『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』赤狩りに抵抗し続けた名脚本家の人生

※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


1953年に公開された『ローマの休日』だが、公開当時の脚本はイアン・マクラーレン・ハンターとクレジットされている。今日ではそこにハンターと並んでダルトン・トランボの名前を見ることができるだろう。

なぜこのようなことになったのか?
トランボはハリウッドを長く追放されていたからだ。筋金入りの共産主義者だったダルトン・トランボは「赤狩り」の最も著名な被害者の一人でもある。

赤狩りの始まり

戦後、第二次世界大戦中は協力関係にあったソ連とはヤルタ会談を始まりとして対立構造が激化、いわゆる冷戦へと突入する。1947年に当時の合衆国大統領だったトルーマンはトルーマン・ドクトリンを宣言する。それはこれまで世界のリーダーであったイギリスに代わり、アメリカが世界のリーダーとなり、共産主義と戦っていくという宣言でもあった。そんな中でアメリカ国内の共産主義者たちは「国家転覆を目論むソ連のスパイ」と目され、社会から排除された。 それが赤狩りである。
共産主義者の疑いをかけられた者は共産主義者でないことを証明するために仲間の名前を密告さえした。その狂騒から赤狩りは現代の魔女裁判とも呼ばれる。

ローマの休日』のクレジットを見れば、今日トランボの名誉は回復されたことがわかる。

ハリウッドに最も嫌われた男

このダルトン・トランボのハリウッド追放から名誉回復までを描いた作品が『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』だ。
監督はジェイ・ローチ、主演はブライアン・クランストンが務めている。

ダルトン・トランボは1905年にアメリカのコロラド州に生まれる。若い頃はパン工場や酒の密売などを行っていたが、やがて映画評論家や編集者として働くようになる。そんなトランボは1936年に脚本家としてデビュー、1940年の『恋愛手帖』ではアカデミー賞脚色賞にノミネートされるなど、順調にキャリアを積んでいく。トランボは第二次世界大戦中にはすでに最も成功した脚本家としてハリウッドでその地位を築いていた。当時の代表作に『緑のそよ風』『東京上空三十秒』などがある。

『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』の冒頭ではとあるパーティーでサム・ウッドとトランボが映画製作について言い争うシーンがある。この二人が組んだ映画はひとつしかない。恐らくは『恋愛手帳』だ。 トランボは大道具のスタッフの賃上げを求めるストライキに「彼らにも稼がせてやれ」好意的であるのに対し、サム・ウッドストライキをする側にストライキをするとトランボと敵対関係を明白にする。

トランボはソ連への共感から共産主義者になったのではなく、弱い者のを助けたいという思いからだった。劇中でも身銭を切って仲間を助けようとするトランボの姿は何度も映し出される。一方のサム・ウッドはその後、1944年「アメリカの理想を守るための映画同盟」をジョン・ウェインらと設立し、積極的に反共活動を繰り広げていく。

「アメリカの理想を守るための映画同盟」は共産主義者およびファシストの浸入から映画業界およびアメリカ全体を守ることを目的に設立された。この組織のパンフレット(『アメリカ人のためのスクリーンガイド』)を書いたのは小説家のアイン・ランド。彼女はロシアからの移民であったが、ロシアのレーニンの独裁下では貧しい暮らししかできず、アメリカにわたり、自由と個人主義の中でようやく成功をつかむことができた。彼女の生い立ちを見れば彼女がなぜ共産主義のような大きな政府を否定し、自由競争、個人主義になぜこれほど傾倒したのかがわかる。
「アメリカの理想を守るための映画同盟」のメンバーの中は他にもクラーク・ゲーブル、ウォルト・ディズニー、ヘッダ・ホッパーらが名を連ねている。こうした反共産主義の運動は開始当時、国民からの圧倒的な支持を得ていた。

当時、ハリウッドで絶大な権力を保有していたルイス・B・メイヤー(メトロ・ゴールドウィン・メイヤーの共同創始者)だが、ヘッダ・ホッパーからの圧力に屈し、トランボらを解雇し、ハリウッドから追放せざるを得なくなる。

『ローマの休日』に込められた想い

ハリウッドを解雇されたトランボだが、その間も自宅で脚本を書き続けていた。ラジオからは反共活動による弾圧を非難するグレゴリー・ペックやルシル・ポールの声がしている。 トランボの書く脚本には「アン王女」の文字が映る。グレゴリー・ペックにアン王女…言うまでもなく『ローマの休日』を連想させる場面だ。

