『ベンジャミン・バトン』人生の価値とは何か

映画は人生を語ることのできる芸術だと思う。120分というその時間は一つの長い長い旅のようですらある。
個人的には人生に迷ったら本か映画を観ることが多い。『あの頃ペニー・レインと』でも書いたように、物心ついたときからロックミュージックに夢中だったものの、3分間という時間は人生を語るにはいささか短すぎるようにも思う。
さて、人生を語れる映画だが、今回はその一本として『ベンジャミン・バトン』を紹介しよう。
『ベンジャミン・バトン』は2009年に公開された映画で、監督はデヴィッド・フィンチャー、主演はブラッド・ピットが務めている。
この二人のコンビは『セブン』『ファイト・クラブ』に続いて3度目だ。

第一次世界対戦の終わったニューオリンズの夜に一人の男の子が生まれた。彼は生まれたばかりにも関わらず老人の容姿を持っており、気味悪がった父親によって養護施設の前に捨てられた。
そこの管理人である黒人夫婦のクイニ―とに拾われた男の子はベンジャミンと名付けられ、養護施設の老人たちと共に過ごす。
先は長くないと思われていたベンジャミンだったが、年を取るごとに歩けるようになり、次第に人並みに動けるようになっていった。
そして11歳の時にベンジャミンは近所に住む少女デイジーと出会う。

人生は素晴らしい

『ベンジャミン・バトン』のキャッチコピーは「人生は素晴らしい」。確かににその惹句に恥じない内容の作品だ。
今回改めて観直してみたが、素晴らしさは全く色褪せない。物語はベンジャミンの視点から進んでいくが、その成長の時々で垣間見える日々への想いは私たちが人生に感じるものと通じるものがある。
出会いや別れ、人々とのふれあいや愛情、嘘や離別、すれ違い、生きることの喜びと残酷さ。まさに人生の素晴らしさを描いた映画と言って遜色ない作品だが、スコット・フィッツジェラルドによる原作を読むと映画版との大きな違和感を感じるだろう。フィッツジェラルドの原作ではベンジャミンの寂しさや孤独、無力さが強調されている。映画版とはかなり印象が異なるからだ。
どうしてこの違いは生まれたのか、そして無謀な問いは承知だが、その違いから人生とは何かを考えてみたい。

小説と映画版の違い

まず小説と映画版の違いから。
最初は設定の違いだ。原作小説ではベンジャミンが生まれたのは1860年だが、映画版では1918年。場所もボルチモアからニューオリンズに変更されている。フィンチャーによればニューオリンズになったのは予算の都合らしい。
ベンジャミンが老人の姿で生まれるのは同じだが、映画版は背丈も知能も新生児同様であり、言葉もしゃべれない。小説は完全な老人として登場する。生まれたときから言葉も話せ、会話もできる。
また、原作ではベンジャミンは自分を愛そうとしない父と暮らしている。映画版では父は生まれた直後のベンジャミンを捨て、ベンジャミンは施設で育てられる。ベンジャミンは老人たちに囲まれ、多くの人の死とともに成長していく。
映画版のヒロインであるデイジーも登場しない。デイジーはベンジャミンが若返り続けその死期が近づいても彼を愛し続けるが、小説にはデイジーは登場せず、代わりに(とは言ってもこちらが本家ではあるのだが)、ヒルデガルドという女性がデイジーの位置に収まる。しかし、ベンジャミンは彼女を一途に愛し続けることなく、老いを隠せなくなった彼女への愛情が薄れ、彼女のもとを何も言わずに去っていく。
デイジーという名前はおそらくフィッツジェラルドの『グレート・キャッビー』のヒロインの名前からだろう。

このように原作の『ベンジャミン・バトン』は暗く陰鬱な印象が強く残る小説だ。

F・スコット・フィッツジェラルドの人生

日本では『ベンジャミン・バトン』の公開に合わせてようやくフィッツジェラルドの原作も翻訳され出版された。
原作の『ベンジャミン・バトン』が本国アメリカで出版されたのは1922年だった。フィッツジェラルドの短編集『ジャズ・エイジの物語』に収録されている一編だ。
1922年といえば、フィッツジェラルドにとっては人生の第一の黄金期に差し掛かる頃ではないだろうか。長篇に三度目となる『美しく呪われしもの』がヒットした頃だ。
妻のゼルダと享楽的な生活に溺れていく。フィッツジェラルドは人生をどう捉えていたのか。

フィッツジェラルドの研究家によると『ベンジャミン・バトン』は何も考えずに設定の面白さだけで書かれたものであるらしい。個人的にもドラマらしいドラマもなく、設定の奇抜さほど強い印象を残す物語ではなかったのは確かだ。
だが、どんな創作物でもそこに作者の一欠片が刻まれているのではないか?
『ベンジャミン・バトン』からはフィッツジェラルドの人生に対する空虚さが感じ取れる。

