『バビロン』ハリウッド黄金時代の狂乱と退廃が描く「映画史」

※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


1920年代、ハリウッドは「西のバビロン」と呼ばれていた。元々ハリウッドは発明王トーマス・エジソンの訴訟の手から逃れて自由に映画作りをしたいと願った者達が集まってできた場所だ。そうした経緯もあり、ハリウッドには保守よりもリベラルな風土が今も強く根付いている。
だが、1920年代のハリウッドはそうではなかった。アメリカの繁栄と退廃を最も象徴するこの街ではスターたちによるドラッグや、自殺未遂などの多くのスキャンダルがメディアを賑わすようになる。そんなハリウッドは「罪の街」「悪魔の保育器」とさえ呼ばれた。

『バビロン』

今回紹介するのは2023年に公開されたデイミアン・チャゼル監督の『バビロン』だ。主演はディエゴ・カルバ、マーゴット・ロビー、ブラッド・ピットが務めている。
『バビロン』は1920年代から30年代のハリウッドを描き、そこに生きる人々の栄華と没落を描いている。上映時間はなんと3時間超えの大作だが、それだけ濃い時間が当時のハリウッドには流れていたのだろう。チャゼルの映画への愛がひしひしと感じられる作品だ。

物語はメキシコからの移民であるマニー・トレスが象をパーティー会場まで届けるシーンから始まる。トラブルを乗り越えてようやくたどり着いたパーティー会場は、まさに享楽そのもの。ダンス、アルコール、セックス、ドラッグが入り乱れる狂乱の舞台だった。
ここでの長回しは圧巻だ。アップとロングを繰り返し、自在なカメラワークでパーティーの空気をしっかりと映し出している。チャゼルは『ラ・ラ・ランド』でも驚くべき長回しで夢のようなオープニングシーンを作りあげたが、今作でもそれは引き継がれている。
そんなパーティー会場に一人の女優志望の女性が訪れる。マーゴット・ロビー演じるネリー・ラロイだ。ラロイはニュージャージーの田舎からスターになることを夢見てハリウッドへやってきた。
「スターは生まれつきスターなの」そう言いながら出演作は一つもない。

ハリウッドの狂乱と退廃

チャゼルは作品を通して常に夢を追いかけることとその厳しさを描いてきた。
長編デビュー作となる『セッション』ではジャズ・ドラマーを目指す主人公と彼を叱咤し猛特訓を行う鬼教師が『ラ・ラ・ランド』では女優を目指すヒロインとジャズミュージシャンを目指す主人公との恋が、『ファーストマン』ではアポロ計画を通して、月へ向かうことの困難さと勇気をそれぞれ描いている。特に『ラ・ラ・ランド』は舞台もロサンゼルスで、女優志望の女性がヒロインとなるなど今作との共通点も多い(チャゼルは『ラ・ラ・ランド』について『バビロン』とは従兄弟のような作品だと話している)。

パーティーではある若手女優がドラッグの過剰摂取で死亡。代わりの役者としてパーティーで目立っていたラロイに白羽の矢が立つ。
オープニングの時代設定は1926年だが、実際に1921年には人気コメディアンのロスコー・アーバックル邸で開催されたパーティーで、女優のヴァージニア・ラッペが密造酒を飲んで昏睡状態に陥り、搬送先の病院で死亡するという事件が起きる(ヴァージニア・ラッペ殺人事件)。だが、ラッペの本当の死因は性的暴行による膀胱破裂に伴う腹膜炎だった。
容疑者として起訴されたのが主催者でもあったアーバックルだが、当のパーティーではドラッグとアルコールによって誰も状況を正確に覚えていなかったこともあり、最終的にアーバックルは無罪となっている。まさにハリウッドの狂乱と退廃を象徴するような事件だと思う。

