『ファイト・クラブ』なぜ男はタイラー・ダーデンに憧れるのか?

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※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


「これは性欲の代わりに暴力を刺激するポルノだ」著名な映画評論家のロジャー・イーバートは『ファイト・クラブ』をそう評した。
その意見には概ね同意できる。特にポルノという意味では。

『ファイト・クラブ』

『ファイト・クラブ』は1999年に公開されたデヴィッド・フィンチャー監督、エドワード・ノートン、ブラッド・ピット主演の映画だ。

主人公である「僕」は大手自動車会社でリコールの調査を担当し、全米を飛び回っている。社会的地位も金もあり、高級な家や衣服を揃え、満ち足りた生活をしているが、「僕」は半年ほど不眠症に悩まされ続けていた。
医師に相談し、自分よりもっと大きな苦しみを持った非とがいると睾丸ガン患者の集いに参加することにした「僕」は、そこで彼らともに涙を流すことで不眠症の症状は驚くほど改善する。こうして自助グループに次々に参加するようになった「僕」だが、いつしかそこには自分と同じく、患者だと偽って参加している女性(マーラ・シンガー)がいることに気づき、再び不眠症となってしまう。

そんな中、仕事へ向かう飛行機のなかでタイラー・ダーデンという男と知り合う。タイラーは非常時の説明書を見てこう言う。
「なんで酸素マスクをつけると思う? …酸素でハイにするのさ。乗客はパニックになり、大きく息をする。酸素の作用でハッピーになり、運命を受け入れる。これを見ろよ。これが時速千キロで海面に不時着するときの表情か?」

タイラーは何もかも「僕」とは正反対の男だった。
「殺人、犯罪、貧困、誰も気にしない。それよりアイドル雑誌にマルチ・チャンネルTV、デザイナー下着、毛生え薬、インポ薬、ダイエット食品…何がガーデニングだ!タイタニックと海に沈めばいいんだ!」

ある事故で住む家も連絡先も失った「僕」はメモにあった連絡先からタイラーに助けを求めた。タイラーと飲んだ帰り道、ふとしたことから「力いっぱい俺を殴ってくれ」とタイラーに頼まれる。「僕」とタイラーが駐車場で殴り合いを始めると、そこには多くの見物人が集まってくる。タイラーは場所を地下室に移し彼らとともにファイト・クラブという集まりを結成する。

理屈ではなく、生理に直接訴えかけるという意味ではイーバートの言うように間違いなくポルノだ。

チャック・パラニュークと『ファイト・クラブ』

『ファイト・クラブ』の原作はチャック・パラニュークの同名小説。パラニュークは1962年にワシントン州のパスコという町で生まれた。
パラニュークという名字はウクライナ系の名字で、祖父はウクライナからの移民だった。まだパラニュークが生まれる前だが、祖父は口論の果てに自身の妻を射殺し、自殺したという。パラニュークはオレゴン大学でジャーナリズムを専攻する。しかし、その後、職には恵まれず、ジャーナリストとして働いた後はディーゼルトラックの整備工として働いていた。この頃は学業ローンもあり、したくもない仕事をしていたとう(溶接工の方が給与が高いらしく、「なぜ学校で溶接を学ばなかったのかと思った」と述べている)。
そして仕事の傍らにホスピスやホームレスの宿泊施設などでボランティアを行っている。きっかけは知人に誘われた教会で「ホスピスの患者を外に連れ出せ」と書かれたメッセージカードを受け取ったことだ。
当時は(映画『フィラデルフィア』に描かれているように)HIVの全盛期でもあり、多くの患者が死を待っている状況だった。
あくまでボランティアとしてホスピスに向かい、パラニュークは患者達を自助グループに連れ出した。当然グループが終わるまでパラニュークは隅で待っていたければならない。すると他の患者たちはパラニュークを重病人だと勘違いし、優しく接してくれるようになったという。そして、その翌朝には精神状態が良くなっていることをパラニュークは実感した。パラニューク自身は健康であるにも関わらず、患者という目で見られることに罪悪感を覚えながらも、自助グループに「現代的な教会」としての役割も見いだしている。

言うまでもないが、パラニュークのこの経験は『ファイト・クラブ』で「僕」が不眠症を治すために自助グループに参加する場面に活かされている。「僕」とっての自助グループは教会だったのだ。
そもそもの「ファイト・クラブ」という集まりも、パラニューク自身の経験が元になっている。パラニュークは突発的に集まって悪戯を仕掛ける「不協和音の会」というクラブにも属していた。そこでは休日の度に山奥に集い夜通しで殴り合いの喧嘩もしたという。

