『気狂いピエロ』平行線の愛と永遠

※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


ジャン・リュック・ゴダールが亡くなった。世間は岸田内閣の支持率や、あるいは統一教会の話題で溢れる中、個人的には最も驚いたニュースのひとつだった。
訃報を知ったその日、自宅にあるDVDを久しぶりに観返すことにした。
ジャン・リュック・ゴダール監督作の『気狂いピエロ』だ。

『気狂いピエロ』

ゴダールの作品は人を選ぶ。今の明快で軽快なテンポ、説明的に過ぎる台詞や分かりやすい起承転結に慣れた人にはまず向かないだろう。
かくいう私もゴダールの作品を観るのはある意味で修行であり、古典映画のお勉強の一つとして観ている場合が多いのだが。
さて、今回紹介する『気狂いピエロ』はそんなゴダールの代表作とも言われる作品だ。公開は1965年。主演をジャン・ポール・ベルモンド、アンナ・カリーナが務めている。
この映画を一言で説明するのは難しい。敢えて最も平易な言葉でいうならば犯罪映画もしくはロードムービーと言えるかもしれないが、同時にそれらは最も的外れな言葉かもしれない。
確かなのは男と女の物語であるということだ。

時代と寝るということ

ゴダールの映画を評したものには、その革新性を賛美したものが多い。それまでの映画の常識をことごとく打ち破ったからだろう。
四方田犬彦は映画はゴダール以前とゴダール以後しかないと述べている。また、映画監督の押井守も「映画を『発明』したのはゴダールしかいない」と発言している。
ゴダールやトリュフォーなど当時のフランスの新鋭監督の映画はヌーヴェル・ヴァーグと呼ばれた。日本語に訳すと「新しい波」となる。
その始まりはゴダールが弱冠29歳の時に発表した『勝手にしやがれ』だろう。

そこから数年でゴダールの名は世界に広まっていった。
押井守監督によると、当時は革命や既存のに反抗する流れがあり、ゴダールもまたそうした流れの一つとして受け入れられ、人気になったという。

日本でもそうした ヌーヴェル・ヴァーグの作品は話題になった。期を同じくして日本映画にもそれまであまり見られなかった表現や設定が現れるようになる。性の奔放さや社会から弾かれた者を主人公とする等の反権威性を描いた作品だ。代表的な所では大島渚、篠田正浩、吉田喜重ら当時の新人・若手監督を指して松竹ヌーヴェル・ヴァーグと呼ばれた(名付け親は『週刊読売』の記者であった長部日出雄)。
大島渚本人は松竹ヌーヴェル・ヴァーグという呼称に激しく反発したというが、当時の映画人にとってゴダールがいかに大きな衝撃を与えたかが伺い知れるエピソードだ。

「時代と寝る」という言葉がある。まさにゴダールは時代に愛され、そしてそのまま時代を変えてしまったと言えるだろう。
だが、ここではゴダールの革新性に触れるのは避けておく。当時をリアルタイムで生きた人でなければゴダールの衝撃を真に理解できたとは言えないと思うからだ。
例えば私がリアルタイムで衝撃を受けた映画といえば『マトリックス』だが、『マトリックス』以後に生まれた人にとっては『マトリックス』も凡百のアクション映画と大差ないのだろう。
生まれた時からすでに「ゴダール以後」の映画がスタンダードだった私がゴダールの衝撃や革新性を語るのはどうしても嘘っぽく、また不誠実な気がするのだ。

ゴダールの視線

では『気狂いピエロ』で何を書くのか。ゴダールの当時の状況を踏まえて、ゴダールが作品に込めた想いを考察してみたい。
映画の中にちりばめられた、あらゆる引用や詩も結局はそれを表現するためのツールに過ぎない。

『気狂いピエロ』は今でこそヌーヴェル・ヴァーグを代表する名作との認知が一般的だが、1965年のヴェネチア国際映画祭に出品された時はブーイングの嵐だったという。引用が多く、ストーリーに対して意味を為すのかどうなのかわからないセリフが多く散りばめられ、またそのストーリーもほとんどの時間においてはあってないようなものだからだ。
そんな中で詩人のルイ・アラゴンだけは本作を高く評価したという。
「外へ出るとパリの市街が真っ赤になったかのように見えた」アラゴンは観賞後の感想をそう述べている。
「今日の芸術とはジャン・リュック・ゴダールに他ならない」