『バビロン』のヒロインであるネリー・ラロイは架空の人物だが、そのモデルとなった女優がいる。クララ・ボウだ。
クララ・ボウは1905年生まれの女優。非常に貧しい環境で育ち、父親はアルコール依存症、母は精神疾患を患っていた。ボウはお色気映画で人気になり、ハリウッドスターへ急速に駆け上がっていくが、ラロイも圧倒的な演技力とボウと同じくセクシーな美しさで瞬く間にスターへと登り詰めていく。

またトレスはパーティーで人気俳優のジャック・コンラッドを家まで送り届けたことがきっかけでコンラッドに気に入られ夢だった映画のスタッフとして働くことになる。
ジャック・コンラッドのモデルはサイレント映画期のハリウッドで二枚目俳優として人気だったジョン・ギルバート。女優グレタ・ガルボとの浮き名や結婚・離婚を繰り返すなどの私生活はコンラッドにもそのまま反映されている。コンラッドの髭の形もギルバートそっくりだ。
コンラッドを演じたのはブラッド・ピット。ブラッド・ピットとマーゴット・ロビーは2019年に公開されたクエンティン・タランティーノ監督の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』以来の共演となる。
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』ではアカデミー賞、ゴールデン・グローブ賞をはじめとする数々の賞を受賞するなどブラッド・ピットの演技力が改めて評価されたが、今作でもその演技力と、実際に30年近くに渡ってスターとしてハリウッドの第一線に居続けるブラッド・ピット自身のキャリアが上手く役柄に結び付いているように感じる。

『バビロン』はコンラッドの台詞がとてもいい。
「映画のセットはこの世界で最も魔法に満ちた場所だ」
「なぜ映画を観るかわかるか?孤独を忘れられるからだ」
「市井の人は映画に深い意味を見いだす」
コンラッドの口から飛び出す映画への愛情と誇りはそのままチャゼルの映画への想いを綴ったものだろうと思う。

トーキー映画の台頭による時代の変革

だが、そんなハリウッドにも次の時代が訪れようとしていた。トーキーだ。
トーキーとは、今私たちが当たり前に見観ている音声入りの映画のこと。世界初のトーキー映画は1927年に公開された『ジャズ・シンガー』で、それは『バビロン』にも登場する。
「人は映画に雑音なんて求めていない!」
当時はトーキーに対して否定的な意見もあった。だが、トレスが実際の映画館で見たものはトーキーの音楽に熱狂する観客の姿。
次の時代が訪れた瞬間だった。この瞬間からラロイ、トレス、コンラッド…それぞれの運命は変わり始める。

妖艶な美しさとで奔放なセクシーさで人気だったラロイも声が求められるようになると発声や台詞覚えなどのプレッシャーに晒されるようになる。
汗は止まらず足は震える。当時はアフレコもなかった。もちろんデジタル撮影でもなくフィルムなので、NGを重ねた分、フィルム代金もかさむ。僅かなノイズにも気を配らねばならず、映画撮影はより困難で大掛かりなものになっていった。
そして観客の俳優に対する評価も外見や演技以外にも「声」という部分が加わった。
ラロイの声は酷評され、次第に人気を落としていく。ニュージャージーの田舎者からハリウッドのスターの地位を手に入れたはずが、ハリウッドでもニュージャージーと同じように陰口を叩かれ、思わず嗚咽を漏らすラロイが印象的だ。

一方トレスはコンラッドの元で下働きをしていたが、トーキー時代の幕開けと共に映画監督として成功を収めていた。
彼の元でスターになったのはトランペット奏者のシドニー・パーマーだった。
ある映画(『ハリウッド・レビィユー』)の伴奏者として参加していたパーマーはその映画の出来に関して「こっち(伴奏者側)を撮るべきだ」とぼやく。その言葉をきっかけにトレスはパーマーを主役にした作品を発表。
映画はヒットし、トレスとパーマーは成功への道を歩んでいく。
だが、パーマーはメディアから「黒人映画の流行を作った俳優」として持て囃される。黒人に光を当てさせた英雄として、パーマーは「黒人」を演じなければならなくなった。
多様性やマイリノティの尊重と言いながら、結局は自分達の望む役割に人を押し込めようとする不自由さと圧力は現代にも通じるだろう。
パーマーは撮影の照明によって周囲の黒人より白く見えるという理由で白人が黒人を演じるときの顔料を顔に塗らなければならなくなった。
黒人というマイリノティの尊重ではなく、黒人という役割が求められていることに失望したパーマーはハリウッドでの俳優としてのキャリアを捨てる。

