『大統領の執事の涙』実話を元に描く、「フォレスト・ガンプ」が伝えなかったアメリカの真実

※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


「この作品は『フォレスト・ガンプ/一期一会』への反論のつもりで撮った」
リー・ダニエルズは自身の監督作である『大統領の執事の涙』をそう紹介した。

『フォレスト・ガンプ』への反論

『フォレスト・ガンプ/一期一会』はアカデミー賞作品賞を始め、多くの賞を獲得した名作映画であることに疑いはないが、第二次世界大戦後から1990年代までのアメリカを舞台にしたこの物語からは本来避けては通れないはずの公民権運動がすっかり抜け落ちている。
リー・ダニエルズ自身黒人であり、常に黒人の生きる現実を映画の中に映し出してきた。
「幼いころから、常に人種差別を感じて生きてきた」
そう語るダニエルズにとって『フォレスト・ガンプ/一期一会』は白人側に偏った映画に映っただろう。

フォレスト・ガンプ/一期一会』は知能指数が人より劣っているが、心優しい青年フォレスト・ガンプの半生を描いた物語だ。幼少期、歩行が不自由だったガンプは装身具を足につけていたが、それを見かけた若き日のエルヴィス・プレスリーが自身のステップにガンプの独特の歩き方を取り入れただとか、ピンポン外交の主役になるなど、巧みに当時の時代の人々を合成させ、フォレスト・ガンプを通じてアメリカの戦後史を温かく描いている。個人的には大好きな作品でもあるし、紛れもなく名作と呼べる映画だが、この作品には実は批判の声も根強い。カウンターカルチャーや公民権運動の隆盛をほとんど無視し、保守的なアメリカの賛美に徹しているからだ。その意味で『フォレスト・ガンプ/一期一会』の示す戦後史はかなりのバイアスがかかっている。
では、『大統領の執事の涙』はアメリカの歴史をどう描いているのか?今回は『大統領の執事の涙』を解説していこう。

『大統領の執事の涙』

『大統領の執事の涙』は2013年に公開されたドラマ映画。歴代のアメリカ大統領に仕えた執事であるセシル・ゲインズの半生を描いた作品だ。監督はリー・ダニエルズ、主演をフォレスト・ウィテカーが務めている。
映画はセシルがホワイトハウスで過去を回想する場面から始まる。その最初の風景は1928年。幼いセシルは父とともに奴隷のように綿花畑で小作人として働いている。すでにリンカーンの奴隷解放令から60年以上も経っているが、依然として南部では黒人差別は色濃く残っている。

リンカーンは合衆国憲法を修正し、法的にも奴隷という身分を無くし、肌の色に関わらずアメリカ国民は全て平等だという理念を実現しようとした。その綿密で激しい攻防は2012年に公開された『リンカーン』で描かれている。
リンカーンは1865年にアメリカ合衆国憲法修正第13条を可決させ、奴隷解放と平等を実現した。だがその直後、リンカーンは暗殺される。そして次の大統領のジョンソンの元で人種の平等は骨抜きになってしまう。リンカーンの目指した人種差別の撤廃は中途半端なまま、実質的な差別はアメリカに残り続けた。

セシルは幼いころ父親を白人の「主人」によって目の前で殺される。主人の支配する農園を抜け出したセシルは街へ向かう。そこでセシルが見たのはリンチを受け、つるし上げられた黒人の遺体だ。このように黒人の命というものは羽根のごとく軽いものであった。
だが、農園の外の暮らしは農園以上に厳しかった。セシルはだが、そこの主人にそして、ホワイトハウスの執事に抜擢される。セシルのモデルとなったユージン・アレンは第33代大統領であるハリー・S・トルーマンのときからホワイトハウスで執事として働いていたが、セシルはその次の大統領であるアイゼンハワーの時からに改変されている。

リトルロック高校事件

「『フォレスト・ガンプ/一期一会』への反論のつもりで撮った」冒頭で紹介したリー・ダニエルズの言葉通り、『大統領の執事の涙』は公民権運動を中心に描かれている。
アイゼンハワー大統領のときにはリトルロック高校事件が描かれる。
リトルロック高校事件とは1957年のアーカンソー州のリトルロック・セントラル高校に黒人の生徒が登校するのを当時の州知事であるオーヴァル・フォーバスが州兵を学校に送り阻止した事件だ。事件の3年前、1954年のブラウン判決によって、白人と黒人の分離教育が違憲となったにも関わらず、リトルロック事件は州知事までもが法を無視し、平然と差別が行われていることを象徴している。
リトルロック市長のウッドロー・ウィルソンは法の遵守をフォーバス知事に求めたが聞き入れられなかったため、アイゼンハワーに軍の出動を要請する。当初は州の権限への介入を躊躇していたアイゼンハワーだが、事件が大きな注目(浴びるようになると、軍の出動を決断し、軍の護衛付きで黒人生徒は高校に登校した。セシルはこのことを「大統領の英断だった」と評価している。

