※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています
やはり、新海誠は今の日本人に合わせた作品を作らせたら抜群に上手い。
今作『すずめの戸締まり』を観てそう思った。
『すずめの戸締まり』
『すずめの戸締まり』は2022年に公開された新海誠監督のファンタジーアニメ映画だ。原菜乃華、松村 北斗らが声優を務めている。
宮崎県に住む高校生の鈴芽。叔母と二人で暮らす彼女はいつもの朝をすごしていたのだが、ある朝、通学途中にイケメンの長髪の男から声をかけられる。「この辺に廃墟はない?」思わぬ言葉に戸惑いながらも鈴芽はその場所を男に教える。男の様子が気になった鈴芽は学校への道を引き返し、男の行方を追うことに。
廃墟となった集落の中で鈴芽が見たのはたったひとつだけ立っているドア。中を覗くとそこは異世界に繋がっていた。しかし、足を踏み入れようとするとその世界はなくなり、ただドアを跨いだだけになってしまう。鈴芽はドアの前に不思議な置物があるのを見つけるが、抱き抱えた途端に猫に変化し逃げてしまった。
不思議の連続に戸惑う鈴芽だが、お昼には学校に戻り、友達と昼食を食べていた。その時、鈴芽は廃墟の方から煙らしきものが出ているのを目撃する。だが、鈴芽の友人たちにはそれが見えていないようだ。
その煙はどんどん大きくなり、生き物のように町に倒れ込んでいく。その瞬間町は震度4の地震に襲われる。
鈴芽は煙の発生源の廃墟へ向かう。そこは鈴芽が開けっ放しにしていたドアから猛烈に放たれる黒煙と炎、そしてドアを必死に閉めようと来ている先程の男だった。「いますぐここから逃げろ!」男はそう叫ぶが、鈴芽は今の事態を招いた一因が時分にもあると思い、男の戸締まりを手伝う。
なんとかドアは閉まったが、男は左肩に傷を負ってしまった。鈴芽は自宅に連れていき、応急処置を施す。
鈴芽の部屋にはいくつかの本が散らかっている。もっとも目立つのはロシアの作家イワン・ツルゲーネフの『はつ恋』だ。
16歳の少年と年上の女性の恋愛を描いた作品だが、かなり倒錯した内容でもある。その女性ジナイーダは自分の崇拝者を自宅に集めてはいいようにあしらうような女性であり、一方で少年の父親と熱烈な恋愛をしている。
なぜ鈴芽はこのような内容の本を愛読しているのか?
少年が恋い焦がれた女性は知らぬ誰かと結婚したが、主人公が彼女に会いに行くと、彼女は数日前に急死していた。
こうしてみると『はつ恋』は喪失の物語でもある。愛する人を永遠に失うこと。それは鈴芽にとって母だった。『はつ恋』は鈴芽が失ったものとどう向き合うかの本でもあったのだろう。
話を戻そう。男は奏太と自分の名を名乗り、ドアを締めるために全国を旅しているのだという。鈴芽だけに見えた煙は通称ミミズと呼ばれるもので、ドアの中の異世界に住んでいるのだと草太は言う。あのドアは「後ろ戸」と呼ばれ、そのドアからは疫病や震災などの厄災が出てきてしまうため、草太はそれを閉じる仕事をしているのだった。
新海誠監督によると、後ろ戸という言葉は古典能楽における概念を表した言葉であり、精霊や神の世界につながっているのだという。
『すずめの戸締まり』における後ろ戸のは常世(とこよ)、つまり死者の世界に繋がっている。
草太と話していた鈴芽は、窓の外に猫を見つける。ひどく痩せた猫に鈴芽は餌を与える。
「さっきの地震は大丈夫だった?」猫に話しかけると「すずめ、大好き」と猫は返事をした。その猫は鈴芽が抱き抱えた置物の変化した猫だったのだ。だが「お前は嫌い」草太は椅子の姿に変えられてしまった。
鈴芽と椅子の草太は逃げた猫を追う。が、猫の行く先々で後ろ戸のドアが開かれ、ミミズが出現する。
鈴芽と草太は猫を追いながら二人で戸締まりを行っていく。
現代社会の転写
宮崎駿監督が引退を表明してから、ポスト宮崎駿は細田守になるかと思っていたが、個人的には『君の名は。』の爆発的なヒットで新海誠監督が一躍その筆頭に躍り出た感覚がある。
冒頭に述べたように、新海誠監督は今の日本人に合わせた映画を作らせたら抜群に上手い。
宮崎駿監督と新海誠監督の共通点は現代日本の社会を映画の中に巧に転写させていることだ。宮崎駿監督であれば『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』などがその筆頭として挙げられるが、あくまでも宮崎駿監督が描くのは今の日本ではなく、ある歴史の時代や架空の国などファンタジーの世界を舞台にした作品だ。
一方で新海 誠監督の作品はファンタジーやSFの要素を含みながらもあくまで舞台は現代の日本だ。特に『天気の子』は現代の日本における貧困の描写は特筆すべきであるし、今作『すずめの戸締まり』のベースにあるのも過疎化していき廃墟が増えているという日本の現実がある。
新海誠監督の映画はなぜこれほどヒットするのか?