冒頭で述べたように『ローマの休日』の公開は1953年だが、その元となる脚本は1948年の段階で既に完成していたと言われている。それがこの場面だろう。ただ、この時点でトランボはハリウッドからブラックリストに入れられていたために自分の名前で脚本を世に出すことができなかった。そこで登場するのが、冒頭でも取り上げたイアン・マクラレン・ハンターだ。『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』ではアラン・テュディックがハンターを演じている。
トランボはハンターに「君の名前で作品を発表してくれ」と頼む。このように赤狩りのターゲットとなった人間に自分の名義を貸す役割は「フロント」と呼ばれる。1976年の監督、ウディ・アレン主演の作品『ザ・フロント』はフロントとして名儀を貸しただけの男が公聴会へ召喚される様子を描いたコメディだ。
ハンターもトランボに共感を示し、名義を貸しただけで、脚本料はそっくりそのままトランボに渡し、一切の中間マージンを取らなかったという。(『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』のなかでは1割を要求しているが。)

私は『ローマの休日 』の考察のなかでこの作品には男女の恋愛ばかりではなく、平和への祈りが込められていると書いた。確かにそれもあるだろう。しかし、脚本を書いたトランボの想いもまたそこに込められているはずだ。トランボの想いとは「尊重と共存」だろう。共産主義者がアメリカから攻撃される中で、トランボは例え人間同士で考え方や理想が違っていても互いの考えを尊重し、共に生きていくことができるというメッセージを『ローマの休日』に込めたのではないだろうか。

ハリウッド・テン

1949年には共産主義者を収容所へ送る法案が提出される。思想を取り締まり収容所に入れてしまうなど、全体主義のナチズムかディストピアのような内容だが、他ならないアメリカ自身が積極的に全体主義に近づいてしまったということは確かだ。

赤狩りを積極的に進めたのは共和党の議員、ジョゼフ・マッカーシーであるが、赤狩りの舞台となったのは非米活動委員会が行った公聴会だ。1947年に非米活動委員会はハリウッドの関係者を呼び出し、ハリウッドにアカがいないかどうか確認させた。その中には当時俳優組合の委員長を務めていたロナルド・レーガンがいる。
調査官のR・スリップリングはレーガンや労組委員長のロイ・ブルワー、映画監督のサム・ウッドなどに共産主義者について尋ねていく。
「俳優組合に共産党員が?」
「共産党の方針に従っているであろう少数のグループがいます」
「彼らは破壊分子と言えるか?」
「そのような行為をしています。 」
レーガンはそう明言した。
ロイ・ブルワーも映画産業は非米活動を根絶するために努めているか?と問われ、同様ににハリウッドの共産主義者の脅威について「共産党員はモスクワと通じています」と証言している。
また、サム・ウッドは共産主義への扇動者として、アーヴィング・ピシェル、エドワード・ドミトリク、F・タトルの名を証言している。こうして共産主義者の嫌疑がかけられた19名が召喚された。トランボもその一人だ。

共産党員であったことを理由に公聴会へ呼ばれたトランボだが、アメリカ合衆国憲法修正一条の「議会は言論の自由を制限する法律を作ってはいけない」という原則を理由に証言を拒んだ。そのことが議会侮辱罪として同様にハーバート・ビーバーマン、エドワード・ドミトリク、エイドリアン・スコット、アルバ・ベッシー、レスター・コール、リング・ラードナー・ジュニア、ジョン・ハワード・ロースン、アルバート・マルツ、サミュエル・オルニッツも証言を拒否して投獄された。証言台に上った人物は11名だが、プレヒトを除く10名は証言を拒否した。この10名を指して「ハリウッド・テン」と呼ぶ。ちなみに公聴会の中でサム・ウッドはエドワード・ドミトリクの名をあげているが、ハリウッド・テンの中でドミトリクは唯一転向した人物でもある。『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』の中ではその役を負うのはエドワード・G・ロビンソンだが、これは史実ではない。ではなぜドミトリクからロビンソンに「裏切り役」は変更されたのだろうか?