アイゼンハワーが去った後に大統領になったのはジョン・F・ケネディだ。大統領選ではニクソンとケネディの闘いとなったが、当初人種差別の会場に積極的だったのはニクソンの方だった。ニクソンは大統領になった暁には閣僚の中に黒人を加えることを明言していた。また『大統領の執事の涙』でもニクソンがセシルら執事たちの元を訪れ、自身の応援と要望を訊く場面がある。
だが、ケネディがキング牧師の釈放を実現させたことで、次第に人種差別の面でもケネディの人気は上がってきていた。これに関してはケネディは自身の支持拡大のための一つの計算された行動だったが、大統領当選後に起きたキング牧師によるバーミングハム運動はケネディの公民権運動に関する意識を変えた。『大統領の執事の涙』で、バーミンガムでのデモの様子を知ったケネディはセシルにこう言う。
「デモを見るまで私は黒人の苦難をわかっていなかった」
そしてケネディは1963年に人種にかかわらず公共の場で同等の扱いを受ける権利の保障などを盛り込んだ公民権法案を議会に提出するが、審議の途中、ケネディは外遊先のダラスで暗殺される。
この突然の訃報にはセシルも打ちひしがれていた。セシルのモデルとなったユージン・アレンも同様で、彼の息子によると父親が泣いているのを見たのはこの時だけだったと言う。

『フォレスト・ガンプ/一期一会』における公民権運動

公民権運動は『フォレスト・ガンプ/一期一会』でも描かれているが、作品全体に比べてその割合はあまりに小さい。
公民権運動に関して言えば、まずは2人の黒人学生ジェームズ・フッドとヴィヴィアン・マローンのアラバマ大学入学にガンプが遭遇するシーンだろう。そこでは黒人学生の入学に抗議する声明を出したアラバマ州知事のジョージ・ウォレスが映し出され、黒人学生の前に立ちはだかる。

ガンプが生まれ育ったアラバマは最も人種差別が根強く残っていた地域のひとつだ。ジョージ・ウォレスは人種差別主義者であり、「今ここで人種隔離を!明日も人種隔離を!永遠に人種隔離を!」をスローガンに選挙を勝ち上がった。この知事はアラバマの公民権運動を語る際に外せない人物でもあるのだが、もちろん『フォレスト・ガンプ/一期一会』にはほとんど出てこない。このシーンのみだ。ここではガンプは黒人生徒の一人が落としたノートを拾ってあげるというコミカルな演出がなされている。

もちろん実際の黒人への差別はそんなものではない。1955年、アラバマ州に隣接するミシシッピ州で起きたエメット・ティル事件を紹介しよう。当時わずか14歳だったエメット・ティルは白人女性に口笛を吹いただけで白人男性二人から凄惨なリンチを受け殺された。ティルの母親のメイミー・ティルは、この犯行の残忍性を知らしめるために、原形を留めぬほど変わり果て損壊されたティルの遺体をあえて公開し葬儀を行った。一方でティルを殺害した犯人たちは目撃者の証言があったにも関わらず、無罪となった。
『大統領の執事の涙』では公民権運動の歴史とともに、親子の確執も大きなテーマとなっている。そのきっかけとなったのが、このエメット・ティル事件なのだ。

セシルの息子であるルイスはセシルに内緒でメイミー・ティルの集会へ行こうとしていた。セシルは白人への憎しみを増すだけだと言い、集会への参加をやめさせようとする。
しかしルイスは大学への入学を機に公民権運動に強く傾倒していく。
ルイスは2年間で16回も逮捕されるが、ルイスにとっては自らの手で権利を獲得していくための崇高な戦いでもあった。一方でセシルにとってはルイスは大学で勉強もせずに、それどころか自ら命の危険を冒してまで公民権運動に取り憑かれた愚かな息子だった。

『フェンス』

同じような世代間の確執を描いた作品として2016年に公開された『フェンス』という映画を少し紹介したい。『フェンス』はデンゼル・ワシントン監督、主演のドラマ映画。アカデミー賞作品賞にノミネートもされた作品だが、日本では劇場公開されないままビデオスルーで終わっている。

