『ロッキー・ホラー・ショー』カルト映画ができるまで

確かあれは中学生の頃だった。大好きなhideのライブレポートを読んでいたら、「hideのライブは『ロッキー・ホラー・ショー』のようだ」との一文があった。
ん?『ロッキー・ホラー・ショー』?そのタイトルは心に引っ掛かったが、当時は映画よりも音楽に夢中だったために再び咀嚼されることなかった。ただ『ロッキー・ホラー・ショー』という名前だけは心の中に留まり続けた。
それから、段々映画に夢中になるようになると、『ロッキー・ホラー・ショー』の名前を目にすることも多くなった。その多くが「時代を越えた」「世界初のカルト映画」とそのオリジナリティやユニークさへの称賛だった。
『ロッキー・ホラー・ショー』を知ってから10年、映画漬けの日々を送るようになっていた私は初めて『ロッキー・ホラー・ショー』に触れた。ポップでアヴァンギャルドでセクシャルでほんの少しのグロテスクさもあった。「hideのライブは『ロッキー・ホラー・ショー』のようだ」という称賛は嘘ではなかった。

『ロッキー・ホラー・ショー』

『ロッキー・ホラー・ショー』は1975年に公開されたジム・シャーマン監督、ティム・カリー主演のミュージカル映画。原作はリチャード・オブライエンの同名のミュージカルだ。

婚約を果たしたブラッドとジャネットは結婚することを恩師のスコット博士に報告しにいくが、その途中で車がパンクしてしまう。二人は助けを呼ぼうと近くの古びた洋館に立ち寄るが、そこではトランスジェンダーのフランクリン・フルター博士とその仲間達が人造人間のロッキーを産み出そうとしていた。
『ロッキー・ホラー・ショー』の試写では映画の途中で客が次々に退席していったという。「映画を観に来た」のならそれも仕方ない。『ロッキー・ホラー・ショー』は他の映画のようにストーリーを追っていては楽しめないからだ。分かりやすく、共感を得やすいハッピーエンドの物語の方が、より多くの観客を集客できただろうし、エンドロールが終わるまで観客を椅子に座らせておくこともできただろう。
だが、それだけの映画はヒットした所でそれ以上のものを残すことはできない。

カルト映画ができるまで

『ロッキーホラーショー』は現在世界で最初のカルト映画として映画史に刻まれている。
『ロッキー・ホラー・ショー』はその制作段階からメジャーに媚びを売ることを拒みつづけた。1970年代の始めにリチャード・オブライエンが暇潰しに書き上げた脚本こそ、のちの『ロッキー・ホラー・ショー』だった。当時、売れない役者で職のなかったオブライエンだが、もともとコミックやホラー映画などが好きだったことからその脚本にもロックンロールやホラー、SFなどの要素やジョークがふんだんに盛り込まれることになった。『ロッキー・ホラー・ショー』の様々な要素が混然と混ざりあった魅力こそ、最初から『ロッキー・ホラー・ショー』の核であったのだ。
オブライエンは合わせて音楽も製作している。これが冒頭で流れる『サイエンス・フィクション/ダブル・フィーチャー』だ。アコースティックギター一本で作られたその曲と脚本を共演歴もあったジム・シャーマンに披露すると、ジムは舞台化を即決。最終段階でタイトルが『ロッキー・ホラー・ショー』となり、主人公であるフランクリン・フルター博士役にはジム・シャーマンとリチャード・オブライエンの共通の知人であったティム・カリーが抜擢された(当初ティム・カリーは人造人間であるロッキー役でオーディションに来ていたという逸話もある)。
こうして、ミュージカルの舞台として『ロッキー・ホラー・ショー』は始まった。

