※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています
史上最高の映画監督と言われると誰が思い浮かぶだろうか。ある人はスティーヴン・スピルバーグの名を挙げるかもしれない。もしくは黒澤明かもしれない。ゴダールかもしれないし、ヒッチコックかもしれないし、チャップリンかもしれない。いずれにせよ、多くの名前が挙がることだろう。
逆に史上最低の映画監督と言われると挙げられる監督の名はそう多くない。
そしてそのほとんどの人がエド・ウッドを挙げるだろう。
今回紹介するのはティム・バートン監督の『エド・ウッド』。史上最低の映画監督の「全盛期」を描いた作品だ。主演はジョニー・デップが務めている。
アメリカ史上最低の映画監督 エド・ウッド
史上最低の映画監督エド・ウッド(エドワード・デイヴィス・ウッド・ジュニア)は1924年アメリカのニューヨークに生まれる。幼い頃からホラーやB級映画などさまざまな映画に触れてきたウッドは11歳になると自宅にあったビデオを使って8ミリ映画を撮るようになる。
『エド・ウッド』は映画監督を夢みるウッドが処女作である『グレンとグレンダ』から、自身の最高傑作と信じた『プラン9・フロム・アウタースペース』を完成させるまでを描いた作品だ。映画にはその後は描かれないが、流石のウッドも『プラン9・フロム・アウタースペース』の酷評には失望し、以後は映画への情熱を失ってしまい、ポルノ小説で何とか糊口を凌いでいた。そして貧困の中、54歳という若さでアルコール中毒によって亡くなってしまう。
エドウッドの人生はその情熱が報われることのない悲劇だったのかもしれない。ティム・バートンはそんなエド・ウッドの人生を巧みに切り取り、喜劇として再構築して見せた。「夢こそが人生の全て」とでも言うかのように。
ティム・バートンは幼い頃からエド・ウッドの映画を観て育ったと公言している。
「最初にエド・ウッドの映画を見た時は『うわ、何これ?』と思ったよ。でも、徐々に出来は悪いけれどいい作品なんだと気づいた。何か詩的なものがあるんだ」
バートンの幼少期は孤独で、彼は映画の中や空想の中に居場所を見つけていた。『シザーハンズ』や『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』、『スリーピー・ホロウ』など、バートンの監督作品には異形のものやアウトサイダーへの偏愛が溢れている。 そんなバートンにとって、エド・ウッドの映画を撮るというのは自然なことだっただろう。
『エド・ウッド』のオープニングは『プラン9・フロム・アウタースペース』のオープニングのオマージュでもあるが、驚くほど緻密に再現しているのには驚かされる。
バートンはディズニーに在籍していた1984年に『フランケンウィニー』を製作するが、その世界観はディズニーに理解されず、彼はディズニーを退社する。この時にバートンはエド・ウッドの気持ちが痛いほどわかったのではないか。
『シザーハンズ』や『バットマン』など、ヒットを連発するようになっても、バートンの心の中にはエド・ウッドへの共感は消えずにいた。それはバートンにとって、作品が成功しなかった「もう一つの人生」そのものだったのではないだろうか。『エド・ウッド』におけるエド・ウッドにはそんなバートン自身が投影されている。
エド・ウッドが晩年のベラ・ルゴシと親交を結んだのは有名だが、それが純粋な友情だったのかはいささかの疑問もある。ルゴシの息子によればウッドがルゴシの名声を利用しているようにしか見えなかったそうだ(映画では孤独な老人というイメージのベラルゴシだが、実際には再婚もし、子供とも同居しており、そこまで孤独ではなかったらしい)。
だが、バートンは二人の関係を純粋な友情として描いている。駆け出しの映画監督と往年の忘れられかけたスター俳優。
父と子の投影
バートン自身も同様に監督になって、幼い頃夢中になった映画スターのヴィンセント・プライスと親交を結んだ。当時のプライスもルゴシ同様に忘れられかけた俳優であったが、バートンは自身の作品『シザーハンズ』で主人公の人造人間エドワードを作る発明家としてプライスを出演させている。
プライスの役柄はいわばエドワードにとっての「父親」とも言える。
