『CASSHERN』は本当にひどい映画なのか?実写版「キャシャーン」の本当の物語

※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


それまでの日本映画にはない映像の斬新さ。それが『CASSHERN』を初めて観たときの印象だった。
一方で『CASSHERN』は興行的には成功したが、批評的には酷評が多かったように感じる。
結末が唐突で難解だったことがその大きな原因だろうと思うが、難解だからといって低評価を受けるのは酷だと思う。

難解さを感じる原因

スイスの映画監督ジャン=リュック・ゴダールが亡くなったとき、改めてその映画の革新性が称賛されたが、素直な目で見てゴダールの映画が面白いと思える人はごく僅かだろう(もちちろん、面白いとは魅力の有無はまた別物だ)。だが、ゴダールが映画を撮れば、それはゴダールの作品というブランドを持ち、よもや駄作と言われたりすることもないのだろう。だが、それではあまりに映画に対して不誠実な態度ではないだろうか。
難解な作品であれば、そこに隠された監督の意図に迫ってみるのが映画とのあるべき向き合い方だろうと思う。考察を深めるうちに思わぬ発見や知識との出会いもある。ゴダールの『気狂いピエロ』のレビューでも書いたのだが、難解だと感じる原因を映画と同時に自分自身に中にも見つけてほしいのだ。
さて前置きはこのくらいにして、改めてここで『CASSHERN』について紹介しよう。

『CASSHERN』

『CASSHERN』は2004年に公開された紀里谷和明監督、伊勢谷友介主演のSFアクション映画だ。1973年から1974年にかけてフジテレビ系列で放送された『新造人間キャシャーン』の実写化であるが、設定などは大きく変更が加えられており、そこには紀里谷監督自身のメッセージが色濃く反映されている。
『CASSHERN』は確かに一見しただけでは難解な物語であり、かつダークでシリアスな作品だ。『CASSHERN』について、否定的な意見も肯定的な意見も見るが、どれも制作者の意図や想いまで深く汲んだものはほぼ見られない。

『CASSHERN』の考察と読み解き

今回は散りばめられた引用やメタファー、紀里谷監督のインタビューや未公開シーン、当初の企画書の内容も合わせて改めて『CASSHERN』を考察してみたい。
まずは『CASSHERN』の設定やストーリーから始めよう。ちなみにこの設定については企画書の設定も一部補足的に引用している。

大亜細亜連邦共和国

物語の舞台は50年に亘る戦争でヨーロッパ連合に勝利した大亜細亜連邦共和国だ。企画書の設定によると、ユーラシア大陸は「アルマトイの合意」という条約によって分割委譲され、ブロック経済圏を構成しているとされていたが、本編では大亜細亜連邦共和国の一強支配に変更されているようだ。
だが、大亜細亜連邦共和国の圧政と弾圧に対し、各地でテロが頻発。特に第七管区と呼ばれる地域では苛烈を極めた(大亜細亜連邦共和国の国旗などのデザインを見ると、ナチス・ドイツを意識しているのがわかる)。軍部は兵力を増大させ、多くの若者を戦地に送り込んだ。

新造細胞

戦争によって経済は疲弊、経済再建のために工業化を推し進めた結果、人口の6割が現在の医療技術では治すことのできない「公害病」にかかっている。
遺伝子工学者の東博士は公害病を患っている妻ミドリのために「新造細胞」の研究を進めており、その実用化のために新造細胞を学会で発表する。様々な人体のパーツに応用でき、かつ拒絶反応も起きない画期的なものだったが、学会からの反応は冷たいものだった。
そんな中、日興ハイラルの内藤と名乗る男が東博士に研究所の提供を申し出る。内藤の背後には国家元首の上条将軍がいた。内藤は上条将軍の命令で動いていたのだ。上条将軍も高齢で残された命はわずか。自身の延命のためにも新造細胞は重要だった。だが、の政治体制のなかでは新造細胞を公的に支援することはできずに、内藤を通じて研究に力を貸すことになった。ちなみに内藤の祖父は731部隊にも関わり、のちのミドリ十字を立ち上げた内藤良一氏であるとの隠された設定もある。
一方、東博士の息子である東鉄也は研究ばかりの父親への反発から従軍を決意する。「お前は戦争がどんなものかわかっていない」その言葉は鉄也には届かず、婚約者の上月ルナと家族を残して、鉄也は戦場へ向かう。