転向した人々

今作の監督であるジェイ・ローチが南カリフォルニア大学でドミトリクに師事していたこともあるだろう。ジェイ・ローチは今作においてトランボのような強い信念を貫いた男ばかりを讃えているのではない。ジェイ・ローチはこう言っている。
「監督は毎日現場に来ねば撮影は進まない、映画監督は偽名でやるわけにはいかず、ただ職を失うだけ」
無論、監督だけではなく、俳優であれば尚更だろう。
『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男  』の劇中でもロビンソンは下記のようにトランボに話している。
「君は偽名のおかげで自由に仕事ができる。だが、僕は顔が商売道具だ、代わりを頼めない。仕方なく証言した」
実際、公聴会で信念を貫き通した映画監督はエイブラハム・ポロンスキー、ハーバート・ビーバーマンのみと言われている。では圧力に屈してしまった映画監督はその後どうなったのか?
その代表がエリア・カザンだろう。公聴会への出席を一度は拒んだカザンだが、2回目の聴聞会ではカザンは自発的に共産主義者の友人の名前をあげた。エリア・カザンについては『波止場』で詳しく説明している。

『黒い牡牛』

トランボは1954年はアメリカに戻り偽名で仕事を続けた。トランボは映画プロデューサーであるキング兄弟のもとを訪れる。トランボは何としても仕事を続けたい思いがあった。また、キング兄弟はヒット作を産み出すことができない現状を打破するためにブラックリストに載ったトランボを雇い入れて、安く良い脚本を手に入れようとした。
トランボは脚本を早く書くことに長けていたため、キング兄弟のもとで多くの偽名を用いて脚本家としてB級映画作品の脚本やリライトなど量をこなして糊口を凌いでいた(これに関してはトランボは既成の作品を下敷きにして脚本作りを行っていたからだという指摘がある。事実、『ローマの休日』の設定は  1935年の映画『或る夜の出来事』に酷似している)。
トランボはキング兄弟のために『牡牛』『カーニバルの女』の脚本を書き上げている。ここで注目したいのはアーヴィング・ラバー監督の1956年公開の『黒い牡牛』だ。原題は『brave one』、勇敢な人という意味だ。
『黒い牡牛』は黒い子牛を大切に育てる少年の話だ。少年は寛大な牧場主から闘牛用に飼われていた牛を育てることを許されるが、牧場主の死とともにその約束は無くなり、牛は闘牛場へ送られてしまう。
少年はイタノと名付けたその牛をつれて逃げるがついには捕まってしまう。少年は家出して闘牛場のあるメキシコシティまでイタノを追いかける。ついには少年の想いが大統領に届き、イタノは少年の元に返される。
『黒い牡牛』はインダルトの物語だ。インダルトとは闘牛の世界で恩赦を表す言葉だ。『黒い牡牛』が発表された時点ではまだ赤狩りの影響は残っていた。トランボはロバート・リッチという偽名で『黒い牡牛』を発表している。だがトランボは赤狩りの終わりを感じていたのだろう。ブラックりストが有名無実化する確信を『黒い牡牛』の物語に込めたのではないだろうか。
今作は興行的には失敗するが、アカデミー賞原案賞を受賞している。

ブラックリストの終わり

ブラックりストが有名無実化というトランボの予感は的中する。当時からロバート・リッチはダルトン・トランボではないか?という噂はハリウッドに広く流れていた。
そんなトランボの元を訪れたのは名優カーク・ダグラス。彼が製作する大作映画『スパルタカス』の脚本執筆の依頼だった。「ストーリーはいいが、1ページも面白くない」ダグラスはそう言ってトランボに脚本を依頼する。『スパルタカス』は一人の奴隷の男がローマ帝国を相手に戦う話だ。トランボはそこに自分の人生を重ねたのではないか。
ちなみに『スパルタカス』の原作はハワード・ファスト。彼もまた公聴会に召喚され、証言を拒んだために投獄されたという経験を持つ。

さらにトランボの元を名監督のオットー・プレミンジャーが訪れる。彼の依頼は『栄光への脱出』の脚本執筆。主演はこれもダグラスと並ぶハリウッドスターのポール・ニューマンだ。
彼らは反共活動家の圧力にも負けず、トランボを起用し続けた。その姿勢にトランボも自らがロバート・リッチであると明かす。
そして『スパルタカス』『栄光への脱出』の2作とも脚本にはダルトン・トランボの名前はそのままクレジットされた。ここにブラックリストは終わりを迎える。

『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』のクライマックス、1970年の全米脚本家組合功労賞授与式でのスピーチでトランボは赤狩りを振り返ってこう言う。
「あの暗黒の時代をふりかえる時、英雄や悪者を探しても何の意味もありません。いないのですから。いたのは被害者だけ。
なぜなら誰もが追い込まれ意に反したことを言わされ、やらされたからです。
ただ傷つけあっただけ、お互い望んでもいないのに。」

『ローマの休日』ではアカデミー原案賞がイアン・マクレラン・ハンターに贈られたが、トランボの死後の1993年、改めてアカデミー原案賞がトランボに贈られることになった。

created by Rinker
¥2,469 (2024/05/20 10:57:38時点 Amazon調べ-詳細)
最新情報をチェックしよう!
NO IMAGE

BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

CTR IMG