パラニュークは33歳の時に作家を志し。小説教室やワークショップに通った。一方でパラニュークは自身が生活の中で感じる怒りや不満を代弁している本がないことに気づいた。
「何かを読もうとしても、いつも失望していた。図書館で50冊の本を選んでも読みたい本は一冊もなかった」
だったら自分で書こう。それが『ファイト・クラブ』の動機になった(加えて最初に書き上げた小説を編集者に「不快すぎる」と没にされたことも『より編集者に嫌な気分を味わわせたい』という意味で動機になっている)。
パラニュークは言う。
「本の大部分は友人から聞いた話や一緒に思いついた話に基づいている。父親を切望している人たちに対するテーマ、ライフスタイルの基準を広告に強要されることに反発する人たちのテーマは身近なテーマだ。執筆するより、人々と接し、死の話を聞いて口述筆記をしたという方が近いかもしれない」
『ファイト・クラブ』ではタイラー・ダーデンがウェイターの仕事をしているときにスープに小便を混ぜたり、あるいは映画を流す仕事をしているときに家族向け映画の一コマにポルノを挿入する悪戯が描かれているが、これも実際にパラニュークの友人が行っていたことだという。

「親や教師や上司から、私たちはさまざまな価値観やルールを押し付けられてきた。そしてその枠組みの中で精一杯、頑張って生きている。
けれども満足感は得られない。なぜならそれらは、自らの感覚に基づいて生み出された価値観やルールではないからだ。
しかもそれが達成できているかどうかを決める権利は常に他人にある。だから私たちは、いつまでたっても自分の人生をコントロールする力を得られない。
だったらルールを作る側に回ればいいじゃないか。
君たちには内なる力などない、と教え込まれることで、私たちは力を奪われている。でも本当は、秘められた力をひとりひとりが持ち合わせているのだ。その力の存在に気づくことができれば、今度はルールを作る側に回れるだろう。そうすれば、他の人から見てどんなに失敗の人生だろうが、自分なりの満足感は得られるのではないか」

ビレッジ・ボイスのヒラリー・ジョンソンは
「男性という種族の大規模な社会的・経済的衰退が間近に迫っている。男たちは仕事でも学校でも家庭でも挫折している。理屈では、現代の知識と技能志向の世界が、基本的に男性ホルモンの一種であるテストステロンを受け入れないからだ」と『ファイト・クラブ』について評した。
パラニュークはその評にこう答えた。「僕たちは自然界の動物であることにそんな喜びがあるのかさえ忘れてしまった動物だ。一種のごまかし、非現実的な世界に守られていて自分たちの生存能力がどれだけのものかわかっていない。挑戦されたり試されたりしたことがないからだ」
実際に1993年には23歳の若者クリストファー・マッカンドレスが文明から離れて何もない荒野で生きようと一人アラスカを目指した。彼もまた、大人になるまで押し付けられていた価値観を強烈に拒否して自らの価値観で思うままに人生の歩みを進めていった一人だ(クリストファー・マッカンドレスの人生は2007年にショーン・ペンの手によって『イントゥ・ザ・ワイルド』として映画化されている)。

原作と映画版『ファイト・クラブ』の違い

ただ、あくまでパラニュークの小説は原作に過ぎない。パラニュークの小説だけを追ってはいけない。
『ファイト・クラブ』は原作小説と映画版で差異も多い。
例えばタイラー・ダーデンと「僕」が出会う場面は原作ではヌーディスト・ビーチだが、映画版では前述の通り、飛行機の中だ。
だが、最も大きな違いは結末だろう。

タイラーと「僕」が始めた「ファイト・クラブ」はやがて巨大な組織になり、「プロジェクト・メイヘム」というテロ計画を実施するようになる。メンバーはスペース・モンキーと呼ばれ、彼らは資本主義の象徴とされるクレジット会社や大企業のビルを爆破するテロを実行する。
「僕」は暴走するタイラーを止めようとするが、メンバーはみな不思議そうに「僕」を見る。なぜか。タイラーは「僕」自身だったからだ。「僕」が脳内で作り出したもう一人の自分の理想像、それがタイラー・ダーデンだった。
ファイト・クラブを始めたのも、プロジェクト・メイヘムを始めたのも、テロを命じたのも「僕」が行ったことだった。
そして、未だに消えないタイラーは「計画を知りすぎている」としてマーラの殺害を仄めかす。「僕」はマーラを救おうとテロを止めるために行動する。

原作では「僕」はタイラーを止めるために自殺する。テロが成功したかどうかは描かれない。
だが、映画版ではテロは成功し、崩れ行くビルの中で「僕」とマーラが手を繋いでいるシーンで幕が下りる。
フィンチャーはこのエンディングについて「最後にムカつく企業を全部ブチ壊しちゃおうと思った」と述べている。
フィンチャーが『ファイト・クラブ』で描きたかったことは「なぜ我々はここにいるのか」「何のために我々は生きるのか」という問いだったという。
パラニュークの原作に比べるとある意味ではフィンチャーの監督した映画版は過激だ。だが、その思想には共通するものがある(フィンチャーは「『ファイト・クラブ』の思想は原作者のジャック・パラニュークのものだ」と述べているが)。
ただ、「何のために生きるのか」という問いはこれまでデヴィッド・フィンチャーが繰り返し映画の中で取り上げてきたテーマだ。

