『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』はなぜ炎上したのか?「大人になれ」の是非

※以下の考察・解説には映画のネタバレが含まれています


シン・ゴジラ』以来7年ぶりとなるゴジラ映画の新作が発表された。『ゴジラ-1.0』だ。
だが、『ゴジラ-1.0』の監督の名前に一部の映画ファンはざわついた。

そこにクレジットされていたのは山崎貴。

ゴジラ-1.0』の予告編はまさに山崎貴らしいものだった。CGをふんだんに用いてゴジラという怪獣の驚異を出来る限りリアルに描こうとしているのがわかる。クオリティの高さと演出は今までの日本の特撮映画としてのゴジラ映画ではなく、海外の『ゴジラ』シリーズを日本に落とし込んだような印象だ。
ではなぜ山崎貴は批判されたのか。今回はその原因となった作品『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』を観てみよう。

『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』

『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』は2019年に公開された山崎貴監督のアニメ映画だ。声の出演は佐藤健、有村架純らが務めている。
公開当初から『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』は炎上した。『プライベート・ライアン』の冒頭は映画史に残る20分と称賛されたが、『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』のラストは悪夢の10分間と呼ばれた。

悪夢の10分間

確かにラストまでは素晴らしい。目を見張るほどハイクオリティなアニメーション、主人公の恋愛や成長、父と子の物語など観るべき所も多く、飽きさせない。「物語をはしょりすぎている」「演技がわざとらしい」との批判もあるが、元々のゲームを全くプレイしたことのない私は大して気にはならなかった。演技で言うなら海外のCGアニメのわざとらしさに比べれば遥かにマシだ。

物語の主人公はリュカという少年だ。彼の幼年期は導入部としてファミコン画面風のダイジェストとして説明されているに留まるのだが、そこでは幼なじみのビアンカやヘンリー王子とお化け退治をしたこと、母のマーサが魔物にさらわれ、それ以来リュカと父のパパスは二人で旅をしていることなどが述べられている。

物語はリュカの青年期から本格的に始まる。目の前で父親のパパスを殺されたリュカはヘンリーともにゲマの奴隷となり、10年もの間苦しい生活を強いられていた。そんな中、奴隷仲間の一言によってヒントを得たリュカとヘンリーはゲマの城からの逃亡に成功。ヘンリーは自分の国、ラインハルト王国へ向かい、リュカとは別れる。
自分の家に戻ったリュカはそこにあった父の日記から、天空の剣と勇者を探し出せれば母を救い出せることを知る。母のマーサはミルドラースの手下で魔法使いのゲマに捕らわれていた。マーサは天空人であり、ミルドラースを召喚するには天空人の力で魔界の門を開ける必要があったのだ。
父の意志を継ぎ、リュカは母を救うために旅に出る。リュカは旅の途中でサラボナという街に着く。天空の剣はその町にいるブオーンというモンスターが持っていることがわかる。町の大富豪であるルドマンからはブオーンを倒せば天空の剣と娘のフローラと結婚できるという条件でリュカはブオーンに挑む。ブオーン退治の最中に幼なじみのビアンカと再会したリュカは、ビアンカと協力してブオーンを退治し、天空の剣を手に入れる。だが、どうしてもリュカは鞘から剣を抜くことができない。勇者はリュカではなかったのだ。
フローラと結婚する直前までいってリュカは自分の本心はビアンカに惹かれていることに気づく。そしてビアンカと結婚し、子供のアルスが生まれるが、リュカとビアンカはゲマに襲われ、石に変えられてしまう。

8年後、成長したアルスの手によってリュカは人間に戻る。しかし、その時アルスたちの前にモンスターの群れが現れる。とっさにアルスに天空の剣を渡してしまったリュカだが、アルスは剣を鞘から抜き、モンスターらを蹴散らす。実は子供のアルスこそが伝説の勇者だったのだ。
アルスとリュカらはゲマに捕らえられた母のマーサとビアンカを助けに向かう。マーサは自身が犠牲になり、魔界の門を防ごうとする。だがゲマはマーサの遺体を使って魔界の門を開く。そして降臨したミルドラースだったが、その正体はミルドラースそっくりの外見を持つコンピューターウイルスだった。

ん?

