『アメリカン・サイコ』妄想か?現実か?結末に隠された意味とは

クリスチャン・ベールはいわゆるカメレオン俳優としても知られている。役柄によって極端に見た目を変えてしまうからだ。
2004年に公開された『マシニスト』では1年間不眠症の主人公を演じるために80㎏から55㎏まで体重を落とした(本人としてはもっと落としたかったそうだが、医者に止められたという)。また2013年に公開された『アメリカン・ハッスル』では100㎏を超えるまでに体重を増加させている。
2000年に公開された『アメリカン・サイコ』でもすでにこの役作りへの貪欲さが表れている。

『アメリカン・サイコ』

『アメリカン・サイコ』は2000年に公開された、メアリー・ハロン監督、クリスチャン・ベール主演のサイコスリラーだ。
クリスチャン・ベールが演じるのはニューヨークで贅沢な暮らしを送るエリートビジネスマンのパトリック・ベイトマン。

彼らは食事した店や日焼けサロン、ジムの店を競い合う。特にどこで食事するかは彼らのステータスにも直結している。予約もとれないほどの人気の店で食事するのがその人を測る一つのバロメーターなのだ。
この作品では目立った体重の増減こそないものの、ベイルは数カ月間ワークアウトと日焼けを行い、エリートビジネスマンとして完璧な肉体を手にしている。
だが、ベイル演じるベイトマンには夜な夜な快楽殺人を犯すという別の顔があった。

残虐描写の陰に隠れた風刺

『アメリカン・サイコ』の原作はブレット・イーストン・エリスが1991年に出版した同名小説だ。エリスは1961年にで生まれた。1991年に出版した小説『レス・ザン・ゼロ』のヒットによって若くして豊かな生活を送り、流行を追いかけていくようになる一方で精神的に荒んでいったという。その実体験から『アメリカン・サイコ』は生まれた。
だが、原作の『アメリカン・サイコ』はその猟奇的で残酷な殺人描写から当初の出版社から出版拒否されたり、抗議運動が巻き起こったりもした、いわくつきの小説でもあった。

映画版の『アメリカン・サイコ』の主人公として当初オファーされていたのはレオナルド・ディカプリオだったが、彼のマネージャーは「キャリアに傷をつけることになる」との判断し、ディカプリオは結局この役を見送っている。クリスチャン・ベールもまたエージェントから「キャリア上の自殺行為になる」と忠告されていたが、ベール自身はそのような忠告を逆に「面白いと感じて」出演。結局はこの作品によってクリスチャン・ベールは俳優としての評価を確実なものにしていく。
クリスチャン・ベールが本作への出演を決めたのはエージェントへの反発からだけではなく、原作小説の中に現代社会への風刺を感じたからだ。クリスチャン・ベールは『アメリカン・サイコ』公開時の来日会見で以下のように述べている。
「皆も知っているように、アメリカでは(小説の『アメリカン・サイコ』)はかなり物議を醸した。批評家なども暴力の部分を扱っていて、残念ながら本の中にある風刺の部分や知性は無視されてしまった。映画版の脚本を読んでみると、もちろんコメディそのものではないが、かなり笑えるところも多かった。主人公のパトリック・ベイトマンの行動の突飛さに、クスっと笑ってしまうところが非常に多かったんだ」
それこそが監督のメアリー・ハロンが映画のなかで伝えたいことだった。『アメリカンサイコ』のメイキングの中で彼女はこう語っている。
「小説は残虐なシーンを多く描いているけれど、映画では殺人シーンは控えたの。猟奇殺人を描くつもりはないから」
「本作はニューヨークのエリートを通して1980代後半に対する社会風刺を描いている」
それは消費社会や資本主義の行き過ぎた姿だ。

『ウォール街』

同じテーマを真っ向から扱ったのが1987年に公開されたオリバー・ストーン監督の『ウォール街』だ。『ウォール街』ではレーガン政権の元で急激に拡大した金融業界を描いている。
その中でマイケル・ダグラス演じるウォール街の投資家、ゲッコーはこう言う。
「強欲は善です。強欲は正しい。 強欲は導く。 強欲は物事を明確にし、道を開き、発展の精神を磨き上げます。欲にはいろいろあります。生命欲、金銭欲、愛欲、知識欲・・・人類進歩の推進力です」
ゲッコーは「金儲けはセックスより気持ちいい」と言い、常に情報を追い、取り憑かれたように金を稼いでいく。ゲッコーは言う。「私はダーツを投げない。賭けるだけだ」つまり、ゲッコーは会社を買収するが、実際に会社のために働くわけではない。会社の売買によって利益を得ているわけだ。『アメリカン・サイコ』のベイトマンも同じで、彼は実父が所有するM&Aの会社で働いている。