『ゲーム』では孤独な大富豪があるゲームを通して、自分の生き方を見つめ直していく。
ゾディアック』では連続殺人犯の犯人探しに魅せられた男が自分の人生を犠牲にして犯人の正体を追い続ける。
ベンジャミン・バトン』では老人の姿で生まれた男が成長するにしたがってどんどん若返っていく話だ。主人公の男は人と違う人生で生きる価値を探してゆく。

資本主義の幻想と限界

幼い頃、栄養ドリンク『リゲイン』のCMで「24時間戦えますか」と流れていたのを覚えている。今なら炎上必至のキャッチコピーだが、当時は一生懸命身を削って働くことが美徳であり、かつ実際に金もそれによる幸せも得られたのだろう。
だが、バブルは崩壊し、リストラが横行しや非正規雇用は増え、賃金はこの30年ほとんど上がってはいない。「頑張れば報われる」はその時代の後押しを受けただけの夢だったことが次第に明らかになっていった。
1999年にはそんな世相を反映して「癒し系」というジャンルが流行した。女優の優香や井川遥も当時はグラビアアイドルで癒し系の代表格だった。その少し前の1994年には缶コーヒーのジョージアはそれまでのイメージの脱却を図り、飯島直子らをCMに起用した。このCMは「男の安らぎ編」と名付けられ、癒しをテーマにしたものだった。

癒しとは違うが、資本主義の幻想に疲れたというのはアメリカも同じだっただろう。その中で人気となった作品が『ファイト・クラブ』だった。
『ファイト・クラブ』には男を奮い立たせるような名言が溢れている(それらはしばしば男尊女卑のマッチョイズムとも批判されたが)。

「すべてを失って、初めて真の自由を得る」

「君たちは伸びるべき可能性を潰されている。宣伝文句に煽られては要りもしない車や服を買わされる。世界大戦も恐慌も経験していないのに、毎日の生活は大恐慌だ。テレビは『君も明日はスーパ―スターか億万長者』と言うが大ウソだ。そんな現実を知り、俺たちはムカついている」

「ワークアウトは自慰行為だ。男は自己破壊を」

「職業がなんだ? 財産がなんの評価になる? 人は財布の中身でもファッションでもない」

『マトリックス 』と『ファイト・クラブ』

そして、もう一つ、真実の追求をテーマにした作品が公開された。『マトリックス 』だ。
この2本が同じ年に公開され、絶大な人気を持ったことは重要な意味を持つ。パラニュークも「男性の持つメタファーを描いた作品は『ファイト・クラブ』と『マトリックス』しかない」と指摘している。
『マトリックス』は今で言う異世界転生モノの原型とも呼べる作品で、主人公はダメサラリーマンだが、それは架空の世界の話で、現実の世界では救世主だった!という内容だ。本当の自分を求めるというテーマは『ファイト・クラブ』と同じたが、アプローチとしては全く異なり、ある意味では現実に疲れた大人たちへのファンタジーとも言えるだろう。この辺りはウォシャウスキー姉妹のオタク趣味が存分に発揮されている。
対して『ファイト・クラブ』は現実を生きる観客たちへの強烈なアジテーションだった。
原作小説の『ファイト・クラブ』(新版)のあとがきにはパラニューク自身が映画『ファイト・クラブ』が公開されてから今までの『ファイト・クラブ』がらみのエピソードが数多く紹介されている。
ヴェルサーチが新作のメンズ・ウェアに『ファイト・クラブ・ルック』と命名したり、大勢の若者が手の甲に苛性ソーダでキスマークをつけたり、世界中の若者が「タイラー・ダーデン」への氏名変更手続きをしたり、そして世界中に「ファイト・クラブ」が作られ、死ぬまで殴り合うということもあったという。

映画の中の暴力

『ファイト・クラブ』の強烈さを今の時代で例えれば『ジョーカー』のようなものだろうか。現実での暴力は許されることではないが、実際に『ジョーカー』も映画の影響を受けた人々が暴力的な犯罪を起こしてしまっている。
だが、それぞれの時代に、その時代の暗部を突くような鋭さをもった作品は作り続けられてきたのだろう。
『時計じかけのオレンジ』、『タクシードライバー』、『ファイト・クラブ』、『ジョーカー』など。それらに誘発されて犯罪を起こすのは映画に対する理解の浅さだろうが、いずれも議論を呼ぶ作品であることは確かだ。
「僕」を演じたエドワード・ノートンは『ファイト・クラブ』が人々の議論を呼ぶ作品なら、それは求めていたことだと述べている。また、監督のデヴィッド・フィンチャーも「かなりの人がうんざりしないようだったら、僕たちは何か大きな間違いを犯したと言うことだ」と語っている。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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