唐突にラスボスがゲームの内容とは無関係なものになってしまうのだ。
そのウイルスを作ったプログラマーはドラクエ嫌いでウイルスを介して主人公に「大人になれ」と語りかける。
ゲームが壊されそうになる瞬間、ずっと同行していたスライムの正体が実はアンチウイルスプログラムであることが明らかになる。そして、リュカはロトの剣の形をしたワクチンを手に入れ、ミルドラースを倒す。

ゲームと映画の相性

監督の山崎貴は何度も自身への監督の要請を固辞したという。
「映画とゲームは相性が良くない」
確かにゲームの映画化でヒットした作品はあまり聞かない。2001年に発売されに公開された『FINAL FANTASY』は『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』同様にフルCGで製作されたが、100億を超える制作費に比べ、興行収入はその10分の1にも達せず、記録的な大赤字の作品となった。
映画業界でヒットの目安は興行収入10億円だとされている。『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』に関しては14.2億となり、そこのラインはクリアしているのだが、やはり批評的には厳しい意見が目立つ。

山崎貴はラストで全てがゲームの世界だったと明かされるアイデアを思い付いたことがきっかけで『ドラゴンクエスト』の映画化に前向きになったのだが、結果として観客からは支持されたとは言い難い。それはなぜか考察してみよう。
一つは今の時代におけるゲームの位置付けの錯誤、そしてもう一つはこの映画の観客が期待する「ドラクエ映画 」とは何かということだ。

観客が期待したドラクエ映画

『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』はゲームに夢中になる大人を否定した作品ではない。むしろゲーム肯定派だ。ゲームの世界は虚無だとミルドラースは言うが「ちがう、もう一つの現実だ」とリュカは叫ぶ。
だが、ドラゴンクエストの世界観に没入しているときに唐突に「これはゲームです」と言われるのはキツイだろう。
主人公はリュカではなく中年のサラリーマン。彼が最新鋭VRマシンで体験しているのが『ドラゴンクエスト エクスペリエンス』であり、リュカは彼が選択した主人公の名前だ。
私自身は全くゲームをやらないので、『ドラゴンクエスト』シリーズへの思い入れはない。しかし、例えばゴジラ映画のクライマックスで着ぐるみを脱いで「中の人」が「いつまでもゴジラばかり観てるんじゃない、大人になれ」と話しかけてきたら…そう考えると『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』が炎上したのもわかる。

「大人にはもうなってる」

そもそも大前提としてゲームにハマる大人=子供ではない。
もちろん昔は違っただろう。
1982年に発売された『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の22巻では大原部長がゲームに夢中な両津を指してこう言う。
「30過ぎた男がオモチャに夢中になっている姿のどこが魅力的だと思うのかね?」
40年前の大人たちにとって、ゲームはそんなものだった。
だが、時代は変わった。
当たり前に大人の趣味のひとつとしてゲームがあるだけのことだ。そんな彼らに「大人になれ」と言ったところで返ってくる返事は「もう大人になってる」しかないだろう。

『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』の原作は1992年に発売された『ドラゴンクエスト 天空の勇者』だ。
恐らく映画館へ足を運んだのは当時『ドラゴンクエスト』シリーズを楽しんだ世代の大人たちだ。束の間のオフの時間にさえそんなことを言われては怒りたくなる気持ちもわかる。
もちろん制作者サイドのメッセージとしては「ゲームにだって価値はある」というゲーマー賛歌なのだが、今やeスポーツなどもある時代だ。ゲームは大人の職業選択の一つにもなった。そんな時代において、ゲームに価値があるかどうかや、大人になってもゲームをなやり続けることに対しての是非は本来議論にすらならないテーマなのだ。

