『デトロイト・ロック・シティ』KISSと「悪魔の音楽」

※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


このサイトでもデトロイトという場所は何度か取り上げている。『グラン・トリノ』、『ロボコップ』、ジャンルの違いはあるが、どちらも没落や犯罪都市の象徴としてデトロイトが映画の舞台になっていた。
確かに現実のデトロイトはそうだった。
だが、KISSのファン(KISSアーミー)にとってデトロイトは違う意味合いを持つ。
デトロイトは「聖地」なのだ。

KISSはニューヨーク出身のロックバンドだが、最初に人気が出たのはデトロイトからだった。彼らの代表曲『デトロイト・ロック・シティ』はそんなデトロイトへのバンド側の想いも込められているのだろう。
若杉公徳のコミック『デトロイト・メタル・シティ』のタイトルの元ネタもこの楽曲だ(ちなみに2008年に公開された『デトロイト・メタル・シティ』の映画版にはKISSのジーン・シモンズも参加している)。

『デトロイト・ロック・シティ』

だが、今回紹介したいのは『デトロイト・メタル・シティ』ではなく、1999年に公開されたコメディ映画『デトロイト・ロック・シティ』だ。監督はアダム・リフキン、主演はエドワード・ファーロングが務めている。またジーン・シモンズがプロデューサーを務めている。
1978年のアメリカを舞台に、何とかしてデトロイトでのKISSのコンサートを観に行こうとする熱狂的なKISSファン(KISSアーミー)の奮闘を描いた作品だ。
ホーク、レックス、ジャム、トリップの4人はミステリーというバンドを組み、日々KISSの楽曲をプレイしている、KISSファンの高校生。

この時期のKISSの人気は世界規模だった。日本でもエアロスミスやクイーンと並んで3大バンドと呼ばれ、NHKで放送された『ヤング・ミュージック・ショー』は多くの若者たちをロックに目覚めさせた。
ビートルズやローリング・ストーンズらに憧れても当時の日本でロック・ミュージシャンを目指すのは実質的に不可能だった。いわゆる歌謡曲という枠の中にロックのアプローチを取り入れるのが精一杯だっただろう(その成功例が西城秀樹だと思う)。
そんな中で本当のロックを聞くのであれば、海外に目を向けるしかなかったのは容易に想像できる。
私は世代的にはKISSの世代ではないが、子供の頃に憧れたミュージシャン…hideやマリリン・マンソン、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンはいずれもKISSからの影響を公言していた。彼らのルーツを辿る意味でKISSを聴いた。そのおどろおどろしいメイクとは裏腹にその音楽はポップで明るいロックンロールだった(彼らの当初のコンセプトはアメリカ版ビートルズであった)。
それでも、当時の日本の音楽で最もロックに近かったメジャーミュージシャンでさえ、西城秀樹や沢田研二らだったことを思えば、KISSの音楽は当時としては相当に激しいものでもあっただろう。

悪魔の音楽

一方で保守的な大人たちのKISSに対する偏見もまた強烈で、厳格なクリスチャンであるジャムの母親はKISSの音楽を「悪魔の音楽」と言い放ち、ホークら4人が購入したKISSのチケットを燃やしてしまう。確かにあの毒々しいメイクと音楽(X JAPANのhide曰く「女呼んでポン!」みたいな内容の詞が多かったらしい)では無理もない。

大人たちはKISSの存在を「暴力と麻薬を広める」と非難している。
KISSのギタリストであったエース・フレーリーとドラマーだったピーター・クリスは確かにドラッグをやっていたが、ジーン・シモンズはそのキャリアを通してドラッグをやったことはないと断言しており、かつエースやピーターの脱退の一因にはドラッグの問題もあったとしてドラッグには一貫して否定的な立場を取っている。ジーン・シモンズは自身の著書である『才能のあるヤツはなぜ27歳で死んでしまうのか?』の中でもドラッグの影響と音楽的才能は全くの別物であると述べている。
しかしながら、同時期の多くのミュージシャンがドラッグと深い関係にあったのは事実だ。エアロスミスのボーカリスト、スティーヴン・タイラーとギタリストのジョー・ペリーの二人がトキシック・ツインズと呼ばれていたのもその好例だろう。