ゴダールを擁護するとするならば、ゴダールは今作の冒頭で『気狂いピエロ』がいかなる映画なのかをしっかりと表明している。
「晩年のベラスケスは明確なものを描かず、空気や夕日の色を多用した。背景の影や透明感を魅惑的に表現した。
それが沈黙の交響曲の目に見えない核。
彼の世界は形と音が混ざり合う。神秘的な交感の寄せ集め。障害をものともせず、密やかにしかし絶え間ない進歩を続ける。
空間の支配
表面を滑る空気の波のように湧き出たものを吸収し、モノを形作る。
そして香りのようにエコーのように運搬し、目に見えないチリのように拡散する。」

冒頭からいきなり引用だ。これはエリー・フォールの『美術論』にあるベラスケス論の一節だ。
また、ジャン・ポール・ベルモンド演じるフェルディナンの赴く退屈なパーティーには映画監督のサミュエル・フラー(演じているのはフラー本人!)も来ており、映画とは何かをこう語る。
「映画とは、戦場のようなものだ。愛、憎しみ、アクション、暴力、そして死。要するに、エモーションだ」
端的に言ってしまえばこれが『気狂いピエロ』の全てだ(基本的にはゴダールが書いた台詞だが、エモーションという言葉はフラーが用いたものらしい)。
あとはそれを埋める男と女の会話がある。

ゴダールとカリーナ

『気狂いピエロ』ではフェルディナンとアンナ・カリーナ演じるマリアンヌの恋と破滅が描かれるわけだが、そこにゴダールとカリーナの恋愛劇を重ねずにはいられない。
カリーナとゴダールの関係は『勝手にしやがれ』製作時期までさかのぼる。
『勝手にしやがれ』で裸になってくれる女性を探していたゴダールは石鹸のCMでシャワーシーンを披露していたアンナ・カリーナに出演を打診する。シャワーシーンをやっているのならヌードも大丈夫だろうと考えたらしい。しかし、カリーナはヌードを断固として断っている(CMも石鹸の泡によって巧妙に隠されているが、水着のようなものを着用していたという)。
そのような出会いだったために、カリーナのゴダールに対するイメージは最悪だった 。

そんなカリーナに転機が訪れたのはそれから4ヶ月後だった。当時ゴダールは『勝手にしやがれ』によって天才監督として映画人たちの注目の的だった。カリーナは初対面時の印象からゴダールに再度会う気はなかったというが、の強い勧めによってゴダールと会うことにした。ゴダールはカリーナに「今度は脱がなくていい」と言い、「ヒロインを演じてほしい」と述べた。
そしてゴダールとカリーナの蜜月時代が始まる。その第一作目は1960年に公開された『小さな兵隊』だ。
ここには興味深い逸話がある。『小さな兵隊』のヒロインは広告でも募集をかけられていたのだが、そこには「ゴダールの次回作のヒロイン兼恋人を募集」と書かれていたのだ(文章を書いたのはフランソワ・トリュフォーらしい)。
すると、フランスのメディアの注目は一斉にアンナ・カリーナに向けられた。新鋭の天才映画監督の恋人としてゴシップの的になったのだ。
当時のカリーナはまだ20歳前後。涙を流してもうゴダールの映画には絶対に出ないと怒鳴ったカリーナにゴダールは「ハンス・クリスチャン・アンデルセンのおとぎの国の女の子が涙なんて流してはいけない」と電報を打ったという。そしてカリーナがドアを開けるとそこには50本のバラを抱えてゴダールが立っていたという。いささか出来過ぎのようなエピソードだが、これは後年カリーナが事実としてインタビューの中で語っている。
それから『女は女である』『女と男のいる舗道』『はなればなれに』『アルファヴィル』でカリーナはゴダールの映画に出演し続けた。また1961年にはゴダールと結婚し、公私ともにパートナーとなった。
しかし、1965年にはゴダールとカリーナは離婚。その最中に製作されたのが『気狂いピエロ』だ。

アンナ・カリーナへの視線

推理作家のジャン・ベルナール・ブーイは『気狂いピエロ』のコメンタリーの中で本作におけるフェルディナンとマリアンヌの会話はゴダールとカリーナの会話であったかもしれないと言う。
しかし、『気狂いピエロ』に見られるカリーナの生き生きとした表情、躍動に溢れた瑞々しさはどうか!映画の中でカリーナのファッションは目まぐるしく変わっていき、それも今作のカリーナの魅力を引き立ててはいるのだが、しかしそれが無かったとしても、今作のカリーナの美しさは群を抜いている。