オリバー・ストーンが『ウォール街』の準備のために実際にニューヨークの証券取引をリサーチした時は、目を痙攣させながら必死に取引するブローカーがいる一方で、毎日パーティー、ドラッグ、セックスばかりという成功者もいたという。
ベイトマンは明らかに後者だろう。ゲッコーは稼ぐことが生き甲斐だが、ベイトマンは違う。ゲッコーはセックスより金儲けを行うが、ベイトマンはポルノを観ながら、街で拾った娼婦と複数プレイを楽しんでいる。
だが、それでもベイトマンは満たされない。彼の生活も、また彼自身も空虚だからだ。

名刺の勝敗

ベイトマンは一流レストランで仲間とこれからの社会について話す。女性差別の撤廃や、核兵器やテロ、飢餓について、どうにかしなくてはならないということを語るのだが、それはベイトマンが「良い顔」を演じているに過ぎない。周りもベイトマンの話に「感動した」とは言うのだが、単に合わせているだけだ。ベイトマンの周囲、そしてベイトマン含めてすべてが華やかではあるけれども、実態がないのだ。ベイトマンは自分自身を持たずに流行を追い続ける消費社会に浸かった、当時の人々の象徴でもある。
その空虚さが極まるのが名刺シーンだ。ベイトマンとその仲間の各々が自分の名刺のセンスとクオリティを自慢し合うのだか、ここでの勝敗が人生の一大事のように描かれているのがバカバカしくて思わず笑ってしまう。
ちなみに同僚のポール・アレンが自分より圧倒的にセンスの良い名刺を作っていたことが原因でベイトマンはアレンを殺す。これも一種のブラックジョークなのだろう。

『ファイト・クラブ』

『ウォール街』の公開と同時にブラックマンデーが起き、金融バブルは弾けるのだが、その後も同様の資本主義や新自由主義の拡大と空虚さは生き残ってきた。
1999年に公開された『ファイト・クラブ』はまさにそんな作品であり、エドワード・ノートン演じる主人公の「僕」は高級なアパートと高級な家具、流行のアイテムを揃えた物質的には満たされた生活を送っているものの、日々の空虚さに眠れない日々を過ごしている。
「僕」は自分と真逆のスタイルの男のタイラー・ダーデンと出会い、彼と殴り合いをすることで生きている実感を得る。
ベイトマンはそれがさらに極大化しており、もはや殺人でしか生きている実感を得ることができない。
ベイトマンは自宅で様々なビデオを観る。ブラウン管の中に映し出されているのは彼の秘められた願望だ。映画の序盤ではそれはポルノだったが、 中盤には『悪魔のいけにえ』が映し出される。

『悪魔のいけにえ』

悪魔のいけにえ』は1974年に公開されたホラー映画で、テキサスの片田舎で旅行者を襲い、その肉を食べて暮らしている一家を描いた作品だ。
ベイトマンの中での殺人衝動が抑えられなくなっていることがわかる。
ベイトマンのキャラクターは複数のシリアルキラーを合わせたものだが、個人的にはハンサムなマスクと明晰な頭脳の一方で殺人衝動がエスカレートしていったテッド・バンディと重なる部分が多いように思う。映画版では描かれないが、切り取った女性の頭部にフェラチオさせるといったベイトマンの行為も実際にバンディが行ったものだ。
ベイトマンは二人の娼婦を空き家となったボール・アレンの部屋に連れ込み、一人を殺す。そして反抗を目撃したもう一人をチェーンソーで追いかけ回す。
これは言うまでもなく『悪魔のいけにえ』に登場するレザーフェイスの模倣だ。レザーフェイスの凶器はチェーンソーであり、それを抱えて逃げる女を追いかけ回した。レザーフェイスはエンディングで女を取り逃がすが(ベイトマンのテレビに映っていたのはこの場面)、ベイトマンは逃げる女をチェーンソーで殺す。

罪とカタルシス

衝動が抑えられないベイトマンは街で手当たり次第に人を殺すようになる。
ATMで金を下ろそうとすると、カードを入れる画面には「猫を入れてください」と表示され、猫を抱えるが、それを怪しんだ老婦人を撃ち、管理人も撃つ。追ってきた警官とも銃撃戦になるが、ベイトマンの発砲した銃弾はなぜかパトカーもろとも爆発させてしまう。しかし、警察はヘリまで出動させる。もう逃げられないと判断したベイトマンは弁護士の電話に留守電を吹き込み、自身の罪をすべて告白する。
これでベイトマンは逮捕されるのだろうか?彼のもはや病的な衝動は収まるのか?