F・スコット・フィッツジェラルドは1896年9月24日アメリカ中西部ミネソタ州のセントポールで生まれた。
父のエドワードはフィッツジェラルドが2歳の時に家具工場事業に失敗する。その後はP&G社のセールスマンとして働いてたが、不況によるリストラで再び職を失う。フィッツジェラルドは幼い頃から父に人生の辛さをみていたに違いない。
フィッツジェラルド自身も青年期に多くの挫折を経験している。もともとアメリカン・フットボール志望であったものの、挫折。もう一つの夢であった劇作家として活躍するも、あまりにも劇団にのめり込み、大学の授業に出席していなかったために大学は落第。劇団への参加も禁じられてしまう。フィッツジェラルドは第一次世界対戦への参加を決意する。その中で小説家として成功を夢見るようになる。
フィッツジェラルドが作家として成功して、晩年に至るまで享楽的な生活に取り憑かれていたのは有名な話だ。多くの借金を抱えてまでそんな刹那的な生活を続けていたのも、人生に対する虚無感があったからではないか。
どれだけ成功したとしても保証された未来などない。だとしたら目の前の今を最大限楽しむだけではないのか。
そんな思いに駆られていたとしても不思議ではない。
そのような人生に対する諦感や冷静さはまた『ベンジャミン・バトン』にも反映されている。

エリック・ロスの功績

映画の『ベンジャミン・バトン』においては脚本家のエリック・ロスが大きな役割を負っている。
監督のデヴィッド・フィンチャーは、フィッツジェラルドによる原作を読む前にエリック・ロスの脚本を読み、この作品を監督することに決めたのだという。
エリック・ロスは1994年に公開された『フォレスト・ガンプ/一期一会』の脚本を担当したことでも知られる。『フォレスト・ガンプ/一期一会』ではお笑いの要素の強かった原作から極力笑いの要素を排し、ヒューマニズムを強調した脚本にしているが、今作『ベンジャミン・バトン』でもフィッツジェラルドの原作にある「暗さ」は影を潜めており、ヒューマニズムが強く打ち出されている。

個人的な話をさせてもらうと、この映画に出会ったのは2010年の秋だった。
当時は会社も辞めて人生に迷っていた。その頃は何かしらの「答え」を求めて多くの映画を浴びるように観ていた。この中でも琴線に触れたのがこの作品だったのだ。ネットのレビューを見ると『ベンジャミン・バトン』は長いだけで良さがわからないという声もある。映画にどんな感想を持つかは人それぞれの自由だが、私にとっては「人生とは何か」の一片を示してくれたような気がした。社会に敷かれたレールを早々に外れてしまった自分自身と、人とは違う星のもとに生まれたベンジャミンを重ね合わせて観ていたのかもしれない。

ベンジャミンのように何もかもが人と違う人間は人生の真実に何を見いだすのか?

『ベンジャミン・バトン』と死

監督のデヴィッド・フィンチャーは父の死がこの映画に関わるきっかけの一つになったという。
「人の誕生以上に人の死には心を揺さぶられた」

フィンチャーは今作を「死」についての映画だという。    ベンジャミンの人生は数多くの出会いと死に彩られている。
「死は常に訪れた 誰かがいなくなると誰かが入ってきた」ベンジャミンは暮らしをそう回想する。
養老施設で育ったベンジャミンとって死はとても身近だった。青年になり、船乗りになった時も乗船していた船の船長や乗組員の仲間を戦争によって亡くしている。
「天国はいいところだ  船長を待ってる」
運命の女神を呪いたくなる、死を目前にしてそう口にした船長にベンジャミンが伝える言葉だ。幼い頃から多くの死に触れてきたベンジャミンだから言えるセリフだろう。

そして、ベンジャミンはかけがえない親の死も経験する。

父親のトーマスはある時、売春宿で元気のいい老人の話を聞く。
それが息子のベンジャミンだった。時おり交流を持つようになったふたりだが、ある時トーマスは自分の余命がそう長くないことに気づき、自らがベンジャミンの父親だと打ち明ける。トーマスはボタン工場の経営者で社会的に成功し裕福なのだが、孤独な人生でもあった。売春宿に通っていたのも孤独を癒すためだったのだろう。
フィンチャーはトーマスがベンジャミンに父親だと打ち明けたのは人生の終わりに息子に愛してほしかったからではないかと述べている。

そして余命わずかになった父親をベンジャミンは湖に連れていき、二人で朝日を見る。
「妙な責任感や罪悪感は感じないでほしい、ぼくは幸せに生きてきたのだ。父を恨んでいない」
セリフこそないが、そういう思いをベンジャミンは持っているとフィンチャーは言う。確かにトーマスには捨てられたが、それがなければクイニ―達には出会えなかった。

トーマスと養母であるクイニーの違いはそれぞれの葬儀でより鮮明になる。実の父であるトーマスはボタン工場を経営し非常に裕福だったが、その葬儀は孤独で寂しい光景が写し出される(フィンチャーは「ベンジャミンの父親は裕福で影響力もあるのに誰にも注目されないんだ」と語る)。棺の中に横たわるトーマスの手にベンジャミンが持たせたのはトーマスの生きた年齢と同じ数のボタンの入った瓶だ。トーマスにとっては成功の象徴でもあるだろうが、逆に言えば人生の中で最後まで残ったのは仕事しかなかったとも言えるのではないか。
クイニーは裕福ではなかったものの、トーマスとは対称的に葬儀はゴスペルが響き、多くの人が集い、その死を悲しみ、穏やかに故人を悼んだ。
この場面からも人生の本当の喜びとは何か、幸せとは何かの一片が問いかけられているように思う。