新海誠監督の映画はなぜこれほどヒットするのだろう。
新海誠監督は『君の名は。』でブレイクを果たしたが、当時は同時期に公開された『シン・ゴジラ』の知名度やヒットが目覚ましく、だがその裏で知名度こそ無いものの『シン・ゴジラ』に劣らない勢いでヒットしていた映画が『君の名は。』だった。
結果として『シン・ゴジラ』は興行収入80億円としてもちろん文句なしの大ヒットとなったのだが、『君の名は。』はそれを越えて250億円というメガヒットになった。続く『天気の子』も141億円という興行収入を記録している。
今や名前だけで観客を呼べる数少ないアニメ監督の一人だと言える。新海誠監督はなぜここまでのヒットメイカーになれたのか。
新海誠監督の作品には水や星空を特徴とするその映像の美しさはもちろんなのだが、個人的には共感のし易さと日本特有のメンタリティが巧みに描かれているからだと思う。
共感のし易さで言うと、現代日本をそのまま描いているということは前に述べた通りだが、新海誠監督の作品には加えて非匿名性がある。架空の町や架空の商品ではなく、しっかりした実在の町や企業が描かれる風景や設定の中に登場する。『すずめの戸締まり』で言えばマクドナルドや各地の県名がその好例だろう。ここは宮崎駿監督とは対称的だ。『となりのトトロ』は昭和の日本が舞台で比較的現代に近い設定なのだが、作品の舞台設定がどの地域なのかは今でもネットで度々話題に上る。
また、アニメでありながら経済的な部分もしっかり描いているのもリアルだ。どこかへ移動すればそれなりの交通費もかかるものだし、食費や宿泊費もかかる。ファンタジーはそうした経済的なリアルさを全く無視する場合も多いが、新海誠監督は鈴芽のスマホ決済の履歴を通してリアルな旅の経費を観客に見せつける。つまり、さきほどに述べた非匿名性と合わせて、映画の世界を私たちの日常の延長線上だとイメージしやすくさせている。
メンタリティで言えば東日本大震災を繰り返し描いていることだろう。今の日本人のほとんどが共通して体験した最も衝撃的な出来事は2011年の東日本大震災であることに異論は少ないことと思う。
もちろん、世代によっては終戦もあるだろうし、湾岸戦争、イラク戦争などの世界的に大きな戦争も起きている。だが、言ってしまえば「所詮海外のこと」と割り切ることもできた。ほとんどの人にとって海外の戦争などは(自衛隊派遣や後方支援などでは国家としての関わりはあるものの)他人事だったろう。
だが、東日本震災は違った。もちろん被災された方や大切な人を亡くされた方とは比べようもないものの、日本人のほとんどが衝撃的を受け、その悲しみを共有したはずだ。それは共通の記憶として今なお脳裏に留まり続けている。
『すずめの戸締まり』では鈴芽は叔母と二人暮らしという設定だ。鈴芽が小さい頃に母親は亡くなっているが、後半になって母親は震災で亡くなったことがわかる。その理由がわかった時に胸を貫くような痛みを感じた。その感覚は震災以外の理由では感じられなかっただろう。
『君の名は。』でも隕石の衝突は震災の暗喩として描かれていた。
東日本大震災を描く覚悟
新海誠監督のインタビューを読むと震災というモチーフはこの映画でも大きな意味を持っていることがわかる。今の十代以下の子供たちの多くにとって震災は幼い、もしくは生まれる前の出来事だろう。
