※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています
新海誠監督の映画『すずめの戸締まり』を観た。全体的な解説はこちらを見てもらうとして、敢えてそこでは触れなかったテーマにここでは挑んでみようと思う。
それは家族だ。
主人公の岩戸鈴芽は叔母の環と二人暮らし。実の母は鈴芽の幼い頃に亡くなっており、以来環と二人で鈴芽は生活してきたのだった。
二人の住む地域は宮崎県の田舎の過疎地域だ。ちなみに環の声を演じたのは深津絵里だが、元々大分県の出身で宮崎県の隣ということもあるのだろうが、九州の方言は流石のものだった。
『すずめの戸締まり』は高校生のすずめと大学生の宗像草太(とは言っても劇中の多くは椅子の姿だが) の二人が草太を椅子に変えた猫(劇中ではダイジンと呼ばれている)を追って日本を旅していく、言わばロードムービーであるとも言える。
だが、環からしてみればそれまで比較的真面目だった姪がいきなり友達の家に泊まると嘘をついて何日も帰らない。LINEも中々既読がつかないという事態になったわけで、親なら誰でも不安になるだろうし、所在が分ければ(鈴芽の事情関係なしに)迎えに行くという行動も当然だろう。
現実の象徴
『すずめの戸締まり』を鑑賞して感じたのは、この作品に登場する大人たちは「現実」の象徴だということだ。
子供向けの作品では親は無視されることが多い。『ドラゴンボール』の孫悟空、『るろうに剣心』の明神弥彦、『スラムダンク』の桜木花道、そのほとんどの人物の親は最初からいないか、ほとんど作中には出てこない。これから戦いや非日常の世界へ向かうときに、親は不要だからだ。
それは子供の「親(現実)から離れて自由になりたい」という想いの反映もあるのかもしれない。
だが、『すずめの戸締まり』は非日常の世界をユートピアにはしない。そこには常に現実とのせめぎあいがあることを描いている。環だけではなく、鈴芽の旅にかかる交通費や食事、宿泊などの問題も描いていることもその一つだ(そのどれも幸運によって大して苦労せずに手に入れてはいるが)。
日本人にとって「家族」とは何か?
宮崎から愛媛、神戸、ついには東京へとダイジンを追って鈴芽は草太と旅をする。だが、その途中で草太は「要石」となって、災いを封じるために常世(この映画ではあの世を指す)の世界に閉じこめられる。鈴芽は一人になってもなんとか草太を助け出そうとする。
環が鈴芽を見つけたのはそんな時だった。環にとっても宮崎から東京までの長い旅だっただろう。鈴芽にしても今までの非日常の世界で起きたあれこれはとても信じてもらえない出来事なのはわかっている。
二人は草太の友人の運転する車でわだかまりを抱えたまま東北に向かう。そして道中のパーキングエリアでついに二人の感情は爆発する。
「帰るわよ、バスがあるから」
「離してよ!環さんこそ帰ってよ!付いてきてなんて頼んでない!」
「あんたわからんと?私がどんげ心配してきたか!」
「それが私には重いの!」
ここまではよくある話だ。
「もう私、しんどいわ……」
「鈴芽を引き取らんといかんようになって、もう十年もあんたのために尽くして……。馬鹿みたいやわ、私」
「どうしたって気を遣うとよ、母親を亡くした子供なんて」「あんたがうちに来たとき、私、まだ28だった。全然若かった。人生で一番自由な時やった。なのに、あんたが来てから私は一番忙しくなって、余裕がなくなって、家に人も呼べんかったし、こぶつきじゃあ婚活だって上手くいきっこないし、こんげな人生、お姉ちゃんのお金があったって全然割に合わんのよ」
この場面はリアルだ。
同時期に観た『沈黙のパレード』でも似たような場面があった。『沈黙のパレード』では親子の場面ではなく、先生(正しくは先生の妻)と生徒という間柄だったが、愛情が束縛と受け取られ、それに反発する子供という意味では全く同じだ。しかし、『沈黙のパレード』では、それ以上踏み込んで内面を描いたりしなかった。「その愛情が重いの!」に続く「まるでストーカーみたい」という言葉の後に彼女は突き飛ばされたからだ。
反面、『すずめの戸締まり』はここまで内面を赤裸々に描くのかと驚いた。そこには日本で子供を抱えて生きることの何とも言えない生々しさがある。
環と鈴芽は家族だ。血の繋がりもある。だが、親子ではない。
ではなぜ環は鈴芽の保護者になったのか。鈴芽の母親が東日本大震災で亡くなったからだ。
新海誠は私たちの住む現実をアニメに持ち込み、その上にファンタジーを作っていく。
家族という病