『ガンズ・ゴッド・アンド・ガバメント』

ちなみに前述のような保守層によるロックコンサートへの反対は今も続いており、2002年に発売されたマリリン・マンソンのライブDVD『ガンズ・ゴッド・アンド・ガバメント』でもコンサート会場の前で「マンソンには魂がない」「地獄の業火に焼かれるぞ」などの言葉で若者に訴えかけるキリスト教の人々の様子を観ることができる。
マリリン・マンソンはブレイク当時「90年代のKISS」と云われており、かつマンソン自身も少年期は熱烈なKISSファンであった。

ちなみにマンソンはドラッグ使用を公言しており、『ガンズ・ゴッド・アンド・ガバメント』はマンソンが最も過激だった頃のツアードキュメントを観ることができる。バックステージやファンの姿を含めて、今ではありえないほど変態的で狂った様子を伺い知れる。『デトロイト・ロック・シティ』よりもよっぽど過激なドキュメンタリーで「90年代のKISS」を知る上で一見の価値はある。

『あの頃ペニー・レインと』

さて『デトロイト・ロック・シティ』の時代をよく知るためにもうひとつの作品を紹介したい。2000年に公開された『あの頃ペニー・レインと』という映画だ。監督はキャメロン・クロウが務めている。
『あの頃ペニー・レインと』キャメロン・クロウ監督の自伝的な映画でもある。主人公のウィリアムは15歳にしてローリング・ストーン誌でロックバンドのライターとして働くことになる。ウィリアムがロックンロールにのめり込むきっかけは姉が聴いていたロックのレコードだった。だが、ウィリアムの母親は厳格なキリスト教徒でロックンロールやダンスは悪魔的な行為として忌み嫌い、家族にさえ禁止している。
「麻薬やセックスの歌よ」
母はロックンロールをこう言う。アニタが隠し持っていたのはサイモン&ガーファンクルが968年に発表したアルバム『ブック・エンド』だ。母はジャケットの二人の目を指さして「マリファナ漬けの目よ」という。『ブック・エンド』はアメリカで合計7週に渡って1位となったのに!
キャメロン・クロウもまた子供の頃からロックンロールに夢中だった。1957年生まれ、カリフォルニア州パームスプリングスで育ったクロウは15歳にしてローリング・ストーン誌の記者としてデヴィッド・ボウイ、ニール・ヤング、エリック・クラプトン、レッド・ツェッペリンなど様々なロック・ミュージシャンに同行する機会を得た。
1970年代のロック。それはまさにロックの黄金時代だ。そこはまだロックがカウンター・カルチャーとして反抗の精神を持ち得ていた時代でもある。大人たちは顔をしかめ、子供たちは熱狂した。

1970年代というルーツ

私は『スクール・オブ・ロック』の解説の中で、今のロックの源流は1950年代ではなく、1970年代にそのルーツがあるのではないかと唱えたが、『デトロイト・ロック・シティ』を観て、それは確信へ変わった。
まずホークスらがデトロイトへ向かうための障壁が高校の警備員だ。そのモミアゲから「エルヴィス」とあだ名された彼をどう潜り抜けて高校から抜け出すかが最初の壁なのだ。とは言ってもこのエルヴィスは『ルパン三世』における銭形警部みたいなキャラクターでコメディ・リリーフとしての役割も強い。
ここで気になるのがなぜ「キング・オブ・ロック」と呼ばれたエルヴィスが主人公達に敵対する側の名前として使われているのかということだ。