実際にこの震災描写に関しては賛否両論となっているようだ。正直に言えば、私はこのようなエンターテインメント作品の中で東日本大震災が描かれることに少し違和感を覚えた。リアルな悲しみを与えることのできる分かりやすい道具として震災を利用したのか?とも思えたからだ。だが、インタビューを読むと新海誠監督自身も覚悟を持って震災を描いたことがわかる。本作のメインターゲットとなる若い世代にも震災を風化させてはならないというメッセージには大いに頷ける。
この世界の中心
『すずめの戸締まり』は鈴芽の成長を描いたロードムービーでもある。新海誠監督はジブリの『魔女の宅急便』にも影響を受けたと語っている。松任谷由実の『ルージュの伝言』やしゃべらなくなる相棒やネコなど『魔女の宅急便』の分かりやすい目配せだが、一人で見知らぬ土地でさまざまな人と触れあう中で成長するという物語の骨子そのものが『魔女の宅急便』だとも言える。
ただ、個人的にはミミズの描写に『もののけ姫』の影響も感じた。『もののけ姫』は祟り神の呪いを受けた青年アシタカと、山犬に育てられた少女サンが神々と人間の対立の中で懸命に生きる道を探していく話だ。『すずめの戸締まり』で東京の空を覆うミミズは『もののけ姫』で首を探してさまようダイダラボッチを思い出させる。ダイダラボッチに触れたものは命を落とす。いわば死の象徴なのだ。
『もののけ姫』はダイダラボッチによって死の世界が広がっていく。ダイダラボッチを生み出したのは人間の強欲さだ。 人間は近代化を目指し、自然を支配しようとする過程で神々を殺していく。そして神々の頂点に立つシシ神を撃ち、その首を奪う。首を無くしたシシ神はダイダラボッチとなり、死を司る存在になる。
少年と少女の話という意味ではこれまでの新海誠監督の作品と変わらないが、『もののけ姫』のアシタカとサンは世界を救うためにダイダラボッチに首を返そうとする。
だが、新海誠監督の作品はいずれも大切な人を守ることが世界全体に優先してしまう。個人的に『天気の子』は好きになれなかった作品だが、それは主人公の少年が少女と再会したいがために日本全体を犠牲にしてしまうからだ。
『すずめの戸締まり』においても鈴芽は草太を救うために一度閉めた後ろ戸を再び開ける覚悟をする。
その後ろ戸は鈴芽が生まれた家にあった。
東北へ向かい、今は何もなくなったそこには鈴芽の日記帳が埋められていた。鮮やかな楽しい思い出の中に突然黒塗りのページが続く。その日付は3月11日。鈴芽の母親を奪ったのは東日本大震災で、孤児となった鈴芽は叔母さんに引き取られたのだった。鈴芽は劇中を通して「死ぬのは怖くない」と言う。その理由がここでわかる。震災を経験した鈴芽にとって、死は何より身近な出来事でもあったからだ。
「行ってきます」から「ただいま」
日記から後ろ戸を見つけた鈴芽はその扉を開く。その中は地獄とも思える光景だった。そこでミミズを食い止めていたのは要石となり、もはや人ではなくなった草太の姿だった。
草太を救う時に鈴芽は初めて「生きたい」と口にする。それは死者の国に溢れた、犠牲者たちの叫びでもあっただろう。
鈴芽と草太は元の世界へ戻る。そして後ろ戸に鍵をかける。
エンドロールでは叔母と鈴芽が、鈴芽が旅した土地で出会った人々と再び交流さている姿が微笑ましく描かれる。
ここも『魔女の宅急便』と構成は似ている。
新海誠監督は『すずめの戸締まり』を「行ってきます」から「ただいま」までの物語だと語っている。
鈴芽の世界は日常に戻ったのだ。たくさんの想いを携えて。