『アメリカン・サイコ』と『ウォール街』は同じテーマを扱っていながら、結末は正反対だ。
『ウォール街』の主人公はゲッコーではなく、彼の弟子となる証券マンのバドだ。
『ウォール街』ではゲッコーが倒産寸前にあるバドの父の会社を買収によって救おうとする。バドの父は額に汗して地道にコツコツ働いてきた飛行機整備士だ。しかし、ゲッコーの本当の思惑は会社を買収したあとに、バラバラに分割し、それぞれ売却するという計画だった。ゲッコーの真意を知ったバドはゲッコーと決別し、彼をインサイダー取引違反で警察に告発する。
『ウォール街』はしっかりゲッコーの逮捕とバドがそれまでゲッコーに従っていたバドが罪を償うというカタルシスがある。だが『アメリカン・サイコ』はそうではない。

こんな告白など何の意味もない

ベイトマンが翌朝に犯行現場となったアレンの部屋を訪れると、部屋はすっかり片付いており、次の入居者の内覧が行われていた。
ベイトマンはレストランで弁護士を見かけ、自分の電話を聞いたかと言うが、弁護士は「面白い話だった、デヴィッド」と全く真実として信じてもらえない上に名前まで間違えられた。さらには「ポール・アレンとは10日前に会った」とさえ言う。それより前に確かに殺したはずなのに!
絶望的な気持ちでテーブルに付くと、仲間が自分の名前を呼ぶ。「ベイトマン」と。

ベイトマンにとって、例えそれがどんなに醜悪なものでも、真実の自分を死ってもらうことと、然るべき罰を受けることは救いでもあった。だが、真実の自分を示すものは何一つ残っていない。殺人現場は清掃され、証拠もない。真実の話は全く信用されない。逆に空虚な付き合いの人々だけが自分の名前を知っている。
ベイトマンはエンディングで観客にこう独白する。

「もはや超えるべき障壁はない
僕の奥に眠る錯乱と狂気、悪徳と邪悪さ、人を殺すこと、その行為の無感動さを知った
僕の痛みは鋭く、永遠に続く

より良い世界など望むものか
この痛みを他人に味わわせてやる
誰も逃がしはしない

でも僕は何のカタルシスも感じない
僕は罰を受けることもなく、自分のこともわからないまま
僕の言葉など誰にも理解できない

だからこんな告白など何の意味もない」

ベイトマンはついに殺人でも生の実感を得られることはなくなった。空虚という闇に永遠に取り憑かれる地獄がこれからの人生で永遠に続いていく。

妄想か?現実か?

『アメリカン・サイコ』を観た観客はこう思う。
この物語はベイトマンの妄想だったのか?ポール・アレンを殺したこともすべて嘘だったのか?
そうではないことを監督のメアリー・ハロンや脚本を担当したグィネヴィア・ターナーは明言している。
不動産の件は?あれは死体を発見した不動産業者が内密に死体を処理したのだという。
弁護士の件は?相手にとってベイトマンは名前を間違えられる存在に過ぎなかったということ。そして、ポール・アレンも同様で、弁護士にとってはポール・アレンが誰かはどうでもいい事だったということだ。
個人的には不動産と弁護士の件が真実であるならば、猫の件からパトカー爆発までは妄想というよりもベイトマンの狂気が見せた幻覚のようにも思えてくる。

『アメリカン・サイコ』というタイトルについて、予備知識としてはクリスチャン・ベールが夜は殺人鬼に変貌するという程度の知識しか持ち合わせていなかった。だから映画を観るまではタイトルとしては『サイコ・アメリカン(イカれたアメリカ人)』が正しいのではないかと思っていた。
だが、観終わったあとは『アメリカン・サイコ』というタイトルこそ、この映画にふさわしいのだと実感できた。
狂気に陥っていたのはベイトマンだけではない。うわべだけの付き合いに終始して、人間そのものを見ようとしない弁護士、利益のために殺人事件を隠蔽し、何食わぬ顔で何事もないように振る舞う不動産業者。皆が狂っている。そのことをどう表すか。

『アメリカン・サイコ』=「アメリカの病質」だ。

 

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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