鉄也の戦死

一年後、鉄也は第七管区で民間人の銃殺命令に怯える新兵の代わりに無抵抗の民間人を射殺。心に深い傷を負う。しばらくして、別の場所で殺害した女性が抱いていた赤ちゃんを抱き上げたところ、隠されていた手榴弾のピンが外れ、爆発。鉄也は命を落とす。
鉄也は魂となって家族の元へ帰還する。だが、母のミドリと再会した直後、ミドリは鉄也の戦友から鉄也の死を知らされ、慟哭する。
鉄也の戦死の知らせは東博士の元にも届けられた。鉄也の遺体が陸軍本部へ届く直前、空から稲妻のような構造物が新造細胞の研究所へ落下する。
稲妻が落ちた新造細胞の培養槽の中ではでは細胞が活性化し、次々と生命が誕生した。そして培養槽からは無数の人型の生物が生まれた。予想外の出来事に戸惑う内藤は生物の射殺を命令。辛くも虐殺を逃れたブライキング、ザグレー、アクボーン、バラシンはミドリを人質にし、逃避行を続ける。

洗礼

東博士はルナの父親で友人の上月博士の忠告も聞かずに、鉄也の遺体を培養水槽に浸ける。東博士の狂気がよくわかるシーンだが、一方でこの場面はキリスト教の洗礼をイメージさせる。キリスト教における洗礼はそれまでの罪を清め、神の子として生まれ変わる儀式でもあるが、『CASSHERN』においては生まれ変わる(=新たな命を与えられる)以上の意味を持っていないように思う。聖書の上でも洗礼を受けてもユダは罪を犯し、また現実世界でもキリスト教はあらゆる争いの根源になってきた事実があるが。
「そっちの世界に戻りたくない!」そう叫ぶ鉄也の意志は届かず、鉄也は新造人間として蘇生する。東博士は生き返った鉄也を上月博士に預ける。

我々は生きている!

一方、ブライキング・ボスらは流浪の果てにヨーロッパ連合の要塞とロボット兵器を見つける。

「我々は生きている!我々はまぎれもなくここに生きている!
しかし、人間はそれを認めようとはしなかった。そればかりか、目にもあまる残虐な手段を尽くして、われら同胞の命を排除した。
あたかも裁きを下す者のごとく、あたかも彼らがその権利を有するかのごとくだ。
命に優劣があろうか。生きるという切実なる思いに優劣などあろうか。ただひとつの生を謳歌する命の重みに優劣などあろうか。あるはずがない。
しかし、人類は目に見えぬ天秤の上に我々を載せた。それが仮に彼らの権利であるというのならその逆もしかり!我々がその権利を有することも可能なのだ。
我々はここに王国を築く 我らの命が命ずるまま、我らの意思の赴くまま、そして我らの願いが導くがまま!
ここに我らを、地を治むる新たな”新造人間”と称し、人間を皆殺しにする」

このブライキング・ボスのセリフ「我々は生きている!我々はまぎれもなくここに生きている!」は1931年に公開された『フランケンシュタイン』のセリフ「It’s alive! It’s alive!(生きてる、生きてる!)」を彷彿とさせる(こちらは創造主であるヴィクター・フランケンシュタインの言葉だが)。新造人間もまた創造主に愛されなかった「フランケンシュタインの怪物」なのだ。

ブライキング・ボスらは新造人間たちよ世界の再興のために科学者や技術者を拉致していく。上月博士の元にも新造人間のザグレーがやってくるが、鉄也が覚醒し、戦闘の結果ザグレーを倒す。上月博士はザグレーによって負った致命傷で瀕死の状態だったが、鉄也に「君が背負うべき運命はあまりに残酷だ。だが、これにも必ず意味はあるはずだ」と言い残し絶命する。
既に街には新造人間たちのロボットの大群が闊歩していた。ルナは鉄也を連れて隠れるが、鉄也は母を連れ去ったブライキング・ボスの姿をロボット達の中に発見し激昂する。

