『群衆』キャプラが描くポピュリズムの恐ろしさと愚かさ

新型コロナウイルスの流行はこの先、世界史の教科書に必ず載ることになるだろう。一方でこのコロナ渦で露呈したポピュリズムの恐ろしさと愚かさには果たして言及があるだろうか。

感染症の恐ろしさを描いた映画として、コロナ渦では『コンテイジョン』という作品が注目を集めた。『コンテイジョン』の公開は2011年。
しかし個人的には感染症よりも大衆やメディア、そしてそれに迎合してしまう政治の在り方こそが恐ろしいと感じたのも事実だ。
その意味で今注目されるべき映画として私は『群衆』を挙げたいと思う。

『群衆』は1941年公開のフランク・キャプラ監督のコメディ映画だ。今から約80年前の作品だが、今作で描かれていることは今の時代とほとんど変わらぬ人間の業と愚かさだ。古い映画だが、いつの時代にも変わらない人間のあり方が描かれており、その内容は決して古びない。

大恐慌が続くアメリカ。新聞社はDB・ノートンに買収され新ブレティン社と名を変え、大規模なリストラを断行していた。女性記者のアン・ミッシェルもクビを宣告されるが、アンは自分でスクープを偽り、架空の男「ジョン・ドー」の投稿を新聞に掲載する。

「ミッシェル様、私は四年前に職を失いました。州のだらしない政策だけでなく、社会に絶望しました。その証明としてクリスマス・イブの24時に市庁舎の屋上から飛び降ります。

ジョン・ドー」

この投書は大きな反響を呼び、ジョン・ドーに対して職の斡旋や結婚したいと申し出る女性も現れる。
この事態にアンはジョン・ドーが商売になると考え、「ジョン・ドーを雇うのよ!」と言い出す。
かくして新聞社には自分こそジョン・ドーだという男たちが集まってくる。
アンはその中から一人の男に目をつける。彼の名は、ジョン・ウィラビー。通称ロング・ジョン。元二軍の野球選手で腕を壊し現在は失業中だった。
アンはクビを免れるどころか、ボーナスまで手にする。
そして、ジョン・ドーの人気は加速していく。人々は名もなき市民の代弁者であるジョン・ドーに熱狂し、彼を支持する団体、ジョン・ドー・クラブが全米各地で結成されていく。

大衆はいつも論理より感情で容易く動く。

本当の犠牲者は誰か

2021年1月に11都府県で2度目の緊急事態宣言が発令された。世論調査の8割近くはこの宣言に賛成したそうだ。確かに毎日速報で膨れ上がる「感染者数」を見せつけられていれば無理もない。
だが、国際政治学者の三浦瑠麗氏はこうTwitterで述べている。

「新型コロナが『有事』ならばやるべき医療体制の組み直しをやらず、平時と有事のあいだのグレーゾーンの質を判断してそれに対応する能力もなく、偽りの解としての竹槍精神的な自粛要請に飛びつく政治を目の前に、日本人が後世振り返るべき参照地点としての現在、緊急事態宣言発出に反対しておきます」

このツイートは賛否両論を引き起こしたわけだが、確かに頷ける部分もある。
もちろん感染の拡大は大事かもしれない。しかし、緊急事態宣言は経済活動に大きなブレーキを掛けてしまう。ほとんどが無症状の「感染者」は速報で流れるものの、失業者数や自殺者はほとんどニュースでは流れない。家族を持った若~中年層の失業や自殺はその家族の人生も狂わせてしまう。
また学生の内定の取り消しや新卒採用の中止など、これからを担うべき子供たちが負うリスクや負担は新型コロナの実害の程度と比較して本当に妥当なのか。

そういったリスクも慎重に検討しながらそれでも最善の道が緊急事態宣言しかないのならば仕方がない。ただ現実はそうではない。

三浦氏の指摘のように緊急事態宣言の前にもっと政治にやれることがあったのではないか。緊急事態宣言は言ってみれば国民への全面的な責任転嫁と同じだ。これほどまでにリスクを伴うカードはそう簡単に切っていいものではない。