『フェンス』の舞台は1957年。デンゼル・ワシントン演じる主人公のトロイはニグロリーグ(黒人だけの野球リーグ)で活躍した元野球選手だ。トロイは圧倒的な成績を残しながらも、年齢もありメジャーリーグには行けなかった過去がある。しかし、トロイ本人は野球で成功できなかったのは黒人に対する人種差別のためだと固く信じていた。
トロイは言う。「ジャッキー・ロビンソンより俺の方が成績はよかった、あいつがメジャーに行けたのは白人にとって都合がよかったからだ」ジャッキー・ロビンソンは黒人初のメジャーリーガーとなった選手だ。
トロイの子供の一人、コーリーはフットボールで優秀な成績を収め、大学からスカウトの話も出ているが、トロイは黒人がフットボールで活躍できるわけはないと考えコーリーにフットボール選手になることを諦めさせようとしている。コーリーは時代は変わったとトロイに言言うが、字も読めず、テレビもないトロイはその変化を認めようとしない。
1957年のアメリカでは公民権運動が盛り上がり、多くの黒人が同じアメリカ人として白人と同等の権利を求め、立ち上がろうとしている時だ。しかしトロイは自身の経験から「黒人は白人と同等の権利を得ることはできない」という考えに囚われており、その考えが息子たちの教育の根幹にあった。
しかし、トロイは時代の変化についていけず、家庭に息苦しさを感じ、バーの女性のアルベルタと浮気し妊娠させてしまう。

『セールスマンの死』が描く、価値観の変化

『フェンス』の物語は恐らく『セールスマンの死』という戯曲を下敷きにしている。『セールスマンの死』は戦後間もない1947年に初上演された。戦後のアメリカにおいて顕在化してきていた親子の断絶などの問題を描き出した作品だ。
主人公のウィリー・ローマンは昔ながらのセールスマン。彼は額に汗して働き、二人の子供を育て上げた。彼の誇りは無学でありながらも一人前にのし上がり、地域の人に尊敬されていること。しかし、時代の流れか、ウィリーの顧客は減っていく。またウィリーは子供たちにも「勉強なんて必要ない、学がなくても父さんはここまで立派になった」と学問を否定して育ててきた。
だが子供たちは成長しても定職にもつかず、逆に勉強ばかりしていると馬鹿にしていた別の子供は弁護士として成功していた。ウィリーの信じていたことは既に時代遅れになっていた。
またウィリー自身も、自身の浮気がバレたことでそれまで築いてきた「尊敬される父親」の仮面が壊れ始める。
息子の状況の原因は父への幻滅にあった。
そして職もなくしたウィリーは家族にせめてものお金を残すために自動車事故を装って自殺してしまう。

『セールスマンの死』は、それまでの伝統的な家父長制の価値観の崩壊を描いている。また『フェンス』はそれに加えて、黒人の権利意識の変化を描いて見せている。トロイの死後、家の壁にはケネディ大統領、キング牧師の写真が飾られている。どちらも公民権運動に対して多大な貢献をした人物だ。

『フェンス』のトロイには『大統領の執事の涙』のセシルが重なる。トロイの仕事はその地域の黒人に与えられる仕事としては最も良いものだった。セシルも黒人としてはこの上ないほど社会的地位の高い仕事に就いている。もちろん黒人の権利の向上を望んではいるものの、それを行えるのは権力者だけだと思ってもいる。一方で、家庭ではルイスに対して高圧的な言葉を用いて強く服従を求めることもある。いわば、家父長的な価値観をひきずっている人物とも言える。
『セールスマンの死』で描かれたように、その価値観は1950年代の若者には懐疑的に映った。彼らはそれまでの価値観に反抗し、それらはカウンターカルチャーとしてヒッピー文化を生み、公民権運動を盛り上げる力にもなった。
ルイスはこの世代なのだ。自らの手で黒人の立場を向上させ、不屈の精神で平等な権利を獲得しようとしている。

公民権法案の可決

公民権法案はケネディの後を継いだジョンソンの下で可決される。ジョンソンは金持ちのケネディとは違い、テキサス州の貧しい家で育ったジョンソンは男らしさにこだわり、また粗野な人物出会ったとも言われている。『大統領の執事の涙』ではトイレのドアを開けたまま、トイレから部下に命令を下す場面がある。
しかし、人種差別に対してジョンソンの政策はリベラルだと言えた。就任間もない1964年には公民権法を可決させ、翌年には投票権法も署名している。
同じ頃にルイスはブラックパンサー党に入党している。キング牧師の暗殺によって、キング牧師が唱えていた非暴力に疑いを抱いたからだ。しかし、ブラックパンサー党が白人の殺害をも視野に入れていることに気づき、ルイスはブラックパンサーと距離を置くようになる。

ジョンソンの次に大統領の座についたのはリチャード・ニクソンだ。ニクソンはベトナム戦争を終結させたのだが、セシルのもう一人の息子であるチャーリーは軍隊に入り、向かったベトナムで戦死してしまう。その後ニクソンは「ウォーターゲート事件」により辞任。余談だがウォーターゲート事件については『大統領の陰謀』や『フロスト×ニクソン』といった映画で取り上げられている。
ニクソンの辞任後、大統領はフォード、カーターへと変わっていく。
ルイスも大学を卒業し、民主党から下院議員選挙に出馬するが落選する。