戦闘シーンは『CASSHERN』の中でも一番の見せ場だろう。ここではTHE BACK HORNの『レイクエム』がよりシーンを引き立たせている。『レクイエム』はこの映画のために書き下ろしされた楽曲だが、この曲とテーマソングの宇多田ヒカルの『誰かの願いが叶うころ』を合わせるとまた違った角度から『CASSHERN』という映画が見えてくる。楽曲面からの考察も後ほど行ってみよう。

その頃、東博士と内藤は中条将軍から新造細胞の成果について叱責を受けていたが、中条将軍の息子である中佐がクーデターを断行。将軍に変わって実権を掌握する。

さて、ブライキング・ボスとの戦いに敗れた鉄也はルナを連れて街を離れる。たが、その際に汚染地域を通ったことでルナは公害病に感染。老医師の案内によって鉄也とルナは町へ到着する。そこは鉄也がかつて民間人を虐殺した「第七管区」だった。

キャシャーンとしての覚醒

そこには第七管区の人々の拉致を目的とした軍と、ザグレーの敵である鉄也を追ってバラシンとアクボーンが迫っていた。
老医師から、この地の守り神であるキャシャーンの話を聞いた鉄也は老医師に自らの過去を懺悔し、この町を守ると決意する。バラシンとの戦いで自らを「キャシャーン」と名乗る鉄也。バラシンを倒すが、ルナとアクボーンは軍に拉致されてしまっていた。
アクボーンは軍の手からルナを庇って重傷を負う。軍人は東博士の手で倒され、ルナ、アクボーンは研究所へ行く。そこに駆けつけたのは内藤だった。もう新造細胞の研究を続けるしか生き延びる道はない、そう言う内藤の手首には下級階層出身であることを示す入れ墨があった。
東博士は「もう無理だ」と言い、研究を諦めようとする。そのときに研究所へまた稲妻が落ちる。その稲妻によって生じた崩落により内藤は致命傷を負う。そして、第七管区にも稲妻が落ち、鉄也を研究所へ移送させる。さらにそこにブライキング・ボスも現れ、鉄也を連れていく。

ブライキング・ボスの要塞に運ばれた鉄也。鉄也についてきたルナはブライキング・ボスとともにアクボーンの最期を看取る。涙を流すルナにブライキング・ボスは「ありがとう」とお礼を言うのだった。
ブライキング・ボスは唯一の新造人間の生き残りとなった鉄也に仲間になれと言う。鉄也とブライキング・ボスの考えは平行線を辿るが、一方で鉄也は何が正しいのかわからなくなっていた。そんな鉄也にミドリは「争いを治めなさい」と伝える。

新造細胞の真実

大亜細亜連邦共和国では中条中佐のクーデターは失敗し、権力は再び将軍に戻っていた。軍の攻撃は熾烈さを増し、ブライキング・ボスの敗北は時間の問題だった。ブライキング・ボスはミドリに「許せ」と呟き、最終兵器のロボットを起動させる。
鉄也は「争いを治める」という目的のもと、最終兵器の爆発までの時限装置を止めようとするが、もうそれを止めることはできなかった。時計の針を止めようとする鉄也は磔になったキリストのようでもある。キャシャーンとしての鉄也の人生はキリストの受難でもあった。
ブライキング・ボスの元には中条中佐が訪れ、新造細胞の真実を伝える。
新造細胞は成功しておらず、全人類の始祖であるオリジナル・ヒューマンを拉致し、バラバラにしていたのだという。そしてオリジナル・ヒューマンとは第七管区の人間たちであり、ブライキング・ボスも元は第七管区の人間であったという真実だった。

第七管区という存在しない町

『CASSHERN』の隠された設定として、第七管区は存在しない町であり、死後の世界であるという設定がある。
なぜ第七管区だけモノクロで描かれるのかはそこが死後の世界だからだ。紀里谷監督によると老医師だけがそれを認識しているという。老医師もこの世の存在ではないのだ。
ではなぜそこに自由に人々はアクセスできるのか。
個人的な考察を述べれば、第七管区とは現世とあの世の境にある町なのだと思う。第七管区の人々は全ての人類の始祖、オリジナル・ヒューマンであったとされるが、これを純粋無垢な魂ととらえることもできるはずだ。つまり第七管区とは、人間として転生する前の魂の住む場所ではないのか。老医師は第七管区は昔は平和な場所だったと言う。だが、今やそこにも争いは広がっている。これは貧富や格差が広がり、もう生まれた瞬間から既に差がついてしまっていることを示していないだろうか。