また、トーキーにおいては酷評されていたラロイはトレスの助けで洗練された淑女として売り出すように企画が出される。だが、上流階級の人々が集うパーティーでラロイはストレスを爆発させ、パーティーを台無しにしてしまう。
コンラッドもラロイと同じパーティーの席で自身の新作が失敗に終わったことを知る。コンラッドのモデルとなったジョン・ギルバートもトーキー時代の幕開けと共にキャリアの終焉を迎えた。
ラロイのモデルとなったクララ・ボウも人気になると同時にギャンブルや、ドラッグなどのスキャンダラスな私生活のゴシップが報じられるようになり、かつ台頭してきたトーキー映画に順応できずに引退を余儀なくされた。
余談だが、この数年後、ハリウッドはヘイズコードとよばれる自主規制を導入し、表現の自由に自ら鎖をかけていく。それほどまでにモラルが求められるようになっていくのである。

光が強ければ強いほど、闇もまたその暗さを増す。

ハリウッドのダークサイド

ラロイはギャンブル中毒となり、多額の借金を背負い、返済しなければギャングに殺される羽目に陥る。金の無心に訪れたラロイにトレスは激昂するが、なんとか知り合いの俳優の男が金を工面したことで、 男と共にギャングの元へ返済に向かう。
だが、男が工面したその金は小道具係が作った偽物だった。その事実を知り狼狽するトレス。トレスらは極度の緊張の中、ギャングのボスにある場所へ連れて行かれる。
その場所、ロサンゼルスの地下では小人たちのショーやセックス、生きたネズミを食らう大男などアンダーグラウンドなショーが繰り広げられていた。

ほぼ同時期のアメリカのショービジネスを描いた作品として『バビロン』の約1年前に公開されたギレルモ・デル・トロ監督の『ナイトメア・アリー』がある。同作では地方の巡業サーカスの手伝いをしていた男が降霊術のトリックによって街の社交場で成功する姿と没落する様を描いている。
『ナイトメア・アリー』では鶏を生きたまま食いちぎる人間(獣人と呼ばれている)が登場する。獣人の素性はアルコール依存症の浮浪者だと劇中で語られるが、闇の部分においてはそこでしか生きられない者たちも多くいたのだろう。
ここまでのホラーサスペンス的な演出はこれまでのチャゼルの映画にはなかったものだ。
『バビロン』のこの一連の場面は本編の中でもかなり異色のパートになり個人的にはここまでの描写は浮いてしまっているようにも感じだが、そこまでしっかり描くことがチャゼルなりのこの時代に対する誠実さでもあったのだろう。

コンラッドもまた自身の人気の陰りを感じ取っていた。映画館へ行くと感動的なシーンのはずが観客はコンラッドの台詞に笑ってしまっていた。
友好的だったライターのエリノア・セント・ジョンはコンラッドの人気は凋落していると記事にする(ちなみに次のスターとして名が挙がっているのがクラーク・ゲーブル。実際にゲーブルはその後のハリウッドでビッグ・スターとなった)。