永遠とはなにか

原作になくて、映画にあるものの1つが「永遠はあるのか」という問いだ。
フィッツジェラルドの原作ではデイジーにあたるは年を重ねるごとに増えていくベンジャミンとのすれ違いに苦しみ、ベンジャミンの元を去る。ベンジャミンは残された息子のラスコーとともに暮らすが、ラスコーにとっても若返り続けるベンジャミンは悩みの種になってしまう。やがてベンジャミンは乳母に抱かれたまま、全てを忘れ永遠の眠りにつく。
これが原作におけるベンジャミンの人生だ。
フィッツジェラルドの人生に対する刹那的な思いが反映されているような内容だが、映画では逆に永遠が一つのテーマになっている。

父を亡くした後にベンジャミンはニューオリンズに戻っていたデイジーと結ばれる。デイジーとのハネムーンのシーンでベンジャミンはデイジーとベッドを共にし、不意にこう言う。
「永遠はないんだなって」
若返り続けるベンジャミンと、年を重ねていくデイジーが「釣り合う」時間はほんの僅か。ましてベンジャミンはあらゆる関係や物事はいずれ消えてなくなっていくことを若い頃から多く経験してきている。全てはいつか目の前から消えてしまう。それがベンジャミンの人生観だ。

そんな中デイジーが妊娠し、子供ができたことがわかる。そのことは改めてベンジャミンに突きつけられた現実でもある。デイジーから妊娠を打ち明けられたときに一瞬ベンジャミンは困惑した表情を見せる。
ベンジャミンは子供を持つことで初めて未来に責任を持つことになった。だが、ベンジャミンの未来は若返って子供になることは避けられない。それが彼の現実だ。
フィッツジェラルドの原作でのベンジャミンは無邪気に若返っていくことを楽しんでいる面もある。だが、映画版ではその事実を淡々と受け入れるだけだ。幼い頃から老人たちに囲まれて育ったことを思えば、こちらの方がリアルだと言えるだろう。「永遠はない」その言葉には若さもまた、ただいつか過ぎていくものだというニュアンスも感じられる。
ひたすら若返っていくベンジャミンが普通の人と歩調を合わせられるのは人生のわずかな期間だけだ。ベンジャミンもデイジーもそれはわかっている。ベンジャミンは若返りつづける自分は娘の父親でいることは難しいと悟り、デイジーと娘のキャロラインを置いて、ふたりの元を去っていく。

ただ一度、ベンジャミンはニューオリンズに戻ってくる。初老になったデイジーと再会したベンジャミンはこう言う。
「永遠はあるよ」
ちなみにここの元のセリフは「some things you never foget」であり、忘れられないものが君にもあるだろうという意味合いに近い。ベンジャミンは変わらない想いを指して永遠と言っている。

ハチドリと時計の意味

ハチドリが映画には何度か登場する。ハチドリは8の字を描いて飛ぶことからその名前がつけられているが、永遠を象徴する鳥でもある。監督のデヴィッド・フィンチャーもそのような象徴としてハチドリを使っているようだ。一部では『ベンジャミン・バトン』のハチドリは『フォレスト・ガンプ』で言うところの”羽”ではないかと言われているようだが、これに関してはフィンチャーが明確に否定している。
『フォレスト・ガンプ』の羽は映画の世界に私たちを連れていってくれるアイテムだ。
それは「人生とは」を表すかのように風に揺られフォレストの足元に舞い落ち、『フォレスト・ガンプ』の物語が始まっていく。そしてラストシーンにはフォレストの足元から再び羽根が舞い上がり、物語の幕を閉じる。
『ベンジャミン・バトン』におけるそれは逆向きに動き続ける時計だろう。盲目の時計職人のガトー氏が戦争で亡くなった息子が再び戻ってくるようにとの願いを込めて製作されたものだ。
フィンチャーはこの時計を映画における音詩のようなものだと述べている。時計のエピソードは脚本家のエリック・ロスが付け加えたものだが、本編には必要ないという声も多くあったそうだ。個人的にはフィンチャーの言うように『ベンジャミン・バトン』という作品を象徴するものであると同時に、現実世界から映画の世界へ観客をスムーズに誘導する橋渡しのような役割も負っているのではないかと思う。

刹那的でブラックコメディとも呼べるフィッツジェラルドの原作に対して、映画の『ベンジャミン・バトン』はキャッチコピーの通りに人生の素晴らしさを緻密に繊細に描いてみせた。フィッツジェラルドの原作については、「多くの人が若さをないがしろにしているのではないか?」との想いを込めて書かれたのだろうというもある。
だが、映画では若さの価値よりも、むしろ老いや若さにとらわれない価値を描いている。逆向きに進む時計も、普通の時計も、結局は同じ時を刻んでいるのだ。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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