許し合うこと

話を戻そう。ブライキング・ボスは人間であったという事実を受け入れようとしなかったが、中条中佐は手榴弾を起動させる。
鉄也は今までの因果を理解する。新造細胞を得るために第七管区での戦闘があり、そして人間だった頃のブライキング・ボスの妻を殺したのは鉄也自身だったのだ。
「許してくれ」全てを理解した鉄也はブライキング・ボスの遺体にひざまづいて懺悔する。
そこに死んだミドリを抱えて東博士が現れる。なおも培養液で死者を蘇らせようとする博士に鉄也は怒りをぶつけるが、東博士はルナを殺し、鉄也がそれでも愛する人を蘇生させないかを試す。鉄也はついに博士を殺す。ブライキング・ボスの血液によってルナは生き返るが、鉄也はここで争いを終わらせようとルナに呟く。周囲では多くの死者の魂が光となって空へ登っていた。鉄也とルナの肉体も光となって空へ飛んでいく。
「僕らはまず許し合うべきだったんだ」
ルナと鉄也、多くの人の光は一つの稲妻となって、また違う星へ届こうとしていた。

『CASSHERN』の物語はここで幕を下ろす。これからは解説を加えていこう。

『CASSHERN』の解説

『CASSHERN』はビジュアル面を含めて多くの作品から引用やメタファー、影響を受けてもいる作品でもある。ストーリーや設定だけでもキリスト教はもちろん、シェイクスピアの『ハムレット』、テレビアニメの『伝説巨神イデオン』など多岐にわたる。
紀里谷監督は『CASSHERN』はシェイクスピアの『ハムレット』をストーリーの下敷きにしていると言う。恐らく鉄也がハムレットであり、ブライキング・ボスがレアティーズだろう。
自分の意志に反しながらもかつてのブライの妻を殺した鉄也と、理不尽にも同胞を奪われたブライキング・ボス。
そして、ハムレットの話の通りにほとんどの登場人物が悲劇的な結末へと向かっていく。

稲妻とは何だったのか?

映画の解説を読むと稲妻は人々の魂と祈りの集合体だと書いてあるものもある。だが本当だろうか?少なくとも『CASSHERN』の世界では稲妻は命を与えたが、その結果さらなる争いと不幸を生んだ。
キリスト教において雷は神罰を意味する。『CASSHERN』の始まりの画は雲の上で雷を抱く神の像が写し出される。
ギリシャ神話では最高神で天空と人々の神であるゼウスが雷を司る神として有名だ。ゼウスは法と正義を人間界に与え、見守る役割もあるとされている。
もうひとつのポイントは『CASSHERN』の根底にはキリスト教の原罪の概念があることだ。人間は生まれながらに罪深き存在であるという思想だ。

素直に読めば『CASSHERN』における雷は人間の魂であり、生命そのものだ。『CASSHERN』に強い影響を与えた『伝説巨神イデオン』のラストシーンに注目したい。(『CASSHERN』のラストシーンは『伝説巨神イデオン』のオマージュとも言える)。
『伝説巨神イデオン』は異星人と人類との争いを描いた作品だが、愚かにもコミュニケーションのミスから生じた誤解が積み重なり、こよ両者は争っているのだった。劇中には神のごとき存在である「イデ」が登場するが、イデは争いをやめない人類と異星人に絶望し、彼ら文明を持つ者全てを滅ぼす。魂だけの存在になった彼らはようやく互いを理解しあい、新たな生命の種として輪廻転生を果たす。
以上が、『伝説巨神イデオン』の結末だが、そう考えると『伝説巨神イデオン』に登場する神の役割は『CASSHERN』には存在しなくなる。
だが、原罪論の立場で見ると、命を与えられ、生まれたことそのものが罰ではないかとさえ思えてくる。