間接民主制と直接民主制

日本の政治形態は間接民主制である。これに対して国のトップを国民自らが選出する形態は直接民主制と言われる。
直接民主制のメリットは直接国民が政治に参加できるところだろう。そのためにより民意が政策に反映されやすい。一方デメリットとしてはどうしても民意が感情的なものであったり、少数者の意見が政策に反映されにくい点が挙げられる。現在、直接民主制を採る国にはスイスなどがあるが、ほとんどの国では間接民主制を採用している。

間接民主制のメリットは直接意思決定に参加する母体が直接民主制よりも少なくなるので議論はスピーディーに進みやすいこと、またある程度政治的な知見を持った代表者が意思決定に参加することで衆愚政治に陥りにくいということが言えるだろう。
間接民主制のデメリットはしばしば「密室政治」と言われるように、その意思決定にどれだけ民意が反映されているのか、透明性が担保されないことでもあろう。

今回のコロナ渦で俄然存在感を示したのが各都道府県の知事や市区町村の首長だろう。もちろん数字に基づいて科学的に判断している政治家もいたが、大衆の人気取りに溺れた政治家もいた。

ポピュリズムとは大衆迎合主義ともいわれる。ポピュリズムそのものは良い面も悪い面もあるが、ポピュリズムが悪い方向へ動くと「衆愚政治」になる。それを阻むための間接民主制でもあるのだが、仮に知事をトップだと考えた場合、日本の政治システムは直接民主制となるだろう。

よく次期総理大臣にしたい政治家のランキングに実績のほとんどない若手の政治家が推されることがある。
クリーンでイメージもよいからという気持ちはわからなくはないが、そんな理由だけで国のトップを決めていたら国家は崩壊してしまうだろう。

だが、残念なことにポピュリズムは国政まで動かしてしまった。2020年4月の非常事態宣言の発令がその一例だ。この時も世論に押される形で全国一律での非常事態宣言の発令が決まった。わかりやすく、インパクトのある政策を行った方が、大衆の注目も支持も集めやすい。そしてそれを後押ししたのがマスメディアだ。
「得体のしれない危険なウイルス」のイメージはあっという間に大衆から理性を剥ぎ取ってしまった。
4月の非常事態宣言の決定前後にスーパーに置かれたトイレットペーパーがデマによって売り切れてしまった光景をニュースで見た人も多いだろう。情報の真偽を確かめもせずに、その場の感情だけで動く人間。それがポピュリズムの主役である大衆であり、私たちに他ならない。

ちなみに付記しておくと、2021年1月の時点で日本でのインフルエンザの死者は間接死を含めて毎年約1万人、新型コロナウイルスでは約5000人だ。

『群衆』というタイトル

さて、この『群衆』だが、原題は『Meet John Doe』、直訳すれば「ジョン・ドーに会え」という意味だ。原題はジョン・ドーに焦点を置いているが、邦題はそんなジョン・ドーに群がる大衆に焦点を置いている。

ジョン・ドーとは日本でいうところの「名無しの権兵衛」と同じ意味で、匿名の存在だ。いわば名もなき市民の代弁者でもある。
アメリカにはコモン・マン(庶民)信仰がある。勉強のできるエリートよりも庶民こそリーダーになるべきという考え方だ。イギリスのような階級社会から逃れてきた人たちが近代アメリカを作った。

イタリアからの移民であったキャプラもまたアメリカでチャンスをつかむことができた。「無名の普通の庶民でも何かを成し遂げることができる。」
その考えは1937年の映画『スミス都へ行く』でハッピーエンドとして描かれている。

ジョン・ドーの人気は加熱していき、ついにはジョン・ドー・クラブというファンクラブまで作られる。
ジョン・ドーとは何者なのか?本当に信頼できるのか?インターネットもない時代とはいえ、ジョン・ドーの言葉や雰囲気に大衆は簡単に扇動されてしまう。いや、インターネット全盛の今でさえ、デマやフェイクニュースに多くの人が騙されているわけだが。

