『悪魔のいけにえ』はなぜ映画史に刻まれる名作になったのか

※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


『悪魔のいけにえ』ほど怖さと美しさを兼ね備えた作品はないと思う。
その衝撃の大きさは公開から50年近くを経た今でもリメイクや続編が作られていることでも明らかだろう。
片田舎を訪れた若者が狂った一家に一人ずつ殺されていく、そんなありふれた話がなぜ多くの人々を惹き付けてやまないのか、その一人として今回は『悪魔のいけにえ』について解説と考察を行いたい。

『悪魔のいけにえ』

『悪魔のいけにえ』は1974年に公開されたトビー・フーパー監督、マリリン・バーンズ主演のホラー映画。
原題は『The Texas Chain Saw Massacre』で直訳すれば「テキサス・チェーンソー大虐殺」となる。

物語の舞台は1973年8月のテキサス。墓荒らしが頻発しているというニュースを知って、サリーは恋人のジェリー、兄のフランクリン、友人のパムとその恋人のカークらとテキサスにある祖父の墓の無事を確認しに行く。その道中でバンにヒッチハイカーを乗せるが、ヒッチハイカーは自傷を繰り返すなどの異常行動をとったため、サリーらは男を無理やりバンから下ろす。
バンのガソリンが少なくなっていたためにガソリンスタンドに寄るものの、そこにガソリンはなく、パムとカークはガソリンを分けてもらおうと古びた洋館を訪れる。しかし、そこは殺人一家であるソーヤー家の棲みかだった。人皮のマスクを被った大男「レザーフェイス」に一人また一人と殺されていく。

『悪魔のいけにえ』の製作背景

まずはこの映画の製作背景から追っていこう。
この映画の製作のきっかけとなったのはクリスマスシーズンで店に売られていたチェーンソーをフーパーが目にしたことだった。レジ待ちでイライラしていたフーパーはチェーンソーを振り回す自分を妄想した。
ここから『悪魔のいけにえ』のアイデアが生まれていく。

まずは人の皮で作ったマスクを被るというレザーフェイスの設定について。本作についてよく言われるのが、エド・ゲインの事件から着想を得たということだ。
エド・ゲインは夜中に墓を掘り起こし、死体から様々なモノを作り出した。ゲインの部屋に警察が踏み込んだ時、そこには頭蓋骨から作られた食器や、人の皮で作られたランプシェードなどがあったという。そしてゲインは墓へ向かう際に死体から作ったベストやマスクを着用してこともあったという。
確かに『悪魔のいけにえ』の設定と共通する部分も多いが、エド・ゲインの事件を元にしたというのは正確ではない。フーパーは幼い頃に一家を担当する医師からからある話を聞かされた。それはハロウィンパーティーの際に人の皮でできたマスクを被ってやってくる医師の話だ。レザーフェイスの設定はエド・ゲインではなく、幼い頃に聞いたこの話が元になっている(ただ、コメンタリーではゲインとは知らぬまま、人の皮でマスクを作った男の話を聞いていたと語っている)。

トビー・フーパーとホラー

ここでフーパーの生い立ちについても書き加えておこう。
監督のトビー・フーパーは1943年1月25日にテキサス州のオースティンで生まれた。フーパーの両親もまた映画狂であり、不動産業を営む父は駐車場つきの映画館を建て、母は映画館にいるときに産気付き、そのまま病院の分娩室に運びこまれそこでフーパーが生まれたという逸話もある。
そんなフーパーが映画に夢中になるのは自然なことだった。フーパーは10歳の時に8ミリカメラで映画を撮り始め、テキサス大学オースティン校の映画学科に入学。そこで後に『悪魔のいけにえ』の出演者やスタッフとなる者たちと出会う。脚本のキム・ヘンケル、撮影を担当したダニエル・パール、レザーフェイスを演じたガンナー・ハンセンもテキサス大学オースティン校に同時期に在籍していたメンバーだ。またサリーを演じたマリリン・バーンズも同校の卒業生だ。
またフーパーは1966年にはテキサスタワー乱射事件にも遭遇している。犯行現場はフーパーの母校であるテキサス大学オースティン校だった。突然銃声が響き、フーパーは訳もわからず建物の中に閉じ込められたという。
その頃はベトナム戦争の時期にも重なる。ベトナム戦争は報道規制がなく、戦争の生々しさが新聞やテレビに連日映し出された。青年期のフーパーにとって死は身近だった。
「ホラーが唯一感情移入できるジャンルだから」
フーパーは生涯を通してホラー映画の監督でありつづけた。

