男についてはユスターシュ・ドージェであるというのが主流になっているが、その正体は現在の定説ではルイ14世の異母兄と言われているが、2016年に提唱された新説ではユスターシュ・ドージェの正体は元枢機卿であり、ルイ14世の元で実質的な宰相として振る舞ったジュール・マザランの会計係だったのではないかと言われている。
一時とはいえ時の権力者だったマザランは膨大な蓄えがあったが、その一部は英国王室からだましとったものと述べられている。そしてユスターシュ・ドージェは会計係としてその秘密を知ってしまったがために「仮面の男」として幽閉されてしまったのではないかというのが、この説の概要だ。

本来であれば歴史の流れに飲み込まれ、決して浮かび上がることのなかった「仮面の男」が今日まで依然として人々の関心を引き続けているのは実に興味深い。

監督のランダル・ウォレスは「鉄仮面」で描かれていることはいつの時代、どんな状況にあっても人は選択を迫られているという意味で現代と共通しているという。
どんな状況にあっても、それを逆手にとって、自分自身をより良くすることも可能だとウォレスは述べている。

フィリップは仮面を外し、ルイ14世は新しく仮面を着けた。
私たちはどうだろうか。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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