「人は団結した時に真の力を発揮するのです」
「今こそチームワークが必要です。そしてチームメイトは隣人、あなたの隣人が大切なのです」
「弱者でも隣人を愛せば善意を広げていくことができる」
そう呼びかけるジョン・ドーの言葉(その原稿も実はアンが用意しているものだが)に多くの人が隣人愛を確認しあい、つながりあう。その変化を目にしてロング・ジョンはジョン・ドーとしての自分の使命に目覚めていく。

『群衆』は草の根民主主義を描いていると言われる。草の根民主主義とは一般の人々が積極的に政治に参加し、その民意を反映させることである。だが、それは手放しで称賛できるものなのか?

キャプラの息子は『群衆』をキャプラが撮ったのは当時アメリカでも台頭してきていたファシズムに警報を鳴らす意図があったからだと述べている。
しばしば誤解されていることでもあるのだが、ドイツでナチスが第一党を獲得するまでの過程は独裁的なものではなく、概ねは民主主義に則ったものだ。ヒトラーの演説に大衆が熱狂し、実際に支持したからこそナチスは権力を手にすることができた。
ナチスはナチスだけの力で独裁政治を始められたわけではない。そこには大衆の大きな後押しがあったわけだ。ナチスは当時から反ユダヤ主義を前面に打ち出していた。つまりドイツ国民の中で反ユダヤ主義は積極的に支持はされなくとも少なくとも容認されていたと言えよう。
冷静に考えれば、他者への差別を助長する言行が許されるはずはない。だが、それを平気でしてしまうのが集団心理の恐ろさだ。集団や組織の中では独自の空気が醸成され、時にそれは理性やモラルを逸脱してしまう。キャプラは簡単に扇動される大衆の危うさを『群衆』に込めた。

やがてジョン・ドーの人気はロング・ジョン自身を追い詰めるほどに巨大化する。
虚像としてのジョン・ドーを演じ続けることに限界を感じたロング・ジョンは本当のことを話したいと打ち明けるが、ジョン・ドーをプロデュースしていたDB・ノートンは、ジョン・ドー人気にあやかって国政に進出したいという思惑があった。順調に支持を伸ばしてきた今、ロング・ジョンの存在は邪魔なだけだ。DB・ノートンは先手を打ってジョン・ドーはその人気を利用して金を横領し、私腹を肥やしたとメディアを使って暴露する。すると大衆はこぞって掌を返し、ロング・ジョンを非難する。

ロング・ジョンはDB・ノートンが黒幕であることを暴露したとしてもジョン・ドー・クラブの理念は崩せないと信じていた。しかし、群衆から彼に向けられるのは罵声と憎しみだけだった。皆、虚像としてのジョン・ドーに夢中だったのであり、ジョン・ドー・クラブの理念そのものよりも「ジョン・ドーの言った言葉」に熱狂していたのだ。
絶望したロング・ジョンは本物のジョン・ドーになってもう一度運動を巻き起こそうと投書の通りに庁宿舎から飛び降りようとする。
メディアに簡単に左右される大衆の姿は今も変わらない。そして彼らが無責任に行うバッシングがどれだけ生身の人間を傷つけていくかも。

するとそこにアンが現れ、ロング・ジョンを引き留める。
「本物のジョンドーは二千年前に死んだのよ!」
これは言うまでもなくイエス・キリストのことだ。
「でも信念はずっと生き続けているわ」
アンの示す先には少数ながらもジョン・ドーの理念に共感している人々の姿があった。

映画評論家の町山智浩氏は彼らが新たなカルトにしか見えないと著書『最も危険なアメリカ映画』で述べている。
果たして彼らはカルトなのか?
個人的には彼らこそ私たちに他ならないと思う。今なお感情のままに流されるならば私たちはカルトのままだろう。
どこまで空気に惑わされずに真実を見つけられるのか。
『群衆』は私たち自身の総称でもあるのだ。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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