映画の本当の魔法

その真意を尋ねるためにコンラッドはジョンの元を訪れる。彼女は言う。
「あなたに何か原因があるわけではない。いくら自問しても原因はそこにはない。ただ、あなたの時代が終わっただけけ」
「あなたの人気が無くなってもまた何人ものコンラッドが生まれる」とも。その現実にコンラッドは打ちのめされる。
「でも、あなたが死んでも、誰かがあなたの映画を映写機にかけると、その度にあなたは甦る。」
「50年後に誰かがあなたの映画を観ると、その人はあなたを友人のように感じるでしょう。あなたはもうこの世にいないのに」
それが映画の本当の魔法だろう。容赦なく時代は変わり続けていく。その中には変わらないものもあるはずだ。
SNSによって様々な人が流星のように僅かに光っては消えていく現在、ジョンのこの言葉はスターの宿命と人気商売の核心を付いている。
ジョンの言葉を裏付けるかのようにその後コンラッドの元には誰もがオファーを断った後の食べ残しのような映画のオファーしか来なくなる。自身のキャリアの限界を悟ったコンラッドはホテルの部屋で自殺する。
コンラッドを演じたブラッド・ピットに関しては還暦を迎えようとしている今でもハリウッドのトップスターとしてまだまだ多くの映画の主演にオファーされ続けているが、かつて俳優という仕事ついて「役者という仕事は、若者のゲームだと思うようになった。 年配の役柄が不必要というわけではないけれど、それが自然の流れだと感じるようになった」と語ったこともある(2022年6月にも引退を仄めかすような発言をしているが、これは後に撤回している)。

一方トレスはギャングに渡した金が偽札であることがばれてしまい、ギャングの護衛を殺して命からがらその場を後にする。だが、そのままでは殺されるのは時間の問題だった。トレスは男とラロイを連れてメキシコへ逃げようとする。
『バビロン』ではキャストやスタッフが、撮影中にバタバタ死んでいく様が描かれる。それらはギャグとしてコミカルに撮られているが、常に死と隣り合わせの危険もハリウッドにはあっただろう。
トレスはラロイとの逃亡中に彼女と結婚する。だが、男を迎えにいった時にラロイはトレスの元から黙って立ち去る。
そして、男の部屋をギャングの手下が急襲する。一人生き残ったトレスは「ロサンゼルスに二度と足を踏み入れるな」という条件で命だけは助けてもらうのだった。

それから20年の月日が流れ、ニューヨークで電気屋を営むトレスは妻と子供とロサンゼルスを訪れる。かつて自分が働いていたキネスコープ社を訪ねた後、一人で街の映画館に立ち寄る。
そこで上映されていたのは1952年に公開されたジーン・ケリー監督の『雨に歌えば』。同作はまさにサイレントからトーキーへ移行する時代のハリウッドをテーマにしたミュージカル映画だ。テーマソングの『Singin’ in the Rain』はコンラッドが『ハリウッド・レビィユー』の撮影で歌っていた歌でもある。

一挙にトレスにあのハリウッドでの日々がフラッシュバックする。

デイミアン・チャゼルによる「映画史」

『ララ・ランド』のエンディングもそうだったが、チャゼルは現実と夢の境界線をどこまでも曖昧にしていく。ここではトレスがリアルタイムで体験していない映画まで、その歴史が一気に流される。

リミュエール兄弟が公開した世界最初の映画である『ラ・シオタ駅への列車の到着』、世界最初のSF映画と呼ばれた『月世界旅行』、ウィリアム・ワイラー監督による大作『ベン・ハー』、ジャン=リュック・ゴダールとそのミューズだったアンナ・カリーナ、スタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』、世界初のCG映画となった『トロン』、今なお名作と名高い『ターミネーター2』、映像革命と呼ばれた『マトリックス』、3D映画の先鞭にして代表となった『アバター』など、映画の誕生から今に至る膨大なアーカイブが流れ、それらは赤と青と緑と黄色の原色へ回帰していく。

スクリーンを観続けるトレスは劇場で映画を観ている私たち自身だ。
チャゼルは映画館を観ることを「映画という夢の中に身を委ねる行為」だと語る。
『バビロン』は夢も希望も絶望も喜びも恐怖も哀しみも快楽も死も慟哭も全てをスクリーンに映し出した。

『バビロン』はチャゼルによる「映画史」なのだ。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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