加えて『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』にそれまでのストーリーの前提をひっくり返すようなどんでん返しが待っているとは観客の誰も予想もしていなかっただろう。
今の時代の中では古臭くなった問題提議、そしてそれまでの映画の世界観をすべて壊してしまうラスト、これらが『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』が炎上した理由ではないか。

一方ネット上には「『ドラゴンクエスト』のような人気作でやるから炎上する。全くのオリジナルゲームの設定でやればよかったのに」という意見もある。だが、それこそ今の時代には難しくはないだろうか。

今の時代のゲーム

近年の映画でゲームをテーマにした『レディ・プレイヤー1』、『竜とそばかすの姫』を取り上げて、今の時代のゲームとは何かを考えてみたい。
『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』には2018年に公開された『レディ・プレイヤー1』の影響も感じる。『レディ・プレイヤー1』は仮想現実世界であるOASISを舞台だ。OASISに隠された3つのキーを探し、イースターエッグと呼ばれるアイテムを獲得することで、OASISの運営権と創業者ジェームズ・ハリデーが遺した大金を得ることができるアノラックゲームに参加する少年らを描いた作品だ。
いつもリュナに付いてきていたスライムが実はアンチ・ウイルスプログラムだったというのは『レディ・プレイヤー1』の結末とも通じるものがある。『レディ・プレイヤー1』の結末ではゲーム内でいつも主人公をサポートしてきた図書館の案内人が、実は共同創業者のオグデン・モローであったということが明かされる。
だが、現実世界とゲームの仮想現実をインタラクティブに描いているという点でこの2つの作品は異なっている。『竜とそばかすの姫』もそうだ。

現実世界とのつながり

日本でも2021年に細田守監督の『竜とそばかすの姫』が公開された。同作はUという仮想現実の世界が舞台の一つとなる。友達に誘われてUに参加した主人公の鈴はその歌声で「ベル」としてUの中で絶大な人気を集めていく。『レディ・プレイヤー1』でもプレイヤーはゲームの世界を通じて様々なユーザーとコンタクトをとったり、タッグを組んで共闘することも可能だ。
これらの作品の特徴としては、ゲーム自体が他者とのつながりをダイレクトに反映するものであり、SNS的な側面も持っているということだ。
SNSの登場は『天空の花嫁』が発売されるはるか後のこと(『天空の花嫁』の時代にはインターネットすら存在しないと言っていいほど普及していなかった)。だからこそ、当時のRPGはあくまでも 「一人で没頭する」タイプのゲームだ。
『レディ・プレイヤー1』は興行的にはもちろん、批評的にも高い評価を得た。そのメッセージは「ゲームにも価値はあるが、現実も大事にしよう」と言うものだった。そのメッセージ自体は陳腐かもしれないが、OASISの中毒性が現実世界に悪影響を及ぼすほど強いものであるということが冒頭に示されている。だからこそ、そのメッセージは活きてくる。

またSNS系のゲームの特徴としては、基本的にゲームの中のキャラクター(ユーザー)は現実世界のどこかに存在しているということも挙げられる。だからこそ、現実世界もまた冒険の場所として描くことができる。『レディ・プレイヤー1』、『竜とそばかすの姫』のゲームそのものはもっと先の時代のテクノロジーだろうが、現実とのつながり、他者とオンラインを通じてつながるという意味では今の時代のゲームと同じだ。
だが、『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』は現実の部分を掘り下げることはしない。リュカのキャラクターは魅力的だが、リュカをプレイしている本当の主人公には個性を感じない。世の中にゴマンといるだろう、『ドラゴンクエスト』に熱中した思い出を持つ中年男性の平均的なイメージ像を投影しただけのように見えるのだ。これはなぜだろう?