ミュージカル舞台版『ロッキー・ホラー・ショー』

一番最初のロンドン公演は1973年6月19日、ロイヤル・コート・シアターにある小劇場のシアター・アップステアーズで正式に開幕した。なんと座席はわずか63席。しかし、ジム・シャーマンがプロデュース・演出を担当したこのミュージカルは、そのユニークな内容と奇抜な衣装、ダンス、洗練されたロックンロールで観客の度肝を抜き、あっという間に人気ミュージカルへと成長していく。
最初の3週間だけの公演の予定が7月いっぱいに延長され、8月からはシアター・アップステアーズの4倍の広さのチェルシー・クラシック・シネマへ、さらに10月末には約500席を有する、キングス・ロード・シアターへと劇場もより広い場所へと移動していく。
『ロッキー・ホラー・ショー』は1980年9月13日に閉幕するまで、ロンドンに留まらず、イギリスやアメリカ公演も開催されるなど各地で大盛況となった。特にアメリカ公演ではロックンロールのビッグネーム、エルヴィス・プレスリーやザ・フ―のキース・ムーンも舞台に来場した。また1975年にはイギリス・カンパニーを引き連れて、日本にも『ロッキー・ホラー・ショー』は初上陸している。当時は東京、大阪から函館まで、主要9都市を巡る公演だった。
余談だが、アメリカ公演でのキャスト・オーディションではリチャード・ギアやジョン・トラボルタも姿を見せたという。
こうして世界レベルで人気となった『ロッキー・ホラー・ショー』だが、早くも舞台になった2年後には映画化の話が沸き上がる。

そして映画へ

『ロッキー・ホラー・ショー』に最初からプロデュースおよび演出として携わっていたジム・シャーマンはスタジオ側の「人気ロックスターを起用すればより多くの予算を出す」と申し出を蹴り、低予算でもオリジナルキャストでの映画化を目指した。その予算はたった140万ドル。また製作期間も6週間と非常に短期なものだった。 舞台版同様に、この映画版に対しても多くの著名人が候補に挙がっていた。
エディ役は『ファイト・クラブ』でのロバート・ポールセン役でも有名なロック・ミュージシャンのミートローフが務めているが、スタジオが第一候補に考えていたのはエルヴィス・プレスリーだもという。この話はエルヴィス・プレスリー自身ももまんざらでもなかったらしい(最終的に食べられてしまう役だが、本当にキング・オブ・ロックはそれで良かったのか…)。
また、ローリング・ストーンズのミック・ジャガーはフランクリン・フルター役を演じたがっていたとの話もある。こちらはミック・ジャガー自身、デヴィッド・ボウイと関係があったのではないかと言われているだけにぴったりの配役だったかもしれない。だが、最終的には舞台版のキャストが映画版でも続投を務めることに。
ティム・カリーをはじめ、リチャード・オブライエン、パトリシア・クインといったオリジナルキャストのほか、スーザン・サランドン、ミート・ローフなど新規のアメリカ人キャストも加わり映画『ロッキー・ホラー・ショー』は作られていくこととなった。

世界で最初のカルト映画

だが、前述のようにミュージカルの成功とは裏腹に、完成した映画版『ロッキー・ホラー・ショー』は、試写会の途中で観客が次々に席を立つなど、興行的には失敗作としまう。
しかし、各映画館ではそのリピーターの多さが目立ってもいた。コアなファンが確かに芽生えてきていたのだ。
そうした『ロッキー・ホラー・ショー』はリピーターがリピーターを呼び、さらに大きなリピーターを獲得していく。彼らは思い思いの登場人物のコスプレを身にまとい夜な夜な劇場に集っては、映画に向けてツッコミを入れたり、ブラッドとジャネットの結婚式の場面ではコメをばらまいたり(ライスシャワー)、豪雨の場面では水鉄砲を浴びせるなど、徐々に「映画に参加」するようになっていった。
この「観客参加型映画」は当時では非常に画期的なことであり、そうした観客の熱狂ぶりからやがて『ロッキー・ホラー・ショー』は「世界で最初のカルト映画」と呼ばれる作品になった。
以降、40年近く毎週世界のどこかの映画館では必ず『ロッキー・ホラー・ショー』が上映されていると言われる。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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