テキサスという場所

フーパーの生まれ育ったテキサスという場所も『悪魔のいけにえ』に大きな影響を及ぼしている。田舎ならではの濃密な家族関係と暴力的な空気。それがフーパーが幼い頃からテキサスに感じていたものだった。殺人者側を家族という単位にしたのもテキサスを舞台にした作品であればフーパーにとってはごく自然なことだったろう。
そして、そんな家族を象徴する存在が「家」だ。

『悪魔のいけにえ』のもうひとつの主役と言えるのが、ソーヤー一家の棲みかであり、惨劇の舞台となった洋館だ。
序盤、パムがいなくなったカークを探しにソーヤー一家の洋館へ向かうシーンがある。この場面は撮影を担当したダニエル・パールのアイデアによって下からのアングルでパムを追うようにカメラが屋敷に近づいていく。画面の中に全景が収まっていた屋敷もパムが近づくにつれ画面に収まりきれなくなる。圧倒的な迫力で家が画面を覆う。平和な日常が狂人たちの世界に取って変わったことを示している。

日常のヒルビリーホラー

『悪魔のいけにえ』はどこかフォークロア(=都市伝説)の匂いがする。トビー・フーパーも「レザーフェイスは実在していてテキサスのどこかの調理場で仕事をしている」という噂を耳にしたことがあるという。
田舎の無学な人々をヒルビリーと呼ぶことがある。都会人から見て、ヒルビリーは侮蔑と同時に得体の知れない人々であり、恐怖の対象でもあった。『悪魔のいけにえ』もそうだ。テキサスの田舎にはこんな狂った一家がいてもおかしくないという絶妙なリアリティーも存在したのだろう。
日本でもヒルビリー的な怪談はある。「この先日本国憲法は通用しません」で有名な犬鳴村の都市伝説はその代表とも言える。

このように「田舎の野蛮人の恐ろしさ」を描いたホラー映画はヒルビリーホラーと呼ばれている。
同様のホラー映画には古くは1964年に公開された『2000人の狂人』、他には2003年から公開された『クライモリ』シリーズなどが挙げられる。余談だが『2000人の狂人』とは犠牲者をバーベキューにしてしまうという部分が『悪魔のいけにえ』と共通している。一方、残酷描写の目立つ『クライモリ』に比べると『悪魔のいけにえ』程度の恐怖描写は現在のホラー映画では並みと言ってもいい。むしろ、後年のホラー映画に見られるような流血描写やグロテスクな場面はほとんどこの映画には出てこない。だが、映像から臭い立つような生々しさが漂ってくる。

『悪魔のいけにえ』の臭い立つような生々しさ

それは真夏のテキサスの暑さやその熱で腐った死骸の臭いだ。
実際に『悪魔のいけにえ』の撮影は過酷なものだった。レザーフェイスを演じたガンナー・ハンセンは衣装の変色を避けるために4週間同じ服を着続けることとなった。また、ディナーのシーンでは真夏の気温(なんでも撮影期間中でもピークの暑さだったらしい)と照明の熱でテーブルの上の料理はすぐに腐り悪臭を放っていたという。

ディナーシーンは『悪魔のいけにえ』の撮影の中でも最も過酷なシーンだった。コメンタリーでフーパーはディナーシーンは撮影の終盤でスタッフも続々倒れていなくなる中、27時間連続で撮影したとも語っている。異様な熱と汚臭に覆われた現場ではフーパー自身の判断力も奪われていく。
サリーの指先をナイフで切るシーンがあるが、これは本当にナイフでバーンズの指を切っているものだ。当初はナイフに管をつけ、そこから血に見立てた液体を流すはずだったが、5回行っても上手くできずに、フーパーはナイフの刃につけられたテープを外し、実際にマリリン・バーンズの指先を傷つけたのだ。
また、レザーフェイスを演じたガンナー・ハンセンは過酷な撮影で精神がやられ、演技ではなく実際にマリリン・バーンズを殺そうと思っていたと告白している(一方でヒッチハイカーを演じたエドウィン・ニールやヒッチハイカーの兄のコックを演じたジム・シードウは拷問されるバーンズを終始気遣っていたという)。

