『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』に見る「結果の平等」の弊害

※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


本当の平等とは何か?

アカデミー賞の選考基準に「多様性」が盛り込まれたというニュースがあった。それ自体には様々な意見があるだろう。
個人的には多様性が受け入れられる社会は素晴らしいと思う。また性差や肌の色などによるあらゆる差別も存在するべきではないと思う。もっと言えば「女性だから抜擢された」「黒人だから主役になれた」といった類いのいわゆる「逆差別」もだ。本当に平等にするならば結果の平等ではなく、機会の平等だろう。求められている条件に合致するのであれば、人種・性別に関わらず広い視野で受け入れるべきだ。

図らずもそのことが皮肉をもって描かれているのが2003年に公開された『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』だ。
何度かこのサイトでも取り上げようとしたが、なんとなくサイトの毛色と合わない気がして今まで紹介していなかった作品だ。しかし、今でこそ本作は再考する価値があるのではないか。
今回は『踊る大捜査線』を題材に本当の平等とは何かを見ていこう。

今作の舞台は『踊る大捜査線 THE MOVIE』から5年後の2003年。SAT の模擬訓練で犯人役を務めることになった湾岸書強行犯係の面々は青島の指示によって逆にSAT を返り討ちにしてしまう。そして3連休の初日11月22日。湾岸署管内ではスリ事件と、女性を狙った通り魔事件が発生する。
青島は会社社役員の変死体を見つけてしまう。それを機に湾岸書は捜査一課の捜査本部が敷かれることになった。湾岸書の面々も日頃の業務を中断し、捜査本部の立ち上げ準備にとりかかることに。湾岸書には警視庁が秘密裏に開発した監視システムであるC.A.R.A.S.(Criminal Activity Recognition Advanced System)が設置され、「警察官僚に男女の差はない」ことのPRも兼ねて捜査一課の沖田仁美が捜査本部長へ抜擢され捜査の陣頭指揮を執ることになる。沖田の指揮下に置かれた室井管理官の命令により、青島と恩田はC.A.R.A.S.を使って市民を監視することになるが、その最中に第二の会社役員殺人事件が起きてしまう。

『踊る大捜査線』の斬新さ

ドラマ『踊る大捜査線』はそれまでの刑事ドラマでは当たり前とも言える過剰演出を取り払ったという意味で画期的なドラマだった。それまでの刑事ドラマというとダーティ・ハリーのように犯人逮捕のためには(現実の法手続きを無視して)なりふり構わず行動するアクションが主体の作品がメインだったが、『踊る大捜査線』は所轄と捜査一課、ノンキャリアとキャリアの対立を描き、警察組織も会社組織とそう変わらないという警察のサラリーマン的な部分を中心に描いていた。
ドラマ最終話の視聴率が20%を越えたら映画化してもいい」という条件をクリアし、1998年に映画第一作目の『踊る大捜査線 THE MOVIE』が公開される。『踊る大捜査線 THE MOVIE』は大ヒットとなり、今でも邦画の実写作品で歴代3位の興行収入記録を持っている。そして、その勢いのまま公開されたのが『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』だ。こちらはなんと邦画の実写としては歴代1位の興行収入記録だ。しかし、冒頭に述べた「結果の平等」の弊害という視点から本作を観た場合、なんとも皮肉の効いた話にもなっている。

女性管理官の沖田仁美

その中心となるのが真矢みき演じる沖田仁美という女性管理官だ。彼女は湾岸書管轄管内で起きた会社役員殺人事件の捜査の陣頭指揮をとる。
『踊る大捜査線』シリーズにおいて、捜査一課は青島らが属する所轄の警察と対立する存在として描かれている。沖田はその設定をひときわ強くしたような存在だ。態度は常に尊大で所轄の捜査官を捨てゴマのように扱う。もちろん、その演出自体、いわゆるエリートのステレオタイプな振る舞いそのものなのだが、最も注目したいのは終盤、犯人を取り逃がすという予想外の事態が起きた時の沖田の反応だ。
彼女は現場経験がないため、想定外の状況に合わせた対応ができず、パニック状態に陥り、見かねた警察庁長官官房審議補佐官の新城から交代を言い渡される。

今の時代であれば女性が事件を円満に解決するという結末が「正解」なのかもしれないが、『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』の公開時は今から20年近くも前のこと。沖田はその場で新城に解任され、捜査は室井管理官が引き継ぎ指揮を執ることになる。警視庁総務部広報課を引き連れ、警察のPRになるからと抜擢されたことからもわかるように、沖田の捜査本部長への登用は世間へのアピールという意味合いも少なくなかった(もちろん、沖田自身の出世欲も高く、利害が一致したと言える)。
だが、それは結果の平等ではないか?機会の平等であれば、沖田は候補者としては室井管理官と同等の階級であり、当然選ばれるレベルにはあったのだろうが、トップで指揮を執る能力としては室井管理官の方が経験もあり、また所轄への理解もあっただろう。

女性の社会進出の後押しには逆効果?