かつては日本の家族と言えば『サザエさん』や『ちびまる子ちゃん』のような三世代同居が当たり前だった。だが、今の主流は『クレヨンしんちゃん』のような核家族型だ。進学や就職を機に親元を離れるということもあるだろうし、義理の両親と同居は何かと気を使うという事情もあるのかもしれない。
環の台詞からは「家族の呪縛」とでも言うべきものが透けて見えてくる。
元NHKアナウンサーの下重暁子氏の著書に『家族という病』という本がある。ベストセラーになったので知っている人もいるだろう。
鈴芽と環の言い争いの場面で私の脳裏に浮かんだのは正に「家族という病」という言葉だった。
『家族という病』は主張に極端な部分もあるのでそののまま受け取るには注意を要する部分もあるが、もちろん頷ける所もある。
家族という絆は時に鎖となりその中で暮らす個人を締め付けてしまう。また、世間が「家族」という集団に対して抱くイメージもある。例えば、下重氏も著書の中で指摘されていたが、「お母さんに似てきたね」という言葉はその一つだろう。子供に対してかけられる比較的オーソドックスな言葉の一つだと思う。もちろん発言した人には悪気はない。だが、その言葉を言われて嬉しいかどうかは本人にしかわからないのが本当の所だろう。
つまり、家族というものに本当は共通点などないのだ。仲の良い家族もいれば、そうでない家族もいる。血の繋がっている家族もいれば、そうでない家族もいるだろう。
しかし、世間は家族に特定のイメージを植え付ける。
世間体の元に明文化されていない義務も様々負うことにもなるだろう。だが、その呪縛に自分たち自身も囚われてしまっては不幸だ。
「家族だから」という免罪符
環の「こぶつきでは婚活も上手くいかない」という台詞もそうだろう。日本の世間は子供の存在が時に重荷になってしまう。ちなみに下重氏によると、フランスでは「子供のために我慢して離婚しない」ということは珍しいという。ストレスを溜めることなく、別れたらすぐに次のパートナーと暮らし始めることが多いという。その場合でも互いに連れ子がいることも珍しくない。その結果さまざまな家族が出来上がる。それは血縁に縛られたものではなく、もっと自由な形が当たり前のものとして受け入れられているのだ。
また、これも下重氏の指摘だが、日本で殺人事件における家族間の殺人事件の割合は近年上昇傾向にあるという。
もちろん老老介護などの問題も少なくないだろうが、家族の中でも「良い母親」「良い子供」を演じ切るのに限界が来たパターンもあるだろう。
環と鈴芽もまた「良き保護者」と「良い娘」の関係であり、今まで本当にお互いを理解できていたのかという点については疑問が残る。
環は「娘(正しくは姪だが)」ではなく岩戸鈴芽個人と向き合うべきだし、鈴芽も保護者ではなく、環個人と向き合うべきなのだ。
逆に「家族だから」と枕詞につけてズケズケ遠慮なしに言いたいことをぶつけてくる人もいるが、それも個人を見ていない証拠ではないか。 「家族だから」それは何の免罪符にもならない。
私たちが帰るべき場所
『すずめの戸締まり』は個人的には満足できた作品だ。というのも、非日常を新しい日常にせず、エンドロールできちんとそれまでの日常に回帰する様が描かれているからだ(このあたりは『魔女の宅急便』のオマージュでもあると感じるが)。
大人になればわかる。どれだけ非日常の夢を追い続けていても、どこかのタイミングで現実と折り合いをつけねばならないことも、日常へ帰っていかねばならないことも。
『すずめの戸締まり』の原作を読むと、このエンドロールについても映画より深く理解することができる。
エンドロールで描かれたのは鈴芽と環が宮崎へ帰る途中に、鈴芽が旅の途中でお世話になった神戸のスナックと愛媛の民宿にお礼に立ち寄った時の様子だ。
そこでは環が鈴芽以上にスナックに溶け込んで盛り上がっているのを見ることができる。
原作には「私は叔母の隠れた才能に驚かされた」との言葉がある。また、宮崎でいつもの生活に戻った後には環と口喧嘩することも増えたと言う。鈴芽はそれを「どこか気持ちの良い思考交換」と考えている。
家族=善であるとか、子供だから、親だからこう振る舞わなければならないという思い込みが私たちには無意識にあるのではないだろうか(もちろん教育をはじめとして、親として子供としての最低限の義務は存在するだろう)。
新海誠監督は『すずめの戸締まり』について「いってきます」から「おかえり」までの物語だと語っている。
私たちが帰るべき場所は何か。
ドアの先に続く「家族」について、見つめ直す作品でもあると思う。