映画としてのクオリティを見ると粗も感じるが、時間も予算も限られた極限状態の中で製作された執念の強さ、熱量の高さが映画から漂う生々しさの正体なのだろう。

何もないという恐怖

さて、劇中でレザーフェイスは三種類のマスクを着用している。サリーが拷問されるディナーのシーンではプリティウーマンと呼ばれる女性のマスクに化粧を施したもの、一つはオールドレディと呼ばれる老女のマスク、そしてキリングと呼ばれる、殺人の時に使う最も有名なマスクだ。
ガンナー・ハンセンはレザーフェイスのマスクはその時々のレザーフェイスの人格を表しているという。
元々はレザーフェイスには僅かながら台詞もあり、劇中でマスクをとってその正体を見せるつもりでもあったそうだが、最終的に台詞はなくなり、マスクを外すこともなくなった。トビー・フーパーとキム・ヘンケルはレザーフェイスというキャラクターを自分で自分自身を表現できないという設定にした。だからレザーフェイスはマスクを被っている。
「このマスクの使い方はマスクの下の本人には何の人格もないという意味なんだ」
ガンナー・ハンセンはレザーフェイスについてそう語っている。

『悪魔のいけにえ』の根元的な恐怖はこの「無」にある。レザーフェイスは異形の存在を超えた異質な存在とも言える。
自我というものがレザーフェイスにはあるのだろうか?
続編となる『悪魔のいけにえ2』ではレザーフェイスはラジオDJの女性に恋をするという人間らしい描写が取り入れられているが、今作においては「怯え」という感情のみがレザーフェイスから読み取れる唯一のものだ。恐怖のみがレザーフェイスを形作っている。
リメイク作の『テキサス・チェーンソー ビギニング』や『飛びだす 悪魔のいけにえ レザーフェイス一家の逆襲』『レザーフェイス-悪魔のいけにえ』などにおいてはレザーフェイスのバックグラウンドが見え隠れする。特に2017年に公開された『レザーフェイス-悪魔のいけにえ』はレザーフェイスの幼少期を描いており、また2013年に公開された『飛びだす 悪魔のいけにえ レザーフェイス一家の逆襲』ではレザーフェイスに観客が共感できるストーリーになっている。だが、これらの作品のどれもがオリジナルを超える評価を得ていない。
人は暗闇を恐れる。そこに何があるかわからないからだ。闇に人は孤独や虚無を感じるからだ。何もないことがどれだけ恐ろしいことなのか、それを具体化して見せた存在がレザーフェイスではないか。
それを強烈に示した作品は『悪魔のいけにえ』だけだ。

ホラーというジャンルを超えた金字塔

70年代に製作されたホラー映画といえば、『エクソシスト』や『キャリー』、『サスペリア』などが挙げられるが、『悪魔のいけにえ』はその中でも別格の怖さがある。
そこにはオカルトではなく、日常の延長線上の狂気を描いたフォークロアの要素や人が本当に恐れる虚無をレザーフェイスを通して描ききったことにあるのではないか。
『悪魔のいけにえ』のエンディング、夕日の中でダンスを舞うレザーフェイスの演出はサリーを取り逃がした悔しさもあるだろうが、恐怖を描ききった後のささやかなカーテンコールのようにも思える。

『悪魔のいけにえ』の公開から50年が経ち、監督のトビー・フーパー、主演のマリリン・バーンズやガンナー・ハンセンなど既にこの世を去ったスタッフ・キャストも多い。
人は去っても作品はずっと残り続ける。今や『悪魔のいけにえ』はホラーというジャンルを超えた一つの金字塔として映画史に刻まれている。

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映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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