結果の平等のデメリットを見るには今作は適した作品なのだが、女性の社会進出の後押しという意味では完全に逆効果になっているのも記しておきたい。
前述のとおり捜査において予想外の事態が起きた時、この場面も沖田が高圧的な言動をまくし立てるヒステリックなもので、いかにも平常心を無くした女性=ヒステリーという、これまたステレオタイプな演出で、今の時代であれば女性差別だと炎上してしまう可能性もあるのではないだろうか。対応できずにヒステリックに部下や同僚をなじる。
パニックを起こしている沖田を見かねた新城は捜査の指揮を室井管理官に託すのだが、沖田の出番はここで終わる。
つまり沖田は自己顕示欲の強く、傲慢でかつポストのわりに能力の未熟な人物というままでキャラクターとして何のフォローもされることなく物語を去ってしまうのだ。

この描かれ方に関しては映画批評サイトにおいても否定的な意見が少なくない。
パニックになり、ヒステリックに叫ぶなど、ステレオタイプな女性のイメージをそのままキャラクターに当てはめており、それが管理官というポストに求められる有能さとは解離しているという声もある。
だからこそ、沖田のキャラクターは余計に薄っぺらく感じてしまう。

沖田は自己顕示欲と支配欲の強い野心家だ。当然出世欲も強く、トップへ立候補する。それだけならまだいいが、「女性は男性の倍、頑張らないと評価されない」などのセリフにもあるように男女の不平等を感じている人物としても描かれている。これがあるがために「やっぱり女はダメだよな」と受け取られかねない描き方をされてしまっている。もちろん、製作者にそうした意図はないだろうが、PRのために女性枠を利用してトップに立つ→経験不足による失敗→ヒステリーを起こした上にトップを後退させられるという流れを見れば、そう受け止められても仕方がない。

男女平等や女性の社会進出やキャリアの問題を真剣に描くのであれば、深津絵里演じる恩田すみれをより深く掘り下げればいいだけの話だと思う。
彼女は婦警ではなく刑事だ。男社会の中で過去のストーカー被害のトラウマと向き合いながらも逞しく日々を過ごしている女性だ。彼女に「女性だから」という不公平感の足枷をはめればそれだけで良かったのではないか。
沖田という人物を振り替えるとついそう思ってしまう。沖田にはトップに採用されやすい特別な環境があり、そこに入れたが結果を残せなかった。そのことも相まって「女性に管理職は勤まらないのでは?」と思わせてしまう余地がある。なぜか。それは沖田というキャラクターを詰めきれていないからだ。

『踊る大捜査線』の人間描写の浅さ

ここで着目したいのは「沖田というキャラクターの意味」だ。なぜ沖田が『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』には必要だったのか?
映画を面白くするには主人公たちの目的の前に立ちはだかるある程度の障害(負荷)をかけることは必要だ。恋愛映画においてはヒロインの母親が二人の恋愛を邪魔する障壁として描かれるのはよくある話だ。負荷という意味では沖田の存在は本作には必要だった。
沖田が足を引っ張れば引っ張るほど、室井管理官と青島の連携が輝いて見えるからだ。『踊る大捜査線』シリーズの魅力はサラリーマン的な組織の中で、組織の壁を越えた繋がりにある。
それは製作陣もよくわかっている。観客は室井管理と青島の熱い連携が観たいのだ。
「レインボーブリッジ閉鎖できません!」犯人確保に奔走する青島と「青島、確保だ!」そう指示する室井の姿を見て観客は満足する。
結局のところ、沖田の役割は結局この二人を引き立たせるためでしかないのではないか?

『踊る大捜査線 THE MOVIE』は女性が犯人だった。個人的には今まで『踊る大捜査線』シリーズでやっていないこと・・・「女性のキャリアを出したら面白いのではないか?」
そういった奇をてらった思い付きでのキャラクターが生まれたのではないかと推測する。
人物描写の浅さは沖田だけではない。彼女以外にもネゴシエーターとして捜査に関わる真下正義が「声にストレスがない、無職の人間だ」と犯人をプロファイリングする場面があるのだが、無職こそ明日の生活への不安からのストレスがあるのではないか?ストレスがないなら、なぜ犯人たちは自分たちをリストラした逆恨みで会社役員を殺害していたのだろうか?
それ以外にも雑な演出や稚拙なストーリー運びは正直観るのが辛くなる部分もある。
自社のドラマの映画はテレビ局にとってリスクの少ないビジネスという側面もあることは理解できるのだが、それによって作品から「志」が消えてしまうのだ。

『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』は決してつまらない映画ではない。今の時代に向けて「結果の平等の弊害」という側面から問題提起できる作品でもある。
が、人間への深い洞察と描写が足りないために、女性への偏見を描いてしまっている作品とも言えるだろう。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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