ユア・ストーリー

『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』のユア(your)とはリュカでもビアンカでもなく他ならない観客自身のことを指している。
リュカの声を演じた佐藤健は映画の公式サイトに次のようなメッセージを寄せている。
「この物語の主人公は僕が演じた”リュカ”ではなく、紛れもなく今の時代を生きる”あなた”なのですから」
つまり、誰にでも当てはまるような出来事の平均を採らなければ、誰も『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』の名もなき中年の主人公に自分を投影できない。だが一方で個性の薄さゆえに観客は「そんなこともあったなぁ」以上の感情をこの本当の主人公に抱けなかったのではないか。

あのクライマックスの良さ

今まで否定的な意見を書いてはきたものの、個人的に『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』は純粋な映画としてかなり楽しめた。
映画ファンには出来の悪い映画を観て「どれだけ最低な作品か楽しむ」という趣味の者も少なくない。アカデミー賞と対をなすゴールデン・ラズベリー賞(ラジー賞)がその最たるものだろう。
私も『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』を観ようとしたきっかけは同じだった。最後の10分がどれだけひどい展開なのか、冷やかし半分で観てみようと思ったのだ。そして、運がいいことに私は『ドラゴンクエスト』をプレイしたことがなかったので、絵柄もストーリーも何の先入観、思い入れなしで観ることができた。だからこそ、この作品を楽しむことができたのだと思う。
クライマックスも事前に分かっていれば、そういうものだと思って観ることができた。
そういう意味では劇中に分かりやすいヒントはほとんど存在しない。ただ、実は劇中にはこれがゲームの世界であり、キャラクターもプログラムであることが示すヒントがわかりづらいが、いくつか散りばめられている。クライマックスでその伏線回収が行われるわけだが、これも本当の主人公がゲームキャラ(リュカ)ではなく、そのプレイヤーでなければ成立しない。その意味でもこの設定はうまく活かされていた。
特にリュカがどうしてもフローラと結婚すると決めている場面だ。リュカはそう決めているのだが、その明確な理由は明かされない。ただフローラが美しく、 男性たちの羨望の的であることから、リュカもその一人であることは容易に見てとれる。
だが、本当はプレイ前に「フローラと結婚する」という自己暗示プログラムを選択していたことがわかる。

ビアンカ・フローラ論争

ここでちょっと余談。『ドラゴンクエスト 天空の花嫁』にはフローラとビアンカ、どちらと結婚するかというプレイヤーを悩ませる選択があったという。
これは「ビアンカ・フローラ論争」と呼ばれている。
本来であればフローラを選ぶ自己暗示プログラムをかけているのであれば、きちんとそれを履行することが、ゲーム提供側の役目ではあるが、フローラとビアンカのどちらを選ぶか悩む主人公の気持ち、つまり「ビアンカ・フローラ論争」を観客にも体験させるためにあえてビアンカを選ぶストーリーが採用されている。

勇者は僕だった

話を戻そう。自分がリュカのプレイヤーだと気づいたことで、エンディングにも変化が訪れる。ゲームのエンディングはクリアした達成感で満ち足りた瞬間だと思うが、『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』には本来は見当たらない哀しさやせつなさがある。それはやはりどんでん返しのクライマックスにしなければ生まれなかったものだ。
そして、主人公(リュカ)はこう呟く。

「勇者は僕だったんだ」

『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』の根底は自己肯定の映画だったのだ。
だが、そのメッセージを伝える手段に問題があったということではないか。
『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』はゲームの世界を通して私たち一人一人を認めようとした。そのポジティブさだけは誰にも否定しようがないのではないだろうか。

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BLACK MARIA NEVER SLEEPS.

映画から「時代」と「今」を考察する
「映画」と一口に言っても、そのテーマは多岐にわたる。
そしてそれ以上に観客の受け取り方は無限大だ。 エジソンが世界最初の映画スタジオ、通称「ブラック・マリア」を作った時からそれは変わらないだろう。
映画は決して眠らずに「時代」と「今」を常に映し出している。

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