『CASSHERN』の世界にイデのような神は登場しないが、命を与えられると同時にその「善」を試されてもいるのだろう。だが、現実には生きるということは非常に残酷だ。それを凝縮したのが『CASSHERN』の世界ではないか。
誰かの幸せは誰かの不幸の上に成り立っている。共存共栄のユートピアは成り立たない。だが、それでもどちらが悪と決めることもまたできない。

世界への目線

こうしたシェイクスピアやキリスト教の素養を物語の骨子に置いたのは、紀里谷監督の照準が海外に置かれていたからではないかと思う。
2015年の監督作『ラスト・ナイツ』も日本の古典とも言うべき『忠臣蔵』をベースにしたストーリーだが、そこには海外にも通じる信頼や忠誠など、どの国でも普遍的な価値観がある。
また2023年に公開された監督作『世界の終わりから』のインタビューの中で、紀里谷監督は「『CASSHERN』、『GOEMON』のあたりは、作家的な主張以上に国益を考えていた」とも語っている。日本には魅力的なコンテンツが多くあるのに、なぜそれを自国で実写化しないのか?ということだ。確かに当時は今のように何でも実写化という流れはそうなかった。それから技術の発達やコンテンツそのものを作成する手間もなく一定の成功を見込みやすいことから、マンガやアニメの実写化の流れは加速していったように思う。ただ原作が人気を得ていた作品の実写化にはその分厳しい批評も集まりやすい。
『CASSHERN』はむしろ海外で評価されたという。映像の素晴らしさはもちろんのこと、物語のバックボーンにあるキリスト教やシェイクスピアは海外の観客の方が馴染みやすかった面もあっただろう。

なぜ『CASSHERN』は批判されたのか?

『CASSHERN』のメッセージはシンプルで、「なぜ人は争うのか?」ということと、争いをなくすには「まず互いを許し合うことが必要だ」ということだ。鉄也はその答えに辿り着きつつも、それをもはや劇中の世界で叶えることは不可能だと悟って光になった。
確かに『CASSHERN』のメッセージには青臭さも感じざるを得ない。それは平和憲法が今の戦争のない日本を生んだという机上の平和論とも言えるメッセージの青臭さだったのかもしれない。『CASSHERN』が批判されたのにはそういったこともあるのではと思う反面で、こうも思う。「本当に戦争に趣き、私怨のない人を殺す覚悟はあるのか」と。
戦争のきっかけが経済や安全保障、圧政にあるのだとしたら、それらの最大公約数は国家という単位になるだろう。
そこで唱えられる平和憲法的な平和論はやはり理想的に過ぎるのだ。

だが、それでも「許し合おう」というメッセージに価値がないわけではない。
戦争は政治的な行為であり、独裁国家でもない限り一個人が始められるものではないが、その土壌は一人ひとりの個人が生み出すものでもあると思う。かつての日本がそうだったように、戦争への道を煽り、歓迎したのは国民自らだったのだ。
非武装を唱えていれば相手も攻撃しないのは幻想であり、平和論の行き着く先は何もかも奪われようと非暴力・非服従を貫くガンジー主義か、もしくは国家としては非武装だが、個人としては相手を殺していく、その二通りしかないだろう。
今の日本の平和はアメリカの軍事力によって与えられた歪なものだ。 ここにも『CASSHERN』と現実世界のリンクが見えてくる。
米軍基地の元で日本は平和を享受できているが、その負担は日本の米軍基地のを占める沖縄を始め、日本のごく僅かな地域に集中している。
『CASSHERN』でも文明を享受する代わりに公害病が蔓延し、また人造細胞の研究のために下層の人間は虐殺されている。
誰も幸せになる権利を否定はされないが、現実ではそうはなっていない。

楽曲から読み解く『CASSHERN』

先に述べたように『誰かの願いが叶うころ』と『レクイエム』は『CASSHERN』のために書き下ろされた楽曲だ。
『誰かの願いが叶うころ』のメッセージは歌詞にもあるようにみんなの願いは同時には叶わないということだ。そして『レクイエム』は善も悪もないということと、生きる場所も選べないという内容だ。
ブライキング・ボスの言うように、人間の作り出した世界に楽園はもう存在しない。
上月博士の言葉の通り、鉄也がキャシャーンとして生き返ったことには果たして意味があったのか?
表向きはヒーロー映画だが、『CASSHERN』は徹底的にヒーローを否定している。

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