次のレーガン政権では、レーガンの後押しもあり、セシルは遂に初めて昇進と昇給を手にする。セシルはレーガンの妻であるナンシーから公式晩餐会に客として夫婦で招待される。
初めて足を踏み入れるホワイトハウスに妻のグロリアは浮き立つ(実際にユージン・アレンの妻も晩餐会の席ではしゃいでよく喋っていたそうだ)。
一方でセシルは自分に給仕する同僚の様子を見ながら、みな「白人向けの顔をしている」ことに気づく。立派な地位には就いたものの、やっていることは綿花畑で小作人だった頃と変わらないのではないか。そう気づいたのだろう。

セシルは晩餐会以降、仕事への情熱が持てなくなっていく。一方でルイスがあらゆる本で人権運動のヒーローとして記載されていることを知る。
そしてセシルはレーガンに辞職を伝える。そしてその足でルイスの下へ向かう。
ルイスは街頭でレーガンの人種政策を批判するデモを行っていた。セシルに気づいたルイスは演説を他の人に代わり、セシルの下へ向かう。「私が間違っていた」セシルはそうルイスに伝え、二人は和解する。セシルは初めてデモに参加し、初めて拘置所に入れられる。

ちなみに『大統領の執事の涙』ではレーガンの人種政策への批判が大きく取り上げられており、人種差別主義者のように描かれているが、これに関してレーガンの息子は「多くの事実を歪曲して描いている」と批判している。
確かに映画の中で描かれているレーガンには悪役の側面もある。なぜ、レーガンはそのように描かれたのか。個人的に深読みしてみたい。

なぜレーガンは悪役として描かれたのか

やはり(何度も繰り返して恐縮だが)「『フォレスト・ガンプ/一期一会』への反論として撮った」という言葉がキーワードだろう。『フォレスト・ガンプ/一期一会』の監督はロバート・ゼメキスだが、ゼメキスの撮った代表的な映画に1985年に公開された『バック・トゥ・ザ・フューチャー』がある。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』はSF映画の名作として人気の高い作品だが、政治的な目で観た場合に1950年代を理想としている作品と評される場合がある。

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の主人公であるマーティとその家族は揃いも揃って落ちこぼれている。それはアメリカそのものの没落を表していた。本作の公開時、大統領だったのがロナルド・レーガンだ。レーガンは「アメリカを再び偉大に!」の愛言葉で大統領選を勝ち上がってきた。アメリカが偉大だった頃はいつだろうか。レーガンにとってそれは1950年代だった。レーガンは保守的な人物として知られる。確かに1950年代は保守的な価値観が多く残っていた時代だ。白人にとっては「古き良きアメリカ」だったかもしれない。
しかし、黒人たちにとってはどうだっただろうか?『バック・トゥ・ザ・フューチャー』では1980年に黒人が市長になっている。しかし、マーティがタイムスリップした1955年ではその男は飲食店の清掃スタッフをしており、社会的な地位の高い仕事に黒人が就くことなど考えられなかった。

『大統領の執事の涙』でも先に述べたように1950年代にもリトルロック高校事件をはじめとして悲惨な人種差別は多く発生している。そんな時代を「アメリカが偉大だった頃」と公言するレーガンへの反発が『大統領の執事の涙』には反映されているのではないだろうか。
そして、物語は2008年の大統領選挙まで一気に飛ぶ。2008年の大統領では初の黒人大統領となるバラク・オバマが大統領に選ばれた。
セシルはオバマからホワイトハウスに招待される。執事がホワイトハウスを案内しましょうかと尋ねるが、セシルは「必要ないよ」と言ってホワイトハウスの中を進んでいく。

実際にオバマは本作を鑑賞し、「私はこのホワイトハウスで働いていた執事だけではなく、有能で熟練した人々の全ての世代のことも考えながら涙ぐんだ。しかしジム・クロウ法や差別のために、彼らの行ける道は限られていた」と感想を残している。

個人的には『大統領の執事の涙』の本当の主人公はルイスではないかという気がする。本作が描いた時代の移り変わりの中で、公民権運動に対して実直に行動しつづけたのはルイスだからだ。もちろん、セシルの思いや彼が仕えた歴代の大統領の考えの変遷なども、大きく変化したアメリカの人種観の移り変わりを表したものだろう。
ルイスを演じたデヴィッド・オイェロウォは2014年に公開された映画『グローリー/明日への行進』ではキング牧師を演じている。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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