バートンは実の父親とはあまりいい関係ではなかったという。
2003年に公開された『ビッグ・フィッシュ』はバートン自身の父の死がきっかけとなって製作された作品だ。いつもホラ話ばかりしている父親と息子には確執があった。死の床にあってなおホラ話をやめない父にそこにはバートンの父親への愛憎入り交じった複雑な想いを読み取ることができる。
幼きバートンにとっては映画の中のスターこそが父親代わりだったのだろう。『シザー・ハンズ』はプライスの遺作となった。
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バートン同様にエド・ウッドに共感を覚えたのがジョニー・デップだ。
デップには同時期に映画監督のマイケル・マンからジェームス・ディーンの伝記映画の主演のオファーもあったが、それを断り史上最低の映画監督を演じることを選んだ。
デップはそのキャリア初期の作品から奇人や変人などのマイノリティを好んで演じていた。『シザー・ハンズ』のエドワード、『妹の恋人』のサム、『ドン・ファン』のドン・ファン、いずれも社会の枠組みから外れたアウトサイダーだ。しかし、デップが実在の人物を演じるのは今作が初めてだった。後にジョージ・ユングやホワイティ・バルジャー、ジョン・デリンジャーなどの実在の人物を演じていくデップだが、エド・ウッドについての史料は極めて少ない。デップは史実のエド・ウッドよりも、イメージとしてのエド・ウッドを演じるように心がけたという。デップはエド・ウッドを「とても楽観的で無垢な素晴らしいショーマン」とイメージした。『エド・ウッド』でのデップの演技は芝居がかっていて、ミュージカルの喜劇俳優のようにすら見える。
だが、50年代のハリウッドは決して陽気なだけの街ではない。赤狩りによる恐怖もハリウッドの青空の下には広がっていた。
赤狩りの犠牲者と救済
2015年の映画『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』や2005年に公開された『グッドナイト&グッドラック』はそれぞれ赤狩りをテーマにした作品だが、少しでも共産党や共産主義者と関わりのあったものは職を追われ、社会からはじき出された。
今回はハリウッドと赤狩りについてその始まりと終焉までを見ていきたいと思う。赤狩りとは共産党員、またはそのシンパを追放する動きのことだ。 赤狩りについては『波止場』の解説でも触れてはいるが、今回はそれも含めた複数の映画から改めて赤狩[…]
『エド・ウッド』ではメイラ・ヌルミがその犠牲者となる。
メイラ・ヌルミは1922年生まれの女優で、ヴァンパイラの芸名で知られている。ヴァンパイラの名前でホラー映画のホスト役を努めたことで人気になり、1952年には『ヴァンパイラ・ショー』という冠番組を持つまでになる。
『エド・ウッド』ではエド・ウッドがルゴシの家で共にルゴシの代表作である『恐怖城』を観るが、恐らく『ヴァンパイラ・ショー』内の紹介作品として放送されていたものだろう(このときウッドは映画の途中で割り込んできたヴァンパイラに「途中で割り込むなんて映画を馬鹿にしている」と言う台詞がある)。ウッドはヴァンパイラに自身の作品に出演してくれるように何度もアプローチするのだが、人気女優である彼女はそれを軽くあしらう。それでもめげないウッドは彼女を『怪物の花嫁』のプレミアに誘うなどして徐々に親交を交わすようになる。
ウッドが新作映画『プラン9・フロム・アウタースペース』の準備をしているときに新聞の見出しでヴァンパイラが赤狩りによって番組をクビになったことを知る。ヴァンパイラは「名前を目立たなくするなら」という条件でウッドの映画への出演を承諾する。
『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』でもハリウッドでトップの脚本家だったダルトン・トランボが赤狩りによってハリウッドを追放され、B級映画専門のプロデューサーであったキング兄弟のもとで二束三文で脚本を書き、糊口を凌ぐさまが描かれる。