アンナ・カリーナを語る様々なコラムや評論があるが、そのほとんどはゴダールを中心に女優としてのカリーナを綴っている。アンナ・カリーナとゴダールが共に作り上げた映画は7と1/2本。これほどまでにカリーナと組んだ監督はゴダール以外にはいない。そう考えると女優アンナ・カリーナを語るときにはどうしてもゴダールの占める比重が大きくなる(ちなみに7と1/2という表現はアンナ・カリーナ自身がフェデリコ・フェリーニの『8 1/2』から思い付いたものだ)。それほどまでの関係性を築いていたからという事はもちろんあるだろうが、『気狂いピエロ』においてカリーナ演じるマリアンヌはどこまでも自由なのだ。それはこれまでのゴダールとカリーナの作品とは異なる部分でもある。

平行線の愛

フェルディナンはマリアンヌを愛しているが、二人の会話はすれ違うばかりだ。マリアンヌは自由で時にフェルディナンに甘く囁き、時にフェルディナンを密かに利用する。フェルディナンはマリアンヌとキスし、一夜すら共にしたが、決してマリアンヌの愛を手にすることはできない。

アンナ・カリーナはゴダールとの別れについて「ジャン=リュックと一緒にいると息がつまりそうなの」と語っている。
『気狂いピエロ』の撮影中、アンナ・カリーナは俳優のモーリス・ロネと恋愛関係にあった。ゴダールの元を離れ、新しい恋にはしゃぐ25歳の素顔もマリアンヌの自由な魅力を支えているとしたら言い過ぎだろうか。そして、アンナ・カリーナへのゴダールの未練もまた、彼女を一層美しく見せた要因だとしたら何と皮肉なことだろうか。

『永遠』の意味

全てに裏切られたフェルディナンはマリアンヌを射殺する。そして顔を青く塗り、ダイナマイトを持って絶望の叫びを上げる。その様は哀れな道化のピエロのようだ。フェルディナンの顔に塗られた青はダイナマイトの赤と黄色に合わせたものでもあり、また海と空の色でもある。海と空が何を表すのかはこの後にわかる。
フェルディナンはダイナマイトを顔に巻き付け、火を付ける。その瞬間、我に返り火を消そうとするも間に合わずに爆死する。カメラは長回しになり、そのまま空と海を映し出す。(このラストは溝口健二監督の『山椒大夫』のオマージュと言われる。)そこにマリアンヌとフェルディナンの声でランボーの詩が重なる。

「見つかった/何が?/永遠が/海と融け合う太陽が」

太陽の光が海に反射し、空と海の境界線は曖昧に消えて行く。冒頭のエリー・フォールの『美術論』にあるベラスケス論が画となって反復される。
空と海は永遠を表している。フェルディナンとマリアンヌはすれ違い続け、変わり続けて破滅する。だが、ゴダールは二人に「永遠を見つけた」と言わせる。
フェルディナンは死の先に束の間の永遠を見ただろうか。愛する者を失ってなお生きるのは地獄とも言えるだろう。ちなみにこのラストシーンで語られるランボーの詩は『地獄の季節』に収められた『永遠』という詩だ。

『ランボー全詩集』から宇佐美斉氏の訳で全文を紹介しよう。

また見つかった
何が? 永遠
太陽と溶け合った
海のことさ

ぼくの不滅の魂よ
おまえの誓いを守るがいい
独り身の夜と
燃える昼にはおかまいなしに

従って 世間の評判からも
月並みな方向からも
己れを解き放って
気ままに飛んでゆくがいいのだ……

望みもなければ
復活の祈りもない
学問と忍耐 つまりは
責め苦こそが必定だ

また見つかった
何が? 永遠
太陽と溶け合った
海のことさ

『永遠』の全文を読むと死が何を意味するのか、死と永遠の関係がおぼろげにでも見えてくる。

また個人的にはこのランボーの詩の主体はフェルディナンとマリアンヌではなく、ゴダールではないか?とも思う。つまり、フェルディナンが爆死した後のランボーの詩の朗読のシーンは『気狂いピエロ』自体のカーテンコールではないかと思うのだ。
よくある歌詞のように忘れ得ない日々を永遠と呼びたくなることは誰にもあるはずだ。どうしても時間は過ぎ去る。だからこそ永遠を見つけようとする。見つかるはずのない「永遠を見つけた」のはゴダールの夢だったかもしれない。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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