ニクソンとエルヴィス

『デトロイト・ロック・シティ』には一瞬、リチャード・ニクソンが映る。
ニクソンは1974年にウォーターゲート事件によって辞任する。ニクソンにはベトナム戦争を終わりに導いたという功績があるものの、それは世論に押し切られた結果でもある。
2008年に公開された『フロスト×ニクソン』は大統領辞任後のニクソンにテレビ司会者のデヴィッド・フロストが公開インタビューを行い、自信の罪を認めなかったニクソンから謝罪の言葉を引き出すまでの実話を描いた作品だが、劇中にニクソンがなぜカンボジアまで軍を侵攻させたのかについてフロストが問い詰める場面がある。
またジョン・レノンのドキュメンタリー映画である『ジョン・レノン、ニューヨーク』では、1972年のニクソン再選のニュースに大荒れしたレノンの様子が語られている。
つまり、反戦派やカウンター・カルチャー側にとって、ニクソンは敵であった。だが、そんなニクソンに自ら一市民として手紙を送り、ツーショットを撮ったのがエルヴィス・プレスリーだったのだ。

2009年に公開された『ノーウェアボーイ ひとりぼっちのあいつ』でも描かれるように、ジョン・レノンはエルヴィスに憧れてロックンロールを始めたが、やがてこのようなエルヴィスの行動に幻滅するようになり、ついには「ビートルズのレコードは全て持っている」と言うエルヴィスの前で「僕はあなたのレコードは一枚も持っていない」と言い放つまでになる。そう、1970年代のロック・ファンはロックンロールの偉大な創始者の一人であるエルヴィス・プレスリーにはもはや惹かれなかったのだ。

 『ラヴィン・ユー・ベイビー』

ただ、1978年にはロックの次の音楽も生まれ始めていた。『デトロイト・ロック・シティ』の舞台である1978年の前年には『サタデー・ナイト・フィーバー』が大ヒット、映画では既に若者の新しい文化としてディスコ文化が台頭していく様子も描かれている。

「KISSがディスコなんてやるかよ」ホークスらはそう言うが、翌1979年にはKISSは『ラヴィン・ユー・ベイビー』をリリースし、ディスコ・ムーブメントに自ら接近していく。
『ラヴィン・ユー・ベイビー』は世界で大ヒットしたが、作者のポール・スタンレーとは対称的にジーンはこの曲をプレイするのが未だに嫌いだという。その理由は自身が歌うパートのせいらしいが、これまでのジーンのインタビューを振り返るとディスコ・ブームにも批判的なものが多い。
「KISSがディスコなんてやるかよ」
この台詞は20年越しのジーン・シモンズの本音ではないだろうか。

ちなみに様々なKISSの楽曲が『デトロイト・ロック・シティ』には使用されているが、『ラヴィン・ユー・ベイビー』は一度も流れることはない。

ファンのためのバンド

最近になって『デトロイト・ロック・シティ』がKISSのコンサートに向かう途中で自動車事故で亡くなった実際のファンを歌った曲だということを知った。
映画の『デトロイト・ロック・シティ』はあらゆるトラブルを乗り越えて、KISSのライブを4人が体験する場面で終わる。
KISSアーミーが『デトロイト・ロック・シティ』という曲で果たせなかった夢を映画は幸せな物語として救済してみせた。そんな気がしてならないのだ。

KISSは長年の功績にも関わらず、ずっと2014年まで「ロックの殿堂」に入れていなかった(「同期」のエアロスミス、クイーンは2001年に殿堂入りを果たしている)。
KISSのロックの殿堂入りの際にプレゼンターを務めたのがレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのギタリストのトム・モレロだ。
最後にユニバーサルミュージックジャパンのサイトからこの時のトム・モレロのKISSに対するスピーチを引用して終わることにしよう。

「KISSは私の大好きなバンドでしたが、KISSファンになるのは簡単なことではありませんでした。
KISSは評論家によってコテンパンにされていましたし、KISSのファンはアメリカの中学校、高校に通っている時も友達からバカにされ続けてきました。口げんかを吹っかけられたり、時には殴られるようなことも日常茶飯事でした。
私は、15歳のいじめっ子の少年がこう言っていたのを思い出します。
『お前は俺のケツにでもキスしてな!』って。
KISSはいつも評論家からはバカにされ続けていましたが、KISSは評論家のためのバンドではなく、ファンのためのバンドでした」

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映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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