赤狩りの時代、誰もが共産主義者と関わりがあると見なされることを恐れていた。だが、キング兄弟やエド・ウッドのように、その人物の思想よりもスターを安く手にしたいという映画人もいた。彼らによってトランボやヴァンパイラは生き永らえることができたのも事実だろう。皮肉なことだが、今日では『プラン9・フロム・アウタースペース』がヴァンパイラの女優としての代表作とされている。
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オーソン・ウェルズとの邂逅
話を『エド・ウッド』に戻そう。
こうして製作の準備が整った『プラン9・フロム・アウタースペース』だが、スポンサーの横槍が度々入り、製作は思うように進まない。エドウッドはついに現場を放り出し、バーでヤケ酒を煽り出す。
そこにいたのはウッドがかねてより敬愛していた映画監督のオーソン・ウェルズ。ウェルズは25歳で映画史に残る傑作『市民ケーン』を撮ったのだが、同作は興行的には失敗作でもあった。監督二作目の『偉大なるアンバーソン家の人々』ではウェルズの発言力は低下し、撮ったフィルムはスタジオによってズタズタにカットされた。
ウッドとウェルズでは後世の評価も天と地ほど違うが、ウェルズもまた生涯を通じて自身の映画の資金集めには苦労していたと言われる。
次回作(おそらく1958年公開の『黒い罠』だろう)の資金繰りに窮していると言うウェルズにウッドは尋ねる。
「映画作りは報われますか」
ウェルズはウッドにこう言う。
「成功すればな。私は意志を貫き通した『市民ケーン』、連中には1コマも触れさせなかった。エド、夢のためなら戦え。他人の夢を撮ってどうなる?」
『エド・ウッド』の中でも最もエモーショナルな場面のひとつだが、実はここはティム・バートンの完全な創作であり、オーソン・ウェルズとエド・ウッドは生涯出会うことはなかったと言われる。
生涯報われることのなかった映画監督へのバートンなりの賛辞でもあるだろう。ウェルズもウッドも映画にかける情熱はそう変わらなかったはずだ。
雨のハリウッド
スタジオに戻ったウッドはスポンサーに「黙って見ていたら儲けさせてやる」と言い、思いのままに映画を作り上げていく(エド・ウッドの「思いのまま」は通常では考えられないほどチープな演出・クオリティではあるのだが)。
そしてプレミアの日、会場に到着した途端に雨が降り始める。車の幌は壊れていて動かない。仕方なくそのままウッドは恋人のキャシーと出演者らとともに会場へ入る。
「この映画をベラ・ルゴシに捧げる」そうスピーチして『プラン9・フロム・アウタースペース』の上映が始まる。ウッドの目に映るその作品は紛れもなく彼の集大成であり、彼にとって傑作だった。
プレミアが終わっても雨は強く降り続けていたが、雨の中でウッドはキャシーにプロポーズする。「こんな雨すぐに止むさ、きっと次の角を曲がったところで」そう言ってウッドはキャシーとともにラスベガスへ向かう。物語はここで幕を下ろすが、果たして本当に雨は止んだのだろうか。エド・ウッドはその後も闘い続けたが、成功を見ることなく貧困の中でアルコール中毒死したことが字幕で語られる。
喜劇か、悲劇か
エド・ウッドが今日の評価を得るきっかけになったのは、『プラン9・フロム・アウタースペース』が安く買い叩かれた結果、深夜のテレビで繰り返し放送され、そのあまりのつまらなさにカルト的な人気が出たからだ。そしてエド・ウッドの死から2年後の1980年に「ゴールデンターキー賞」という本において「歴代最低映画」として紹介されたことで再評価の動きが高まる。
クエンティン・タランティーノやサム・ライミ、ジョン・ウォーターズなど、現役の映画人にもエド・ウッドのファンを公言する人は少なくない。
喜劇王として知られるチャールズ・チャップリンの言葉に「人生は悲劇だ。クローズアップで撮れば。でもロングショットで撮れば喜劇になる」というものがある。無名のまま亡くなり、そのまま忘れ去られた芸術家など無数にいるだろう。果たしてエド・ウッドの人生は喜劇だったのか、悲劇だったのか。
最後にジョニー・デップの言葉を紹介しよう。
「エドはチャンスをつかむことを恐れず、本当に自分のやりたいことをやった人だ。自分のできる限りのベストをつくし、シュールで天才的な瞬間を繋ぎ合わせた映像を作り上げたと思う。彼の映画は彼そのものであり、正真正銘の天才だ。エドが芸術として記憶されることを願う。」